第5話
「……私、作法知らない……」
比喩や誇張で『めまいがする』というのは、おそらくこんな状況なのではないだろうか、とエレナはこめかみを押さえながらそう言った。失態を演じる前に先手を打ったのだ。
しかし男からは、とらえどころのない返答。
「飲めばいいだけです」
お茶をしませんかのお茶は、お茶はお茶でも本当にお茶だった。
お茶に招かれていた。
エレナが通されたのは、古めかしいけれどもこぎれいな日本家屋の畳の間。
床の間には掛け軸が下がり、細長い竹の篭には淡紫の実をつけた小枝が活けられている。
ここにくるまで通った廊下からガラス戸越しにちらりと見えたのは、カコーンと鳴る獅子威しでもおいていそうな、広い庭。まるで旅館のような。
そして目の前では、ジャケットだけをどこかに脱いできたらしい男が、茶髪の若者という姿はそのままに、楚々と何かを手際よく準備している。
いや、『何か』ではない。
「茶道……」
エレナは、今一度呻いて呟いた。
男は、炉に火を抱き込んだ炭を入れていて、まさしく『お茶』の準備をしていた。この場合、男と自分の、どちらの感覚を疑うべきかは判断に窮するところだった。
「待っていてくださいね」
止める間もなくするりと立ち上がり、消えたと思う間もなくすぐに戻ってきた。手には、何かを載せた朱塗りの盆。
エレナは観念してうなだれた。
「そうですね。確か、最初はお菓子ですね」
差し出された菓子器には、濃い紫色の花をかたどった菓子が盛られている。エレナはそれをじっと眺めてから、小さく息を吐いた。
「何の花でしょうか?」
「当ててみますか?」
質問に質問で返されて、ムッとした。
「すみません。私、お花の名前には疎くて」
「こちらこそごめんなさい。意地悪を言ってしまった」
しゅんとしたその反応を見て、すぐに後悔した。
(なんでこの程度で、ムッとしてしまうの)
ずいぶんと、自分の気が立っていることに気付いて、落ち込む。
「意地悪されたとは思っていません。私の言い方がきつくてごめんなさい。私も、こういうときにお花の名前を知っていて、何気なく答えられたらすごくいいなとは、思うんです」
その一瞬だけ咳が止まり、ここ最近で一番長い文章が言えた。
「そうですね。花の名前は、知らなくても生きていける。知っていると、少しだけ楽しいですね、自分が」
おっとりと笑って男は菓子をすすめてくれた。
突然、思い出したように、慌てて言った。
「毒見をしましょうか」
「毒見?」
「あの……、そういう手口があると聞きました。睡眠薬ですとか。本来、知らない人がすすめるものを口にしてはいけないですよね。どうしようかな……。目の前で、店のショーケースから出してくれば良かった」
表情が弱り切っていたが、言っていることはもっともなのでエレナとしても助け船を出すか迷うところだった。
これがファミレスやチェーン店だったら怪しさは薄れたかもしれないが、菓子も茶も完全に男が手ずから用意している。
見知らぬ人間としては、疑うべき場面なのかもしれないが。
「美味しそうです」
エレナが声をかけたときに、男はすでに立ち上がって部屋を出て行こうとしていた。
困ったような顔で振り返り、考えながら言う。
「ぜひ食べて頂きたいのはやまやまなんですが。無粋は承知の上で、お茶に関しては未開封の缶を目の前で開けようかと。水は、水道水から汲むところを見てもらえば」
そこまでしなくていいですよ、と言いたい。
(私が女ではなく、この人が男じゃなかったらここまで変な緊張状態にはならなかったのかな……)
ここは自分から歩み寄らねば、と咳払いをして告げた。
「私、普段はいろんなことを警戒しながら生きています」
するりと話せた。あのしつこかった咳が少し鎮まっている?
この場の澄んだ空気のせいだろうか。東京と、そこまで劇的に違うものだろうか。
「今日は、ここまで来ている時点で、ちょっと普通じゃないので。多少のことは見過ごせそうなんです」
控えめかつ婉曲に提案したつもりだったが、男はぐっと形の良い眉をしかめた。
「俺はあなたの普段は知りません。その上で言いますが、たった一度のことで命取りになることもあるんです。俺がその警戒心を突き崩した結果、あなたの今後の人生に油断や隙が出来たらどうすれば良いかと。責任なんか簡単に取れるものではありません」
(ま。真面目だ……。私、これでも良い大人なんですけどね。判断力は多少弱っていましたが)
見ず知らずの人に責任を問うつもりはないんです。
どういえば、それが伝わるだろうか。
こふ、と何度目かの咳払いしつつ、なるべく真面目な表情を意識して言った。
「お互いにすべて同意の上、という誓約書のようなものを作ればいいでしょうか」
すると男は「わかりました」と涼やかに言った。
「行政書士の知り合いに連絡します」
「あー、そういう展開になりますか」
真面目な冗談のつもりだったのに、冗談の部分だけ綺麗さっぱり通じなかった。
他に何か手はないのだろうか。
疲れた頭で考えても、何も浮かんでこない。目の前にはお菓子もあるのにこのお預けはひどい気がする。
「とりあえず、お腹が空いているので食べてもいいですか」
「ああ……」
返事なのか感嘆なのかよくわからなかったが、エレナはそれを同意と決めつけた。
本当にお腹がすいていたので、添えられていた黒文字でひと思いに濃い紫の花を二つに切り分け、二口で食べた。
「……美味しい。甘くて沁みる。和菓子って普段食べる機会がないんですけど、こんなに美味しいんですね」
また、咳が
ばつが悪そうな顔をしていた男だが、軽く首を振ると、気を取り直したように表情を整えた。
「もういいや。まんじゅうとか、後で好きなだけ食べて。お茶もさっさといれる。少し薄い方が良さそうだね」
エレナにはよくわからない道具一式を載せた盆の元まで戻ると、流麗な仕草でその場に腰をおろした。
どういう手順なのかと目で追っていると、男がちらりと視線を流してきた。
「あなたのような美人は、今後こういう怪し気な誘いにはのらないように」
(私は、花の名前も。お茶の作法も。何も知らないので、今後こんなお誘いはないかと思いますが)
「あなたも、だんごやまんじゅうなどといった誘い文句で女性がつれるのは今回限りだと思っておいてくださいね」
何か言い返せずにはいられなくて、それだけ言った。
障子越しに差し込む日差しは鮮やかなオレンジ色で、もし顔が赤くなっていても悟られる心配はないはずだった。
シュンシュンシュン……とお湯が沸く気配が心地よく感覚器を刺激する。
目を閉じた。音を聞いた。匂いをかいだ。
ふっ……と、空気がおごそかに凪いだ。
――ちなみに今は『桔梗』や『紅葉』、『菊』、『萩』なんかを作ってる。
不意に、先ほど、けれどももう随分前に聞いたように思える男の言葉が耳に甦る。
(作ってる?)
「あなたはこの和菓子を、作っている人なんですか?」
見惚れるような所作でお茶をたてようとしていた男は、ちらりとだけ視線を流してきた。
「今日の菓子は『桔梗』だよ」
口元に、かすかに笑みを刻んでいたのを、エレナは見逃さなかった。
* * *
外に出ると、すでに空気は冷たく張り詰めていて、星がまたたいていた。
男はジャケットを羽織り、マフラーを首に軽く巻きながら駅まで送ると申し出てくれた。
「今晩どうするの?」
「遅くなったので、どこかに泊まります。駅前とかに何かないかな」
「明日はどうしますか」
「実家に……」
帰る……つもりだったんですけど。
その言葉を飲み込んで、何の気なしに言ってしまった。
「せっかく知らない街で途中下車したんだし、少し観光しようかな」
「あてはあります?」
「無いですねー」
何も考えていなかっただけに、素直に言ってしまった一言。
その後の微妙に窺い合う空気に耐えかねて、エレナが口を開こうとしたとき。
「咳、少し良くなりました? 喘息なのかな。でも、寒いのってあんまりよくないんじゃないですか」
そう言いながら、男が首に巻いていたマフラーをくるりとはずして、エレナの肩に軽くかけた。
ふわっとした温もりに、甘い匂い。餡子の。
「えーと……貸してくれました?」
勘違いしたくないな、と思いながら確認をする。優しくされたら、好意があると勘違いしたくなるのが弱った人間というもの。
「それ、持って帰ってくれても構わないんですけど、明日返してくれてもいいです。どうぞお好きなように」
男は言い終えて、少しだけ歩調を速めて先を行く。
その背中を見ながら、考える。
(不思議。どうしてこの人と話していると、咳があんまりでないんだろう)
ずーっとずーっと悩まされていて、もう、一生止まらないかと思っていたのに。
マフラーを首に巻き付けながら、さらに考える。
そして、離れていく背中に向かって、小走りに駆け寄った。
気づくか気づかないか程度に背にぽん、と手で触れて注意をひく。
(さーて、私はなんと言うべきでしょう)
男がゆっくりと振り返り、見下ろしてくる。
エレナはそこで、翌日の予定を口にした。
この瞬間から、新しい自分が始まるのだ、と言い聞かせながら。
踏み出すための勇気を出して。
ビューティフル・ティー・タイム 有沢真尋 @mahiroA
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