一章 天照大御神に哀れまれた男

第2話

 午前八時半。爽やかな陽光が街を照らす朝。

 それが超常現象の類いであることは、いい加減、俺も理解していた。


「だ、大丈夫ですか!?」


 車の運転席から下りた四十代くらいの女性が、慌てた様子で壁にもたれかかっている俺の方へ駆け寄ってきた。


「はい、大丈夫です」


「で、でも私、その……ひ、轢きましたよね!? 貴方を!?」


「まあ、そうですけど」


 苦笑する俺の目の前には、倒れた自転車と、女性が運転していた一台の車がある。その車のフロントバンパーは激しく凹んでいた。明らかに何かと衝突した痕跡だ。

 なんてことはない、いわゆる余所見運転というやつだった。歩行者用の信号が青になったので、普通に自転車で横断歩道を渡っていると、急に横合いから車に突撃されたのだ。


「えっと、本当に大丈夫です。その……よくあることなので」


 よくある。そう告げると女性は目を丸くしたのち、一層心配そうな目で俺を見た。


 ……しまった。頭がおかしくなったと思われたかもしれない。


 こちらの無事をどう説明するべきか悩んでいると、後方から学校のチャイムが聞こえた。


「げっ」


 朝の予鈴だ。あと五分で教室に入らないと遅刻してしまう。


「すみません! 遅刻するので!」


「あ、ちょっと!?」


 困惑する女性の声を無視して、俺は自転車を起こして学校に向かった。


「あぁ……しまった。語弊があったな」


 俺にとってよくあることなのは、車に轢かれることではない。

 こういう事故が起きても、何故か助かることが、よくあるのだ。

 轢かれた際、軽く擦り剥いてしまったのか右腕の甲に傷ができていた。その傷が、不思議な光に包まれてみるみると修復されていく。


「あと、二分……っ!」


 一年と一週間前から通っている天原高校の門を抜け、すぐに下足箱へ向かう。

 二年四組の教室の扉を開けると、男性教師がニヤリと笑みを浮かべた。


御嵩おかさみ、ギリギリだな。あと一分で遅刻だったぞ」


「す、すみません……」


 肩で息をしながら謝罪する。クラスメイトたちの遠慮気味な笑い声が聞こえた。

 窓際にある自分の席へつくと、一限目、国語の授業が始まった。

 汗ばんだ身体を冷やすために、ノートをうちわ代わりに使いながら、窓の外へ視線を向ける。春の暖かな風を浴びながら、少しずつ気分を落ち着かせた。


 ――超常現象。


 少なくとも科学的に説明できない謎の現象が、俺の周りでは偶に起きる。

 だが俺は、その切っ掛けとなる出来事を、絶対に誰にも話す気がなかった。

 何故なら……あまりにも恥ずかしくて、情けないからである。


 ◆


 発端は、我が家の貧困にある。

 ある日、両親が蒸発してしまった御嵩家は、もう何年も前から貧乏に苦しめられていた。

 御嵩家に取り残されたのは、俺と妹の二人のみ。

 幸いだったのは、今までの貯金で、なんとか俺が高校生になるまで食費などを賄えたことだった。中学校を卒業すると同時に就職することも検討したが、それは当時担任だった先生と妹に猛反対された。就職後の収入は学歴で左右されることも多い。目標である高校に現役で合格できるなら、奨学金などを利用して通うべきだと熱心に説得された。


 二人の説得に応じて俺は高校に通う決意をしたが……その分、今に至るまでの日々は一層苦しいものとなった。


 二年前――中学三年生の時。

 俺は修学旅行で、三重県伊勢市にある伊勢神宮を訪れた。

 中学三年生と言えば受験戦争の真っ只中だが、同時に中学生活最後の一年間でもある。日頃受験勉強に苦しんでいる生徒たちも、この旅行中だけは明るく振る舞っていた。

 しかし、この旅行中、俺の頭には大きな悩みがあった。


 ――妹の誕生日が近い。


 旅行中、俺は何度も二つ下の妹のことを思い出していた。

 俺は長男で、兄だった。だからこそ不意に訪れた貧乏という理不尽にも耐えねばならないという使命感があった。


 だが妹は、度々その理不尽によって耐え難い苦痛を感じていた。具体的には、学校で虐めに遭っていたのだ。――当たり前である。給食費が払えないから一人だけ弁当を学校へ持っていく羽目になり、更にサイズが小さくなった体操着も、新品を買うことができないから俺の古着で代用する羽目となった。こうも悪目立ちすれば虐めの標的にも成り得る。


 そんな妹が唯一、幸せそうに笑みを浮かべてくれるのが、誕生日だった。

 妹の誕生日にはいつもケーキをプレゼントしていた。三百円足らずの安いケーキだが、それでも妹は嬉しそうに「ありがとう」と言ってくれる。

 だから今年も、妹にはケーキを買ってやるつもりだった。しかし――。


 ――なんでこのタイミングで値上がりするんだよ。


 店の経営が赤字になったのか、今まで通りの値段ではケーキが買えなくなってしまった。

 一応、妹と相談した末に俺はこの旅行に参加していたが、こんなことになるなら欠席するべきだったかもしれない。俺にとっては旅行より妹の誕生日の方が大事だ。修学旅行の費用はそれなりに高いため、これを欠席したらかなりの余裕が生まれていた。


「こちらは正宮のひとつである、皇大神宮です。ここには、日本の最高神である天照大御神が御祭神として祀られています」


 ツアーガイドの説明に、生徒たちは「へぇ」と適当な相槌を打つ。

 生徒たちが並び、賽銭箱に小銭を投げ入れた。

 俺は小銭しか入っていない財布の中から、一円玉を取り出そうとする。


「そりゃ!」


「うおっ」


 突然、横から掛け声のようなものが聞こえて驚愕する。見れば、クラスメイトの男子が悪ふざけで野球のピッチングのように小銭を投げていた。

 暢気に旅行を満喫できて羨ましいな……そんな気持ちと共に、小銭を投げる。

 次の瞬間――俺は過ちに気づいた。


「あっ!?」


 チャリン、と音を立てて小銭が賽銭箱に入った。

 その直前、俺は見てしまった。――俺が今、投げたのは、一円玉ではなく百円玉だ。

 先程、驚いた際に誤って百円玉を手にしてしまったのだ。


「御嵩、どうかしたのか?」


「お、おお、俺の百円が……」


「百円? お前百円も入れたのか? 太っ腹だなぁ」


 男子はケラケラと笑いながら踵を返した。だが、俺にとっては笑い事ではない。


 ――冗談じゃない。


 自分の顔が青褪めていくのが分かる。

 数日ほど食事を抜きにすれば、妹の誕生日までにはケーキ代が手に入ると思っていた。しかしここで百円の出費は洒落にならない。このままではケーキなんて買える筈もない。

 ツアーガイドの提案により、暫く休憩することになった時。


「あの、すみません。トイレに行きたいんですが……」


 俺は担任の教師にトイレへ行くことを伝え、一人で生徒の集団から抜け出した。

 行き先は勿論、トイレではなく先程の賽銭箱だ。なんだかよくわからない神様を祀っているようだが、俺にとってはそんなものより、とにかく金である。

 幸い、賽銭箱の周囲には誰もいなかった。

 今なら――取り戻せる。


「俺の……俺の、百円……っ!」


 賽銭箱の中には、俺が投げたと思しき百円玉が転がっていた。偶々、足元に落ちていた木の枝を使って、俺はその百円玉をどうにか箱の縁辺りまで持ち上げる。

 俺はこの百円で、妹にケーキを買ってやるのだ。

 兄である俺が、日頃苦しんでいる妹のためにできる数少ないことなのだ。


「あ」


 思わず声を漏らす。あと少しで出せそうだった百円玉が、賽銭箱の奥に落ちてしまった。


「あ、あぁ、あぁぁ………………」


 流石にもう取れない。木の枝を足元に落とし、俺は頭を抱える。


「俺の、百円が…………」


 妹にケーキを買ってやるための百円が。

 脳裏に妹の悲しむ顔が過ぎる。

 誕生日すら、ろくに祝えないなんて。俺は兄失格だ。


『哀れな』


 その時。落ち込む俺の耳元に、不思議な声が届いた。


『なんと、哀れな』


 滲む涙を手の甲で拭いながら辺りを見回す。しかし傍には誰もおらず、賽銭箱の周りを軽く探しても声の主は見つからなかった。


『手を差し伸べずには、いられない――』


 それが最後に聞こえた声だった。

 誰の声だったんだと首を傾げた俺は、深く溜息を吐いて休憩場所に戻る。

 結局、俺は百円を取り戻すことができず、その後は憂鬱な気分のまま過ごした。


 ◆


 ――それ以来だ。


 あの修学旅行以来、俺の身の回りでは超常現象が起きるようになった。

 その現象は様々な形で俺の目の前に現れ、そして俺のことを助けてくれた。今朝の交通事故も同じだ。俺は車に轢かれたにも拘わらず、不思議と怪我ひとつしていない。


 こんなことを人に説明する気にはなれないし、説明したところで誰も信じてはくれないだろう。賽銭箱から百円玉を取り戻そうとしたら、妙な現象に巻き込まれるようになっただなんて我ながら意味の分からないことを言っている。


「どうした悠弥ゆうや? なんか変な顔してるぞ」


 過去を想起していると、隣の席から声を掛けられた。

 友人の本園もとぞの雅人まさとだ。雅人は自分の机を俺の机にくっつけて、弁当箱を広げていた。

 いつの間にか昼休みのチャイムが鳴っていたらしい


「別に。ちょっと考え事をしてただけだ」


「バイトのしすぎなんじゃねぇの?」


「あー……そうかも」


 雅人の言葉はあながち間違いでもないような気がした。高校に入ってからの俺はバイト三昧な日々を送っている。おかげで毎日のように寝不足だ。


「そう言えば悠弥、聞いたか? 今年の新入生は豊作だとよ」


「豊作?」


「可愛い子が多いってことだよ。いやぁ、うちの学校って元々女子のレベルが高いことで有名だけど、こりゃあ俺らが卒業するまで安泰だなぁ」


「……雅人は年上の方が好きじゃなかったか?」


「お、流石。よく覚えてるじゃねぇか」


 そりゃあ毎日こんな話題を出されたら、覚えたくない情報でも覚えてしまうだろう。


「実はな、写真部にすんげぇ可愛い先輩がいるんだよ。お淑やかで優しいお姉さんみたいな感じでさ。ちょっと浮世離れしているような、マイペースそうな雰囲気とかも最高なんだよ!」


「へぇ」


 熱弁する雅人に、俺は適当な相槌を打った。


「そんな人いるんだな」


「……お前、興味なさそうだな」


「ないわけじゃないが……それがどうしたんだよ」


 そう訊くと、雅人は不敵な笑みを浮かべる。


「俺、告白しようと思ってんだ」


「は?」


「今日の放課後、告白してくる」


「……急すぎるんじゃないか?」


「いや、実は何回か偶然を装って話しかけてはいるんだ。それに三年ってそろそろ受験勉強が始まるだろ? 本格的に勉強が始まるとチャンスがなくなってしまうから、今が丁度いい。俺は先輩の受験勉強を健気に応援する後輩でありたい」


「既に健気じゃねーよ」


 下心が滲み出ている。


「先輩、部長だからなぁ。忙しくない時間帯を選ばねぇと……」


 雅人の思考は、都合が良い世界にトリップしているようだった。

 青春を謳歌できるのもひとつの才能であり、幸運だ。今日も明日も明後日もバイトの予定である俺に、雅人と同じことはできない。

 放課後。クラスメイトたちが次々と教室を出て行く中、雅人は立ち上がった。


「じゃあな、悠弥!」


「おう、玉砕してこい」


「しねぇよ! でもまあ、当たって砕けろの精神で行ってくるぜ!」


 どのみち砕けてるじゃねーか。

 雅人が教室を出て行くのを見届けた後、俺も下校の準備をする。

 鞄を持ち、廊下に出ようとすると――。


「ひゃっ」


 丁度、教室に入ろうとしていた女子生徒とぶつかってしまった。


「あ、悪い……いや、すみません」


 すぐに言葉使いを改めたのは、目の前の女子生徒の上履きが緑色だったからだ。

 緑色の上履きは三年生の証明。彼女は俺にとって一つ上の先輩だった。


「ううん、こちらこそごめんね。えっと、大丈夫?」


 大丈夫です、と答えながら先輩の顔を見る。

 艶やかな黒髪を結ぶことなく垂らした、美しい女性だった。その瞳は円らで純粋無垢な雰囲気を醸し出し、頬は恥じらいによるものか微かに紅潮している。肌は白くて肌理細かく、小さく震える朱唇は非常に可愛らしく見えた。


「えっと……?」


「あ、その、すみません……棒立ちして」


 見惚れていました、なんて本音を伝えるわけにはいかない。

 先輩は不思議そうに一礼した後、教室の中にいる二年四組の担任教師へ声を掛けた。

 先輩は俺たちの担任教師に用事があったらしい。話し合いは一分と経たないうちに終わったようで、先輩は「失礼します」と頭を下げてから教室を後にした。

 艶やかな黒髪を揺らしながら廊下を歩く先輩を、俺は暫く目で追った。


「なんだ御嵩ぃ? 見惚れたのか?」


 先生に、からかうような口調で言われる。


「先生って園芸部の顧問でしたよね。今の人は部員ですか?」


「いや、今のは写真部の部長だ。うちで育てている植物の写真を撮りたいからって、態々許可を取りに来たんだよ。今時珍しいくらい礼儀正しい子だな」


 写真部の部長ということは……あの人が、雅人の言っていた先輩か。

 どうやら二人は入れ違いになってしまったらしい。

 まあ入れ違いと言っても、この狭い学校内での話だ。雅人が諦めさえしなければ、今日中に顔を合わせられるだろう。


「ところで御嵩は今日もバイトか?」


「はい。まあ今日は夜からですけど」


「お、じゃあ少し俺の仕事を手伝ってくれないか? 簡単な書類整理なんだが」


「嫌ですよ。なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんですか」


「手伝ってくれたら、昼間、先生が食べ損ねた購買のパンを――」


「――やりまぁす!!」


 購買のパンは魅力的だ。これで二日は凌げる。

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