第3話
ホームから引き返して乗るはずだった新幹線が動き出したのを、藤崎エレナは呆然と眺めていた。
ややして、思ったままを口にした。
「うそ……」
頭上では日本語と英語のアナウンスが交互に鳴り響き、周囲をスーツ姿の男たちや旅行者風の老夫婦が通り過ぎていく。
「どうしよう」
呆然と立ち尽くしている間に、ホームからは人が少なくなっている。
この駅ではお隣の秋田県に行くために新幹線の一部が切り離されて……、その為に数分停車するはず。旅慣れているわけでもないのに、そんな半端な知識を頼りに降車したのが仇になった。
あまりにも自分が空腹だと気付き、ここらでお弁当でも買ってみようと魔が差したのだ。とりあえず飲み物、とふらふらと自動販売機の前に足を止めて……。
(何分……? そんなに長いことぼーっとしていた……?)
自分の時間の感覚がおかしいのは、薄々気付いていたはずなのに。
なんの目的も果たさないうちに、緑色の新幹線はさらに北を目指して走り去ってしまった後だった。
ただでさえ弱り切っているときのトラブル。足が震え出した。
こんこん、こんこんこん。
咳も止まらない。
(どうしよう)
混乱しながら考える。考えているつもりでも、頭の動きはそんなに良くない。
待てば次の新幹線がくるだろうけど、切符は先程の便の指定席だ。どこでどう清算をすればいい? 誰かに説明すれば何か言ってもらえるのだろう、支払いはカードもあるし心配はしていない。でも、ともすれば会話に支障がでるほどの咳が出る今、込み入った話をする気力がどうしても湧かなかった。
そのまま、ふらっとホームの椅子に腰かける。
次の便まで間があるらしく、辺りに人の気配もない。
「どうしよう……。おなかすいた」
全然言うつもりもなかった一言が咳にまぎれて勝手に口から出ていた。
判断力のようなものが、てきめんに落ちている。
「歩けます?」
誰かが近くで喋っていた。
人がいたんだ。今の独り言聞かれたかな。やだな。早くいなくなってくれればいいのに。
こふ……と咳がこみあげてくる。咳込みながら、思わず目を瞑った。いっそ寝ているふりでもしてみようか。
「顔色がすごく悪いように見えるんですが。喘息ですか。冷たい風はあまりよくないのでは」
目を開けて左右を見る。
椅子が連なる形のベンチで、一脚分のスペースをあけて、右隣に男の人が座っていた。
沈黙してしまった。
目を逸らすタイミングを完全に逸したやや長めの時間。
「その……。体調が悪いようでしたら、駅員さんを呼びます。もしくは、どなたか迎えに来ていますか?」
優男めいた甘い顔立ちの、ほっそりとした男だった。髪は落ち着いた茶色。さらさらで後ろが長く、襟足で細く束ねている。服装はワインレッドのアンティークレザーのジャケットに、襟に刺繍の入った白シャツ、細身のブラックジーンズと、勤め人らしくない飄々とした感じが漂っていた。年齢は若めにも見えるが、二十五歳を下回るということはなさそうだ。
エレナが無言で見つめている間、男は黙って待っているようだった。顔は緊張して強張っているようにも見える。距離の置き方といい、声はかけたはいいものの、自分でも次の手を決めかねているのかもしれない。状況的にも、ナンパ的な意味合いはなさそうな気はする。
こふこふと咳をやり過ごしてから、エレナはなんとか言葉を口にした。
「迎えはないです」
そもそも、降りる予定の駅ではないから。
さすがに、まだそこまで詳しい事情を言う気にはなれなかったが。
「そうかなと思っていました。誰かに連絡をとる気配がなかったので。……タクシー乗り場か、バス停までご一緒しますか」
なるほど。
目的地ではない、という発想はないのだろう。
ただ、新幹線を降りた途端に具合が悪くなって休んでいる人に見えているに違いない。
(駅員さんを呼んでもらって……。いや、切符の清算があるなら、みどりの窓口かな。もう急いでも新幹線は行ってしまったのだし、いっそ何か食べようかな)
行動を決めかねて、腕時計に目を落とす。もう少しで十六時。微妙な時間だった。
うまく乗り継がないと、今日中に札幌まで着かない。着いても時間が遅すぎて、家族に迎えにきてもらうのは気がひける。
「どうしよう」
言うつもりのなかった独り言がうっかりもれてしまった。無関係で行きずりの男とは目を合わせたくなくて、うつむく。
「おなかがすいてるんですか?」
もう見捨ててくれていいのに、そんな問いかけをされて溜息が出そうになった。
代わりに出たのは咳だった。
こんこん、と咳をしつつ仕方なく顔をあげると、まともに目が合った。
「だんごでも、食べます?」
咄嗟には、理解できなかった。
こんこん。
「それとも、まんじゅう」
咳がおさまったところで、一応聞き返してみた。
「まんじゅう?」
「あとはゆべしとか――もちろん羊羹とか最中とかも一通り」
一通り?
だんご、まんじゅう、ゆべし、羊羹、最中。
およそ予期しない単語の列挙にエレナは考え込んだ。
男はさらに言い募った。
「ちなみに今は『桔梗』や『紅葉』『菊』『萩』なんかを作っているんですが──」
エレナは曖昧に微笑んだ。
何を言っているのかさっぱりわからなかった。
男はふっと小さく息を吐き出すと、エレナの瞳をまっすぐにのぞきこんだ。
「つまり、お茶しませんかってこと」
「お茶……」
男は、自分で言い出したくせには観念したように「そう」と頷いた。
(変な人)
理性では、考えるまでもないと断りの文句を探していた。
例えば『いま、忙しいから』と――。
(……忙しくはないなぁ)
急に力が抜けてしまった。
エレナは、これまで道で声をかけられ、その誘いに乗ったことなんてなかった。一度も。
女の一人暮らし、警戒して生きてきたのだ。
今だって頭には
自分の身体は大事にしないと。
怪しい誘いはとにかく警戒しないと。
何かあったら、「そんな男についていったお前が悪い」って絶対に言われるんだから──
頭の中で考えすぎて、不意に全部面倒くさくなった。
何かあったら、その時はその時だ。子どもじゃない。
まずいと思ったら引き返せばいい。
「美味しいお店を知っているんですか?」
「さきほど時計を確認していましたけど、時間は大丈夫ですか? 荷物少ないですけど、日帰り出張……?」
探りを入れられ、エレナはふたたび、曖昧に笑った。「そんな感じです」適当に答えた。
「大丈夫なら……。少し歩きますけど、この先に店が。タクシー使ってもいいんですが、お嫌でなければ」
知らない男が、行先を決める車に同乗することが嫌でなければ、ということだろうか。
確かに微妙だ。
おまけに、行先を知らないので支払い額の見当もつかないし、相手に払われるのも嫌だ。
「歩いていけるところなら、歩いてで大丈夫です。咳は出てますけどっ、こふ、こん、すみま、ごふ、あの、身体は元気で」
長文はしゃべれませんが。
咳交じりにそれだけ伝えると、男は小さく頷いて言った。
「わかりました」
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