第1話 幕末最強のサムライ

「和辻十蔵は哀れな男よ」


敷島藩27万石の城下では、皆が口々に言い合った。


十蔵は幼少の頃から頭抜けた剣技を誇り、江戸のさる高名な道場で免許皆伝。

京では名だたる新撰組の使い手をも圧倒し、二十代半ばにして“天下無双”と呼ばれた。


しかし、三年ぶりにクニに戻った十蔵を待っていたのは妻子の変わり果てた姿だった。到着の前の晩、何者かによって惨殺されていた。


笑顔を絶やさなかった妻の顔は醜く歪み、そして不在の間に生まれた我が子──初めて見る息子の顔は血に染まっていた。


十蔵に恨みを持つ佐幕派の者と噂が立ったが、下手人は捕まらないままだ。

十蔵は葬儀の間も一滴の涙も見せることなく淡々とこなしたという。


「剣の道にしか生きてこなかったヤツはやはり変人だ。情というものがないのであろう」「何を考えているのかわからん。薄気味の悪い男だ」などと心ないことを言う者もいた。しかし、そんな言葉に反応することもなく、十蔵はただ淡々と暮らした。


──それから、一年が経とうとしていた。


「うまっ! やはり梅ヶ枝餅はいい!」土産の餅を十蔵は頬張った。

「ほどよいお焦げの風味、あんこの甘さ、たまらんの〜」


初対面でも人懐っこいやわらかな眼差しを送ってくる十蔵を前に、荒木仁右衛門は胸を撫で下ろしていた。荒木は二十そこそこの若武者で家督を継いだばかり。家老の命を受けて十蔵の組屋敷にやってきた。


粗相があってはならんと荒木は十蔵が通う茶屋で、事前に聞き込みをしていた。茶屋の女は面倒くさそうに「甘いものばかり食うとるがね、あんお方は」と言った。


(愛想のないクソ婆アだったが、信じて良かったわ!ヨーシ、これでご家老も俺の交渉術を認めてくださるに違いないわ!)


訪ねるまでは心労で胸がつぶれそうだった。身内を失った翳りのある男を想像していたからだ。剣の道を極めた男だが、この一年、剣を振っている姿を見たものはないという。薄情だとかそんなことを言う人間はいるが、武士たるもの、非情なる運命にじっと耐えているのだろう。そんな男にもう一度、藩のために剣を振れと言わねばならぬのかと。


しかし、うまそうに餅を食らう目の前の男は無邪気な子供のようである。


(……やはり変人であることには間違いがないようだの)


おかげでどう切り出そうかと思案していたこともすんなりと言えた。


「和辻殿に斬っていただきたい者がおりまする」


とたんに十蔵の表情が曇った。

「なるほど。餅でそれがしを釣って人殺しをさせようという魂胆でしたか」


「い、いえ、そんなつもりは……」


「ないと申すか?」一気に凄みのある剣士の顔になった。


(こ、これが"天下無双”の男……こわ……)


「……ない……とは言い切れぬかも……しれぬ……ような……」しどろもどろの荒木を見て十蔵は「ふふふ」と笑った。そして、


「なるほど。では謹んでお引き受けいたす」あっさりと言ってのけた。


「へ?」


「あっはっは、餅を食うてしまいましたからの〜。ただ喰いはならぬとは、亡き父の遺言でもありますゆえ」


「ご遺言にございますか、それは殊勝なお心掛け。痛みいります」


「荒木殿は軽口の通じぬお方じゃのう、アッハッハ。私の父など、いつも寺に呼ばれちゃタダ飯を食うとる。しかも、死んでもおらんしのう」


「なんと!」荒木は目をひん剥いていた。


クソがつくほど真面目で一本気な荒木が初めて会う人種だった。冗談なのか本気なのか全くわからない。コロコロと変化する十蔵の表情に翻弄されているのを感じた。


(くそッ!つかみどころのない御仁だ!!剣の方もさぞ性格が悪いのであろうな!)


「上意でござろう? 断る道理がありませぬ。して、誰を?」


荒木は居住まいを正して言った。「人ではございませぬ」


「人ではないとな。ほう、それは面白い」


「化け物にございます」


「ば・け・も・の? アッハッハ、それはイイの〜。それがしもまあまあ剣術を使うが、化け物を斬れと言われたのは初めてじゃ、ハハ。実はもう人を斬るのはこりごりでしてな。化け物ならば心置きなく」


小馬鹿にされているようで少し恨みがましく荒木は続けた。「貝ノ瀬がやられました。坑夫は三十人はおったでしょう。ほとんどが首を取られました」


貝ノ瀬は敷島藩が未来の財源と目論んで数年前から開発している炭鉱だ。藩内に炭鉱はいくつかあるが海沿いにある貝ノ瀬は船で長崎に運ぶのに都合よく、最大の規模を誇っていた。


「首をとられたとは?」


「生き残りの坑夫が言うには赤い閃光が走ると次々に首が落ちるそうでございます。しかしながら、姿は見えぬと」


「赤い閃光……うーん、おそらくそいつは剣術使いではなかろう。妖術のたぐいか」


「ゆえに化け物と」


「……家族の者はさぞ辛かろうのう」


一瞬、十蔵の表情に翳が差したように見えた。荒木は見てはいけないものを見てしまったように思い、その横顔から目を逸らした。


「参ろう」十蔵は刀をとって立ち上がった。


「これからでございますか?」


「善は急げ、ではないか、荒木殿。それともこれは善ではないのかのう?」


「もちろん善にございます」


十蔵は真顔で頷き、それからこう言った。


「それはいい。京では何が善か何が悪か分からぬままに剣を振るっておったのでな」


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