二章 神痕

第7話

 月曜日の朝。俺はいつも通り天原高校へ登校していた。愛用の自転車を駐輪場に停め、小学生の頃からずっと使い続けているボロボロの鞄を籠から出す。

 登校時間はいつも通りの八時半。爽やかな朝日が心地よい。

 見慣れた風景。見知った人たち。一昨日の記憶が夢のように思えるほど、目の前にはいつも通りの日常が広がっていた。

 唯一、いつも通りでないのは、右ポケットに僅かな膨らみがあることだ。


「悠弥」


 下足箱から上履きを取り出すと、背後から声を掛けられる。


「雅人か、おはよう」


「おう。って、なんかお前、機嫌良さそうだな」


「分かるか?」


 俺は不敵な笑みを浮かべ、右ポケットに手を入れた。


「聞いて驚け……俺はついに、スマホデビューしたぞ!」


「嘘だろ!? おっそ!!」


 やかましい。


「悠弥も漸くスマホデビューかぁ。じゃあライン交換しようぜ」


「ああ。どうすればいいんだ? 設定から赤外線通信を選べばいいんだっけか」


「……お前、思ったよりヤバイかもな」


 重篤患者を見る医者のような目で、雅人は俺を見た。

 御嵩家には、テレビもパソコンもない。文明が遅れている自覚はあったが、もしかすると俺は思っている以上に深刻な状態なのか……?


「スマホちょっと貸してみろ。アプリ入れてやるから」


「……そう言って、盗むんじゃないだろうな」


「盗まねぇよ!」


 心外だと言わんばかりに雅人は憤る。

 その時、雅人の後ろに見慣れた人物を発見した。

 凛音だ。

 先日と違い、今日の凛音は天原高校の女子制服を着ていた。上履きは赤色。どうやら彼女は後輩の一年生だったらしい。

 凛音はこちらの存在に気づくことなく、何やら困惑した様子で、目の前にいる女子生徒たちの集団を見ていた。声を掛けようとしているように見えるが、及び腰になっている。


 ……何か困っているのだろうか?


 そう思い、俺は凛音に近づいた。


「凛音」


 名を呼ぶと、凛音は――ぎょっとした表情でこちらを見た。


「どうした? 何か困っているように見えたが――」


「ちょ、ちょっとこっちに来てください!」


「へ?」


 焦燥に駆られた様子で凛音はこちらまで近づき、俺の腕を引っ張った。

 校舎の隅まで移動し、人の気配がない階段の踊り場に辿り着いたところで、凛音は漸く足を止めて俺を睨む。


「先輩……私、ついこの間に入学したばかりなんですよ?」


「それは、知ってるが」


「今はデリケートな時期なんです。あんな風に、上級生から親しげに呼ばれるなんて……悪目立ちして、友達ができなくなったらどうするんですか」


 視線を泳がせ、不安気に告げる凛音に、俺は疑問を抱く。


「凛音……もしかして、友達いないのか?」


「なっ!? そそそ、そんなことありません!」


 あからさまに凛音は動揺した。


「あー……そうか。さっきのあれは、困っていたんじゃなくて、頑張って声を掛けようとしていたのか」


「が、頑張ってませんけど!? 普通に声を掛けようとしただけです!」


「だいぶ挙動不審だったが……」


 見え見えの虚勢に、居たたまれない気持ちになる。


「か、仮に、私に友達がいなかったとしても、まだ入学から一週間しか経っていないんですから、べ、別に変なことではありません!」


「いや……一週間なら、そろそろ友達ができてもおかしくないだろ」


「そ、そんなこと、ありません……。これから…………これから、です」


 自分に言い聞かせるように、凛音は震えた声で言った。


「その、困ったことがあったら、いつでも呼んでくれていいからな?」


「……余計なお世話です」


 明らかに強がりだが、これ以上は突かない方が良さそうだ。

 凛音には、できるだけ優しくしよう。


「……ところで先輩、さっきは何をやってたんですか?」


「ん? ああ……折角スマホを貰ったし、ラインの交換っていうのをやってみたかったんだけど、やり方が分からなくてな」


「はぁ……ちょっと貸してください」


 凛音が手を差し出す。俺はその上に、自分のスマホを載せた。

 慣れた様子で凛音はスマホを操作する。


「これがラインです。ついでに私のIDも登録しておきましたから」


「お、おお。ありがとう。凛音はテクニシャンだな」


「その言い方はやめてください。このくらい誰でもできます」


 凛音が顔を顰める。

 淡々としているように見えるが、偶にこうして優しい一面も見せてくれる子だ。


「戻りましょう。そろそろ授業が始まります」


 凛音の言葉に頷き、俺たちは教室へ向かった。


「そう言えば、アドレス帳にハナコさんの番号とアドレスが登録されていたんだが、普通にこっちから連絡してもいいのか?」


「連絡するのは大丈夫です。ハナコさんは効率主義なので電話をオススメします。ほぼ確実に出てくれますが、くだらない用件だと怒鳴られるので注意してください」


 舌打ちと共に電話を切るハナコさんの姿が、ありありと目に浮かぶ。


「些細な報告だけならメールでも十分です。何かハナコさんに用でもあるんですか?」


「いや、用ってほどじゃないけど……一昨日から今日まで何もなかったから、この後どうすればいいのか聞きたかったんだ」


 そう言うと、凛音は考える素振りを見せる。


「……実は私も、今後の方針について聞かされていないので、少し気になっていました」


「凛音も聞いてないのか。……早速、電話してみるか?」


「そうですね。今日の昼休みにでも訊いてみましょう」


 話が纏まる。昼休み、頃合いを見てハナコさんに電話してみよう。


「電話などせずとも、直接訊けばいいだろう」


「まあそれが一番早いですけど――――って、うぉぉあっ!?」


「きゃあっ!?」


 不意に聞こえたその声に、俺と凛音は悲鳴を上げながら振り向いた。


「ハ、ハナコさん……」


 小さくその名を呟く。赤髪にスカジャンの女性、要天ハナコがそこにいた。

 どんだけ神出鬼没なんだ、この人は。

 トイレの花子さんよりこえーよ。


「なんで、学校にいるんですか……?」


「本日付でこの学校の用務員として働くことになった」


「そんな急に……」


「一昨日、急用があると言っただろう? このための手続きだ」


 じゃあ一昨日の段階でそこまで説明してくれよ。

 サプライズのつもりかと思ったが、本人はいつも通り平然としている。素だ、これ。素でこれからよ。先が思いやられる。


「凛音も、知らなかったのか……」


「……ハナコさんは、こういう人なんです」


 まだ朝だというのに、凛音は既に疲れ切った様子を見せていた。

 多分、俺も似たような状態だろう。


「昼休み、用務員室に来い」


 ただ一言だけそう告げて、ハナコさんは階段を下りていった。


「……俺たちも教室に戻るか」


「……そうですね」


 二人同時に深い溜息を吐いて、俺たちはそれぞれの教室へと戻った。

 教室に入ったところで予鈴が鳴る。授業が始まるまであと五分だ。


「悠弥、てめぇ! いつの間に、あんな可愛い後輩と知り合ったんだよ!?」


 席につくと同時に、雅人から怒鳴られた。

 面倒臭い絡み方だった。溜息を吐き、適当に考えた嘘を述べる。


「バイト先で知り合ったんだよ」


「本当か? くそ、羨ましい……あの子、静真凛音ちゃんだろ?」


「知ってるのか?」


「有志たちの調査によると、あの子が新入生の中でもぶっちぎりで人気らしい。見た目はまだ幼いが、間違いなく将来有望だし、入試の点数もトップクラス、更に性格もいいと評判だ」


「……性格もいい?」


 わりと敵を作ってしまいそうな性格だと思うが……その評判には首を傾げる。


「気が強いって話だが、それが一部の男子に大受けしているらしいぜ。誰にもなびこうとしない気高い感じがいいんだってよ」


 本人は寧ろ、誰かと仲良くなりたいと思っていそうだが……。


「あと、育ちもいいらしい」


「育ちって……」


「家柄がいいんだとよ」


 そう言えば一昨日、高級ファミレスで昼食をとった時、凛音は平然としていた。あの店のメニューはファミレスにしては高く、一般的な金銭感覚の持ち主でも少し遠慮する筈だが……家柄がいいというのは事実かもしれない。


「悠弥は放課後すぐにバイト行くから知らねぇだろうけど、あの子は二年生の間でも結構有名なんだぜ? ……というわけで、夜道には気をつけておけ」


「勘弁してくれ……そういう関係じゃない」


 その関係を説明することは難しいが。


「大体お前は年上の方が好きなんだろ?」


「まぁ、そうだけどよ。それはそれ、これはこれっていうか……」


 そんな風に呟きながら、雅人は徐々に真剣な面持ちとなった。


「悠弥、ちょっと聞いてくれ。真面目な話があるんだよ」


「なんだよ、改まって」


「実はな、写真部にすんげぇ可愛い先輩が――」


「――おっとチャイムだ。席に着け」


 真面目な話だって言ったのに! と文句を言いながら雅人は自分の席へ戻った。

 そう言えば……神事会の件ですっかり忘れていたが、雅人は以前、写真部の先輩に告白すると宣言していた。その結果はどうなったのだろうか。


 ……まあ、先程の態度から察するに、色よい返事は貰えなかったんだろう。


 雅人のことだ。告白が成功して付き合うことになったら、大袈裟に自慢するに違いない。

 詮索するのも可哀想だ。こちらからは何も言わずに、そっとしてやろう。



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