第14話
午後八時。和花さんと別れた俺は、再び高校に戻って用務員室を訪れた。
「来たか」
扉を開けると同時に、ハナコさんの声が聞こえた。
用務員室にはハナコさんと凛音がいた。いつの間にか部屋にはテレビが設置されており、ハナコさんはのんびりとテレビから俺の方へ視線を移す。
「私としては、朝帰りでも良かったんだがな」
「そういう関係じゃありませんって」
「そうか? 凛音から聞いた話だと、随分と仲睦まじくしていたそうだが」
凛音の方を見ると、咎めるような怜悧な視線が返ってきた。
「偶々、先輩たちの姿を見かけましたが……随分とイチャイチャしていましたね」
「いや……それは流石に、言い過ぎだろ」
「鼻の下、伸びてましたよ」
それは否定できない。自覚はなかったが、鼻の下は伸びていたかもしれない。
「昼休みに会った時もデレデレしていましたし……先輩はああいう人が好みなんですね」
「だから別に、そういうわけじゃ……って、なんか不機嫌じゃないか?」
「そんなことありません」
ぷい、と凛音は顔を逸らした。
「……それで、祟りの正体は分かりましたか?」
目を逸らしたまま凛音が訊く。
「正直、思い当たる点はないな」
「どんな些細なことでも構いませんよ。何か違和感はありませんでしたか?」
「……些細なことでも、か」
いきなり祟りの正体を言い当てることは難しくても、実は幾つものヒントと遭遇していた可能性はある。俺は今日の記憶を思い出しながら、ひとつひとつ答えた。
「学校を出る直前に、靴紐が切れたんだが」
「偶然です」
「休憩しようと思ったら石に躓いて――」
「偶然です」
食い気味に言われた。
「あの、念のため訊くんだが、真剣に聞いてくれているんだよな?」
「はい」
「…………お魚くわえたドラ猫を、追いかけてると――」
「先輩ふざけてます?」
「すみません」
頭を下げて謝罪する。凛音は真剣だった。
「もう少し具体的に説明してください」
「具体的にと言われてもな……」
記憶の片隅に追いやられた些細な出来事を、可能な限り鮮明に思い出す。
「あー……あれだ。街で写真を撮っていた時なんだが……その、和花さんって結構活発に動き回るから、カメラを構える時とかに、わりとスカートが捲れていてだな」
「通報します」
「不可抗力だろ!」
できるだけ目を逸らしたのに。
「他には何もないんですか?」
「……なんかこれ大喜利みたいになってないか?」
ネタを提供しているわけじゃないんだが。
「あ……そう言えば、学校へ帰って来る途中で犬の糞を踏んだな」
「偶然です。というかそれは先輩がドジで間抜けなだけで……あっ!? な、なんでこっちに来るんですか! 近づかないでください!?」
誰がドジで間抜けだ。大体、今は上履きを履いているので問題ない。
「……進展はなさそうだな」
ハナコさんが溜息混じりに呟く。
「悠弥、今後の予定はどうなっている?」
「次の土曜日に、和花さんと外出するつもりです」
「ほう、今度こそデートか」
「デ……いや、だから部活ですって」
口ではそう言いつつも、頭の中では違うことを考えていた。
確かにこれは……デートなのか? 放課後の活動ならともかく、休日に男女二人だけで待ち合わせて出かけるというのは、デートと表現しても良いのではないだろうか?
「悠弥、手を出せ」
「……? はい」
「お前にはこれをやろう」
そう言って、ハナコさんが俺の手に載せたのは、
「いっ!? いち、一万、円……ッ!?」
あまりの眩しさに俺は目を閉じた。
大金だ。薄い紙切れの筈なのに、とてつもない重量を感じる。
「軍資金だ。デートは何かと金がかかる。そのくらい持っていた方が安全だろう」
「こ、こんな大金、受け取れません!」
「ただで渡しているわけではない。これは経費だ」
「け、経費って言われても、流石にこれは……」
「……融通が利かん奴だな。ならその一万円は給料の前払いということにしよう」
反論の余地が潰された。そう言われると、俺としても受け取るしかない。
「……ありがとうございます」
「礼は行動で示せ。デートを必ず成功させろ」
「いや、だからデートでは……」
苦笑する俺に対し、ハナコさんは深く椅子に座り込み、顔を顰めた。
「私はお前に、静真和花と親密になれと言ったんだ。つまり……親密になることで祟りに近づけるという意味だ。お前たちが乳繰り合うのは私にとっても都合が良い」
確かに、親密になれという指示に従うなら、デートに臨むくらいの気持ちでいいのかもしれない。だからハナコさんも執拗に、俺の意識を色恋沙汰へ向かせているのだろう。
「凛音。同世代の異性として、これからデートへ臨む悠弥にアドバイスでもしてやれ」
ハナコさんが凛音を見て言う。確かに凛音のアドバイスは役に立ちそうだ。
しかし、そんな俺の期待とは裏腹に、凛音は自信なさげに口を開く。
「……………………遅刻に気をつければ、いいと思います」
「……そんなふんわりとしたものではなく、もっと実用性に富んだアドバイスをしてやったらどうだ。お前もデートの経験くらいあるだろう」
ハナコさんの言葉に、凛音は俯きながら答えた。
「…………ない、です」
「なに?」
「だから…………ない、です」
先程と比べて、少しだけ大きな声で凛音は告げた。
それを聞いた途端、ハナコさんは口を噤む。
「俺が言うのもなんだが……経験、ないのか?」
「――悪いんですか?」
語気強く凛音が言った。
やばい、キレてる。
「今までの人生で一度も、これっぽっちも、全くデートなんてしたことありませんが? 何か悪いんですか?」
恥という感情が一周回って怒りに転化したらしい。
怒気を孕んで言う凛音に、俺は鼻白みながら答えた。
「い、いや、その、意外だと思っただけだ」
「何が意外なんですか? そんなに私が灰色の青春を歩んでいることが不思議ですか?」
「そうじゃなくて……」
怒濤の勢いで詰問してくる凛音に、俺は言う。
「凛音は可愛いし……デートくらい経験があると思ってた」
本当は見た目だけなら可愛いと言おうとしたが、藪蛇になりそうなため少し言い換えた。
実際、凛音は天原高校の男子たちの間で既に人気である。雅人から聞いた話を思い出す。まだ幼さを残す外見ではあるものの、容姿端麗な上、性格も頭も育ちも良いと評判の凛音は、既に上級生たちの間でも密かに名が知れ渡っている。
「か、可愛いって…………」
顔を真っ赤に染める凛音を見て、俺は活路を見出す。
よし――この方向で押していけば、どうにか機嫌を取れそうだ。
「……そんな嘘で機嫌が良くなるほど、私は甘くありません」
「いや、本心からの言葉だって」
「う、嘘です。そんなの嘘です……先輩の言葉なんて信じません。だ、だって、今まで可愛いなんて誰にも言われたことありませんし……」
「鏡、見たことあるか? 雑誌のモデルとかと見比べてみろよ。凛音の方が可愛いって」
但しそのモデルは子役に限るが。
「そ、そう、ですか……」
もじもじと、凛音は恥ずかしそうに相槌を打つ。
「まあ、その…………せ、先輩にとっては、可愛いのかもしれませんね……」
頻りに髪を弄りながら凛音は言った。ちょろい。
別に主観的な話をしたつもりはないが、こうしていれば本当に可愛い。いつもの気の強さとのギャップもあって、少し動揺する。
そんな俺たちのやり取りを、ハナコさんは白けた目で見ていた。
「おい悠弥。恋人になれと言ったのは、妹ではなく姉の方なんだが……」
「わ、私と先輩は恋人ではありませんっ!」
林檎のように真っ赤な顔で、凛音は怒鳴った。
ハナコさんは凛音の怒声を物ともせず、テーブル上の置き時計に視線を注ぐ。
「凛音。そろそろ準備を始めるぞ」
そう言ってハナコさんは素早く立ち上がった。
二人はこれから仕事を始めるらしい。凛音は先程までの年相応の表情を捨て、気を引き締めた様子で「はい」と返事をした。
「悠弥、お前はもう帰れ。報告は月曜日に聞く」
「分かりました」
頭を下げて、踵を返そうとする。
しかし、てきぱきと手際よく何かの準備を始める二人を見て、俺は立ち止まった。
「あの……二人はこれから、祟りを抑える作業に入るんですよね? 何か俺に、できることはありませんか?」
「ない。というか邪魔だ」
バッサリと切り捨てられる。
落ち込む俺に、凛音が近づいた。
「先輩の役目は、祟りを受けて神の力を発動することです。その役割は先輩にしか果たせないんですから、それ以外は私たちに任せてください」
役立たずの烙印を押されて複雑な気分ではあるが、凛音の言う通りだ。
ハナコさんと凛音は、きっと俺が知らないもっと昔の頃から、この学校の屋上で和花さんの祟りを対処してきたのだろう。但しそれは対症療法……一時的な処置に過ぎない。
ハナコさんは、俺がいれば原因療法ができるかもしれないと言っていた。なら、俺の役割はここで二人を手伝うことではなく、もっと長期的に二人の助けとなることだ。
できれば俺も、早く彼女たちの力になりたい。
もう一度だけ考える。
俺は今日、和花さんと接していて何も違和感を覚えなかっただろうか。
「……ちなみにひとつ思い出したんだが、和花さんと街を歩いている最中に、車を洗っているおじさんに間違えて水を掛けられて――」
「偶然です」
断言される。多分そうだろうなとは思っていた。
「……そうやって、普通にあの人のことを話せている時点で、先輩が祟りを受けていないことは明らかなんですけどね」
凛音がボソボソと何かを呟いたが、考え事をしていたせいで殆ど聞こえなかった。
情報が足りない以上、いつまでもここで悩んでいても仕方ない。
二人を残して自分一人だけが帰ることには抵抗を感じたが、次の土曜日に向けて英気を養うつもりで、俺は用務員室を去った。
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