第4話

 駅を出て、すいすいっと道を入っていくうちに、辺りは少しずつ静かになってきていた。

 迷いなく進んでいく男は、おそらく地元の人間なのだろう。土地勘のないエレナは、何処に向かっているか皆目わからない。


(繁華街からは遠ざかっているような気はする……)


 人気ひとけがない方向に向かっているのは、確かだ。まずいかな、と思いつつも頭の中はしびれたようにぼんやりとしていて、うまく動かない。

 不意に男がちらりと視線をくれた。


「寒くないですか? ここ、風が冷たいから」


 ふと見ると道は大きな橋にさしかかっていた。

 その下に広がる雄大な川に目を向けたとき、エレナは息を止めた。

 風は、その表面をなめるように、遮るものなく、渡ってくる。遠くには壮麗さすら感じさせる山並み。冠雪かんせつしている。

 つい見入ってしまってから、思い出して返事をした。


「大丈夫です」


 すると、男はふっと目元に微笑を浮かべた。


「寒さは嫌いじゃないって顔してる」


 もともと優しげな顔立ちをしているのが、いっそう甘くなる。

 なんとなく。

 毎日会社で人に会っていたし、べつに人に飢えたこともないのに、こんな風に笑顔を向けられたのは久しぶりだな、と思ってしまった。

 吸い寄せられるようにその表情を見つめてから、エレナは咳の合間に言った。


「北海道の生まれなんです。暑さよりは、寒さの方が」


 言った瞬間に、真夏の東京の猛烈な暑さが背後から迫ってきた気がして、眉をしかめた。

 男はすっと歩を進めて先を行く。

 再び背を追いかける形になる。

 歩幅は絶妙で、気を遣っているだろうに変にゆっくりすぎず、歩きやすい。並んで歩くと緊張するので、少し遅れるこの感覚も良かった。


「もしかして帰省の途中でした?」


 ん?

 突然の問いかけを脳内で繰り返してエレナは(んん?)と軽く首を傾げた。


(もしかしてこの人、少し鋭い?)


「東京発の新幹線に手ぶらで乗ってて、でもこの街のことはよく知らないみたいだし、連絡をとる相手もいない……。旅行中には見えないけど、帰省ならぎりぎり、たどりつけばなんとかなるのかなと。函館? 札幌? もっと遠い?」


 思った通り、事情をある程度推理されていたらしい。

 しかも当たってる。


「探偵ですか?」


 咳が鬱陶しく、単語での会話になりがちなのだが、男はふふっと噴出していた。


「単に思いついたことを聞いただけ。べつに答えなくて大丈夫ですよ。ただ、駅に戻る必要があるなら送ります。俺もそのくらいの時間ならある」


 以降、会話は途絶えた。

 こんこん、と咳が出続けるエレナにとってはありがたかった。

 ほどなくして、石畳の敷かれた広めの道に出ていた。通りに並ぶのは、琥珀細工の店や、民芸家具の店。歩道は広めで、木のベンチやブロンズ製のオブジェがいくつか配置されている。

 ざわりと街路樹が梢を揺らした。


「観光地……?」

「ああ、そうですね。観光客はよく来ます。あとでゆっくり観ても楽しいんじゃないかな」

「あとで?」


 なにげなく聞き返すと、男は古めかしい印象を与える建物と仏壇仏具の店との間の、細い路地に続くと思われる木戸に手をかけていた。


「先に、お茶をどうぞ。こっちに来て」

「……何処?」

「そこの和菓子屋の、母屋にあたります。店から入ると工場を通ることになるので……」

「だから、まんじゅう」


 呟いて、咳込む。

 咳が終わるのを待っていた男が「そうなんですけど、誘った手前、お代を頂いたりはしませんので」と言って木戸の奥に進んだ。

 甘い匂いがしていた。

 エレナは小道に足を踏み入れる前に、道路に面した和菓子屋を視界におさめた。


『御菓子司 椿屋』


 薄墨色に褪せた木の看板に、右から左に書かれているのはそんな文字。木枠のガラス扉には墨で何かが書かれた半紙が貼ってあり、その向こうには、よく目をこらすとケーキ屋のようなショーケースや木の棚などが見えたが、どうにも少し薄暗い。


(……『秋の山路』……『万寿菊』――)


 半紙の文字を心の中で読み上げてから、男のあとを追った。



 * * *



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