第21話
月曜日の昼休み。俺はいつも通り用務員室の戸を開いた。
「待っていたぞ」
部屋の奥からハナコさんの声が聞こえる。
隣の席では、俺より少し早くに来たらしい凛音が、机の上で弁当箱を開けていた。
「いつまで突っ立っている。報告はどうした?」
ハナコさんに報告を催促された瞬間、俺は確信した。
やはり、間違いない。俺はこの景色を既に一度見ている。
「――記憶が消えた」
目を見開き、硬直する二人へ俺は告げる。
「和花さんに関する記憶が消えた。……俺は、同じことを繰り返していた」
先週の俺は、先々週の俺を再現していた。何が引き金になっているのかは不明だが、俺は土曜日の夜を越すタイミングで、和花さんに関する記憶を消されていたのだ。
しかし一昨日の夜……二度目の記憶消去は、俺の体質によって無効化できた。その際、一度目に消された記憶も蘇ったらしい。
「よくやった、御嵩悠弥」
ハナコさんは唐突に俺を賞賛した。
「正直、神痕を引き寄せるという能力だけでも十分だと考えていたが、期待以上の成果だ。お前の体質は貴重なだけでなく、有用であることが証明された。それも私の想像以上に」
手元にある書類や物を机の端に寄せ、ハナコさんは言う。
「座れ。全てを語る」
全ての作業を中断して、ハナコさんは俺に着席を命じた。
椅子に腰を下ろす。隣では凛音がまだ硬直していた。
「――
ハナコさんは語り出す。
「先程お前は、記憶が消えたと言っていたが、厳密には少し違う。消えたのは縁だ。……静真和花はその祟りによって、他者との縁を保つことができない」
「縁って……良い人間関係とか、そういう意味ですよね?」
「縁に善し悪しはない。悪縁や因縁という言葉もあるしな。まさに合縁奇縁だ」
仲が良い縁もあれば、仲が悪い縁もあるということか。
「良い意味でも悪い意味でも、静真和花は自分にとって特別な人間を作ることができない。特別な人間が現れると、その直後に祟りが発動し、赤の他人に戻ってしまう」
「……ちょ、ちょっと待ってください」
震えた声が、唇から漏れる。
「特別な人間って……たとえば友人とか、恋人とかって意味ですか?」
「まあ、そうだな」
「……じゃあ和花さんは、誰かと仲良くなる度に、縁を消されていたんですか?」
俺は別に、和花さんの恋人になったわけではない。
俺はきっと和花さんの友人になったのだ。しかし、ただそれだけで……たったそれだけのことでも、特別な人間に該当してしまうのだとしたら……。
「そういうことだ。静真和花は親しい相手を作れない、いわば孤立を強いられた人間だ」
告げられたその言葉に、俺は思わず唇を噛んだ。
――なんてことだ。
和花さんの友人になった俺は、祟りの効果で一度、記憶を失った。
それは……俺だけではないのだろう。
きっと和花さんは、今まで幾度となく誰かと仲良くなり、そして俺の時と同じように記憶を失ってしまったのだ。
あれだけ優しい人なのに。
あれだけ魅力的な人なのに……誰かの記憶に留まることができない。
そんな理不尽があるだろうか。
「……なんで、和花さんはそんな祟りを」
怒りの矛先を探すかのように、俺は震えた声で訊いた。
「端的に述べるなら、縁結びの神に無礼を働いたからだ」
縁結びの神。神道に詳しくない俺でも聞き覚えのある単語だ。
恐らくメジャーな神なのだろう。多分、恋人同士が好んで足を運びそうな神社に祀られているような神だ。ハート型の絵馬や運命の赤い糸を連想する。
「凛音が、
「……はい」
「凛音の姉である静真和花も、同様の力を生得的に所持している。だが……その力は凛音の何十倍にも及ぶ」
それは、つまり――強いということか。
凛音よりも、和花さんの方が、強大な力を宿しているということだ。
「七年前。静真和花が十歳の頃、静真家は家族旅行で白山神社を訪れた。その際、祭神である縁結びの神・
ハナコさんは語る。
「そうとも知らず、静真和花は神事である巫女舞に参加してしまう。舞をすること自体に問題はなかったが……不運なことに、彼女は舞の手順を誤ってしまった。結果、歪な巫女舞を見せつけられた
「……それが、祟りになったと」
「ああ。……
「……でも、ハナコさんと凛音は、和花さんのことを知っていますよね?」
「知識として覚えているだけだ。面識はない。……会えば忘れてしまうからな」
淡々とハナコさんは言った。
「私と凛音は毎晩、学校の屋上で、この祟りによる歪みを修復している」
「歪み……?」
「縁解きによって静真和花の記憶が消える際、彼女が行ったことは最初から行われなかったこと、または他の誰かが行ったことに書き換えられる。……心当たりはないか?」
「……あります」
俺が写真部に仮入部してからの出来事は、全て無かったことにされていた。放課後、街で写真を撮ったことも、休日にショッピングモールに行ったことも、全てを忘れていた。
「この世界は緻密な法則の上に成り立っている。しかし祟りはその法則を無視して、本来起こり得ない現象を引き起こしてしまう。その結果、生じるのが世界の歪みだ。……歪みは、法則に従って生きている生命にとっての毒を……即ち瘴気を生み出す」
神妙な面持ちでハナコさんは続ける。
以前、俺が屋上で見た黒い瘴気。あれは、世界が歪められた時に発生するらしい。
「縁解きの場合、記憶の辻褄合わせが起きる瞬間に歪みが発生する。……実に厄介な祟りだ。放置すれば何処までも拡大してしまう恐れがある」
「何処までもって……祟りの被害は、和花さんと関わりのある人だけじゃないんですか?」
「違う」
はっきりと、ハナコさんは否定した。
「お前、静真和花からデジカメを貰っただろう。祟りを受けた後、その記憶はどうなった?」
「……そう言えば、和花さんではなく、他の知人から貰ったことになっていました」
「つまり、その知人の中でも辻褄合わせが起きたわけだ」
ハナコさんの説明を聞いて俺は思わず「あっ」と声を漏らした。
見落としていた。
雅人は和花さんと完全に無関係というわけではない。だが、デジカメの件は完全に俺の事情である。この件について、雅人は関係がないにも拘らず当事者となってしまった。
雅人だけではない。土曜日に和花さんと一緒に入った鳥カフェの店員も同じだ。あの店員は最初、俺たち二人が以前も店に来ていたことを覚えていた。しかし俺たちと会話するうちに記憶が改竄され――最終的には、初対面であるという辻褄合わせが発生した。
「縁解きは伝染する厄介な祟りだ。しかし……漸く、原因療法に取りかかれる」
これまでに積み重なった疲労を、深い呼気と共に吐き出しながら、ハナコさんは言う。
「静真和花と
神痕の原因。即ち、神との繋がりを改善する。いよいよそのステップに突入した。
「悠弥。お前は再び静真和花と接触して、事情を全て説明しろ。どうにか状況を理解させ、協力してもらえ。これは彼女と縁を保てるお前にしかできないことだ」
「わ、分かりました」
今までとは違う具体的な指示に、俺も漸く、事態が終息に向かっていることを実感した。
「焦る必要はない。寧ろ、ここからは長期戦になるぞ」
「長期戦、ですか?」
「神の機嫌を取るのも、そう簡単ではないということだ。特に、最初から怒り狂っている神が相手となると、こちらも慎重に動かざるを得ない。二次災害は避けたいからな」
慎重に動かなければ、また神の機嫌を損ねるかもしれないということか。
言われた通り、焦らずに行動しよう。
「私は
ハナコさんが言う。しかし凛音は俺の隣で、沈黙していた。
「凛音、返事はどうした」
「は、はいっ。分かりました」
少し遅れて凛音が返事をする。
その後、予鈴が鳴る前に俺たちは解散した。
俺と凛音は用務員室を出て、教室に戻る。
「凛音、どうかしたのか?」
「……いえ」
伏し目がちに返事をする凛音は、明らかに様子がおかしかった。どこか落ち込んでいるように見えるが……その原因は分からない。
「姉さんの祟りは、解消するかもしれないんですよね……?」
「ハナコさんの言葉を信じるなら、そうなるな」
「……そう、ですよね」
俯く凛音に、俺は首を傾げる。
長い間、症状を和らげることしかできなかった姉の祟りが、漸く解消されるのだ。
本来なら喜ばしいことなのに――何故か凛音は、あまり嬉しそうには見えなかった。
「では先輩。私はこちらなので」
「ああ、また後で」
凛音と別れ、俺も自分の教室に戻る。
「悠弥!」
「……雅人?」
席に着いて授業開始を待っていると、雅人が近づいてきた。
「悠弥、聞いてくれ。真面目な話があるんだ」
「話って……昼休み、もう終わるぞ」
「そうだけど、お前、朝は考え事があるとか言って何も聞いてくれなかったじゃねぇか。できれば放課後までには話しときたいんだよ」
今朝は和花さんの祟りについて考えることに必死だったのだ。
そのせいで、雅人の話は聞いてやれなかったが……。
「実はな、写真部にすんげぇ可愛い先輩がいるんだよ」
その言葉を聞いて、俺はこれから雅人が何を話すのか瞬時に察した。
「お淑やかで優しいお姉さんみたいな感じでさ。ちょっと浮世離れしているような――」
「――静真和花先輩のことか?」
雅人は目を丸くした。
「知ってんのか、悠弥?」
「まあな」
「だったら話が早い。実は俺、今日その先輩に告白してみようと思うんだよ」
その台詞を俺は何度も聞いていた。
しかし、雅人にとっては初めての決意なのだろう。
今までも雅人はきっと、和花さんへ無事、告白することができたのだ。しかしその記憶を奪われてしまうせいで、雅人は何度も何度も告白し直す羽目になっている。
良い縁もあれば悪い縁もある。ならば恐らく、良くも悪くもない縁だってある。
雅人と和花さんの間には、きっとそういう縁が生まれたのだ。雅人の告白を和花さんが受け入れたのかどうかは分からない。しかし和花さんの性格上、一度告白を受けたら暫くはその相手のことを意識してしまう筈だ。雅人にだけ感じる、その特別な意識が縁となる。
雅人も縁解きの被害者だ。なら、俺が成すべきことは――。
「今は、止めておいた方がいいんじゃないか」
「なんでだよ?」
「新年度が始まって、まだ一ヶ月だろ。部長なら色々と忙しい時期だと思うぞ」
「……確かに。言われてみれば、そうかも」
後少しで和花さんの祟りは解消されるのだ。なら、もう少しだけ待ってもらいたい。
雅人には、全てが終わってから改めて告白に臨んで欲しいと思う。
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