第3話

 午後十時。雲がない穏やか夜。


「お疲れ様でしたー」


 担任の仕事を手伝った後、俺は更に、学校の近所にあるファミリーレストランでバイトをした。勤務時間が終わったため、挨拶をして店を出る。


「あー、さっさと就職してー」


 駐輪所に停めていた自転車のロックを外しながら呟く。

 高校生になってアルバイトができるようになり、多少は金銭的な余裕ができた……と思いきや、そうでもない。二つ下の妹は今年、受験生だ。参考書や夏期講習にかかる金くらいは貯金しておきたい。それに、できれば妹には大学まで進学して欲しいと思う。食費や光熱費に加えて、それらの貯金を考えると、無駄に使える金なんて全くなかった。


 静かな夜。一軒家と小さなマンションが並ぶ通学路を進む。

 学校の正面を横切ろうとした時――ふと、視界の片隅に人影が映った。


「……ん?」


 自転車を止めて学校を見る。


 ――屋上に誰かいる?


 普段、学校の屋上は施錠されており立ち入り禁止になっている筈だ。

 不審者。その三文字が頭に浮かぶ。

 携帯電話を持っていない代わりに公衆電話の位置を記憶している俺は、すぐに通報を検討した。しかし次の瞬間、予想外のことが起きる。


「は?」


 思わず声を漏らした。


 ――今、誰か落ちなかったか?


 自転車を漕ぎ続けて温まっていた身体が、急速に冷える。

 辺りに誰かいないか確認する。しかしこの場には俺以外、誰もいなかった。


「ああ、くそ……なんで俺が第一発見者なんだよ!」


 自転車から降りた俺は、校門をよじ登り、校舎の方へと向かう。

 季節は春。入学式から丁度、一週間が経過した頃だ。

 新入生がクラスメイトたちに馴染めず絶望したあまり、飛び降り自殺を図ったのかもしれない。或いは三年生が受験の苦しみから逃れたかったのかもしれない。

 いずれにせよ、まずは屋上から飛び降りた人を見つけなければならないが――。


「……あれ?」


 一通り校舎の周りを探したところで、俺は首を傾げた。


 ――いない?


 誰も倒れていないし、誰かが落ちた痕跡すらない。


「見間違い……だったのか?」


 加速していた鼓動が少しずつ落ち着く。


 ――念のため屋上へ行ってみよう。


 ここまで来て中途半端に引き返すくらいなら、不安のもとを断ち切りたい。屋上に向かってそこでも何も見つからないようであれば、全ては俺の見間違いということにする。


 いつも通り下足箱から校舎に入ろうとするが、扉が施錠されていた。どうやって侵入するべきか考えながら校舎の周りを歩いていると、廊下の窓が開いていることに気がつく。

 窓から校舎の中に入り、足音を立てずに屋上へ向かった。

 屋上の鍵が開いていた。

 息を整えて、緊張を和らげてから、俺は扉を開いた。


「――誰ッ!?」


 扉を開けると同時に、甲高い悲鳴が聞こえる。

 屋上には――不思議な少女がいた。

 その少女は白い服と、緋色の袴に身を包んでいた。……巫女装束というやつだろうか。


 目鼻立ちは非常に整っている。ただ、美人と言うより可愛らしいと表現した方が適している外見だ。小柄で華奢な体躯に、あどけなさを残す容貌。中等部の生徒だろうか?

 いや、しかし。こんな夜中に学校の屋上で、巫女装束を着て突っ立っているなんて――。


「随分と、ハイレベルな不審者だな……」


「わ、私は不審者ではありません!」


 少女は顔を真っ赤にして怒鳴った。


「じゃあなんだよ。罰ゲームか? そんな無駄に本格的なコスプレして……」


「これはコスプレではなく正装です!」


「正装って……」


 一瞬しか見えなかったが、少女は優雅に踊っているように見えた。

 百歩譲ってそれがコスプレでなかったとしても、こんな時間帯に学校の屋上で踊り出すなんて……相当、重たい悩みを抱えているに違いない。


「と、とにかく、近づかないでください! 今、忙しいので少し離れて――」


 少女がそこまで言った次の瞬間、全身を寒気が覆う。

 夜の肌寒い風ではない。何か、嫌なものが途端に噴き出たかのような――。


「しま――っ!?」


 巫女装束の少女が焦る。直後、足元から黒い風が巻き上がった。


「なんだ、これ……?」


 夜の空よりも禍々しい風が、のたうち回る蛇のように荒れている。

 しかもその風は、俺の錯覚でなければ――校舎から放たれているようだった。


「あ、あぁ……そんな……っ!?」


 青褪めた顔で少女は立ち尽くす。

 刹那。少女の小さな身体が、風に吹き飛ばされた。


「きゃっ!?」


「――危ない!」


 少女がフェンスごと、屋上から落下する。

 その寸前。俺は屋上の縁から身を乗り出して、落下していく少女の腕を掴んだ。


「く、う……ッ!!」


 右腕に強い負荷がかかる。小柄な少女だが、流石に腕一本で持ち上げるのは難しい。気を抜けば自分も落ちてしまいそうだ。


「は、離して、ください……このままでは、貴方まで……っ!」


 必死に踏ん張っていると、少女が震えた声で言った。


「馬鹿かお前! そんなこと言ってる暇があったら、早く上がってこい!」


「……ッ」


 少女は目を見開いて、驚く。それから、ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をして、ゆっくりと俺の身体を伝って屋上へと戻ろうとした。

 しかし、その時、黒い風が再び吹き荒れる。

 背中に強い衝撃を感じた次の瞬間、俺と少女は宙へ投げ出されていた。


「……ぁ」


 浮遊感が全身を包む中、少女の唇からか細い声がこぼれ落ちる。

 恐怖のあまり目を閉じるその姿を見て、俺は思わず、少女を胸元に抱きかかえた。


「大丈夫だ」


「……え?」


「大丈夫」


 重力に従い、少女と共に地面目掛けて落下する。

 その時――。


『可哀想』


 不思議な声が聞こえた。


『あぁ、可哀想に』


『哀れな』


 次々と不思議な声が聞こえる。

 男の声がすることもあれば、女の声がすることも。少年の声や少女の声も聞こえる。




『――助けてあげましょう』




 その言葉が聞こえると同時に、落下中だった俺の身体はふわりと宙に浮き、そのまま緩やかに着地する。

 両足が地面に触れると同時に浮遊感が消えた。


「……ほらな?」


 抱きかかえていた少女を離して、笑ってみせる。


「今、のは……?」


「まあ、その、何というか、体質というか……」


 呆然する巫女装束の少女に、俺は言葉を濁した。

 俺にとってはよくある超常現象だが――――そう言えばこんな間近で、はっきりと第三者に目撃されたのは初めてかもしれない。

 怪我一つなく済んだのは良かったが……どうする? どう説明する?


「凛音!」


 怒声のように激しい声音が聞こえた。

 見れば、木々の間からスカジャンを羽織った赤髪の女性がやって来る。

 背が高いことも相まって随分と目立つ容姿だ。その女性は大きな歩幅でこちらに近づき、見開かれた瞳で辺りを見回した。


「なんだ、今のは? 急に神々の気配が膨れ上がって――」


 女性は俺の存在に気づくと同時に発言を止めた。


「誰だ、お前は」


 こっちの台詞だ――頭ではそう答えることができたが、口を開くことはできなかった。

 眼前に佇む女性から、恐ろしい迫力を感じる。


「それだけ多くの神に慕われるとは、ただの神職ではないな。しかし……流石の私も一級以上の神職は記憶しているつもりだが、お前の顔に見覚えはない。天然の霊能力者か?」


 神職? 霊能力者? 神に慕われる?

 この女性は何を言っているんだ?


「ち、違うんです、ハナコさん。この人はその、多分、私を助けてくれて……」


 巫女装束の少女の発言を聞いて、女性は訝しむように俺を見る。


「……確かに、刺客にしては間抜け面だな」


 多分、今、失礼なことを言われた。


「神職でなければ霊能力者でもない。となれば天然もの。それも、格別の力……」


 ブツブツと、目の前の女性は何かを呟く。

 やがて彼女はひとつの答えに思い至ったかのように、告げた。


「お前、まさか…………か?」


 やはり何を言っているのか分からず、俺は首を傾げた。

 女性は不審がる俺を無視して、大袈裟に笑う。


「ふははっ! そうか、そうか! 都市伝説だとばかり思っていたが、まさか実在しているとはな……どうりで神々が騒いでいると思った!」


 女性の大笑いは一分近く続いた。

 腹を抱えて笑い続ける彼女に、巫女装束の少女もきょとんとする。


「思わぬ拾い物だ。……お前、名は?」


「……御嵩悠弥」


 すぐに己の過ちに気づく。警戒心を失ってしまった俺は、つい本名を伝えてしまった。

 再び警戒する俺に対し、スカジャンの女性は不敵な笑みを浮かべる。


「では、悠弥。お前はこれから――私たちの仲間になれ」


「……は?」

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