252話 信頼
「——駅に向かったんだよな」
カズヤは暇を持て余したので、正臣にストラップを返そうと駅方面に向かっていた。
正臣の姿を見失ってはしまったが、歩いていた方向はわかっていたから。
そうして駅近くまで小走りで向かっていると、
「おいおい……」
正臣が先程、自分がナンパしていた女性の肩を支え、ゆっくりと駅の中へと入っていく姿が見えたのだ。
妻がいると聞いたばかりだったのに、女性と密着した正臣の様子にカズヤは目を細めた。
良い歳して何やってんだよ、とはならなかった。カズヤは正臣と少し会話をしただけだが、簡単に人を裏切るような人には見えなかったから。
そして、遠目にも支えてもらっていた女性のヒールが折れていたことには気づいたが、正直、肩を貸すほどのことなのか、とも感じていた。
「……ちょっと後つけてみるか」
少しだけ違和感を覚えたカズヤ。
一瞬考えたあと、こっそりと後ろから二人を追ってみることにした。
すると、なんと二人は一緒の電車に乗っていったではないか。
そこから考えられることは、彼女の家まで正臣が送るということだった。
◇ ◇ ◇
離れた場所から二人を見守りながら、カズヤは最終的に二人が降りた駅まで着いていくことになった。
そうして改札を出て歩いていくと、カズヤの想像通りに到着したのは彼女の自宅だった。
「ふぅん…………」
正臣の表情を見るに、下心は全くなさそうだった。
女性の方も下心はなさそうな表情をしていたのだが、カズヤには彼女の行動の違和感がまだ消えていなかった。
建物の陰から二人を見守っていると、三階まで登っていくのが見えた。そうして部屋の前まで到着すると扉の鍵を開けた。
しかし、そんな時、異変が起きた。
下からはその全貌は見えなかったが、女性が倒れ込み、正臣が庇うようにして一緒に倒れ込んだように見えたのだ。
『パシャっ』
「あ……?」
正臣たちが倒れ込んだ少し後、タイミングよくシャッター音がどこかで鳴った。
その音がちょうどカズヤの耳に入ったのだ。
「…………」
カズヤは何かを思案しながら、ポケットのスマホを取り出し、動画の録画ボタンを押した。
くるくると周囲を見渡していると、ちょうど向かい側のマンションの非常口の階段から、きらりと何かが光るのが見えたのだ。
その場所へとスマホを向けると、ほとんど暗くて映らない何かを捉えた。
そうしてカズヤは、カメラを向けた方向へと小走りで駆けていった。
…………
カズヤが追っていくと、マンションから降りてきたのは、全身黒ずくめの服装をして、手には望遠レンズつきのカメラを持っていた男だった。
再びスマホを掲げて陰からその男を動画撮影する。
男はそのままどこかへと歩いていくと、今度は正臣が入った女性の家の反対側へと歩いていったのだ。
男が次に向かった場所は古びた廃ビルだった。カツカツと屋上まで登ると、再びカメラを構えたのだ。
カメラのレンズの先にあったのは、女性の家の玄関とは逆——窓とベランダがある場所だった。
「そうかそうか……」
カズヤは地上からカメラを構える男をスマホ撮影し、記録していった。
しばらくすると、男は仕事を終えたのか、廃ビルから降りてきて、そのまま駅方面へと歩いて消えていった。
正臣は結局、三十分は女性の部屋から出てこなかった。
カズヤは何かあったのだと思いながら、スマホをタップ。
どこかに電話をかけはじめた。
「ああ、俺だ。ちょっと調べてほしいヤツが三名ほどいるんだけど——」
数分の電話を終えると、ちょうど部屋から出てきた正臣の姿を発見した。
今のタイミングでストラップを渡すのは、ストーカーまがいのことをしたと勘違いされるかもしれない。
ひとまず返すのは先送りにして、正臣が駅へと向かうのをひっそりと見送った。
◇ ◇ ◇
協力会社との懇親会が行われた二日後の朝。
九藤正臣の務める会社へ、ある写真が添付されたメールが送りつけられた。
「——く、九藤部長っ!! こ、これって……」
声を挙げたのは、懇親会にも参加していた女性社員の一人だった。
その声に驚いた正臣は、彼女のデスクへと駆け寄った。
「んなっ……」
女性社員が開いていたノートPC画面を見て、正臣は顔面蒼白になり、何が起きているのか混乱した。
パソコンに映し出されていたのは、あるメールの添付写真。
そこには、先日顔合わせしたばかりの協力会社の従業員・坂巻京架と自分の姿が映し出されていたのだ。
彼女の自宅の玄関で倒れて抱き合っている様子、彼女が自分の股間に顔を埋めている様子。さらに持ち上げてベッドに運び、その後にカーテンを閉める様子まで。
そんな写真がいくつも添付されていた。
——九藤正臣は不倫している。
そう記載された件名が、正臣の心臓をぎゅっと締め付けて離さなかった。
「——九藤くん。ちょっといいかい」
「はい……」
正臣よりも上の役職である常務取締役が、タイミングよく声をかけてきた。
その瞬間、フロアにいた全員から視線を送られたように感じた。
今まで仲間だと思っていた皆が、急に敵に思えたのだ。
終わった、と思った。
正臣は釈明しようとも思ったが、切り取られたシーンだけを見れば、誰がどう見ても坂巻と卑猥なことをしているように思えた。
どう説明しても、言い逃れができないような写真だったのだ。
ひとまず今は、常務の後を着いていくしかなかった。
…………
個室に移動させられた正臣の前にいたのは、常務に加え、専務や副社長。
人を怒るような目つきではなかった。
ただ、頭を抱え悩んでいる。そんな表情だった。
正臣が椅子に座ると、尋問という名の質問が始まった。
「——まず、既に何の話で呼ばれたかわかっているとは思うが、君の言い訳を聞こうと思う」
常務がそう話し出すと、正臣も震える手を抑えながら話し出す。
「少しだけ長くなりますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、大丈夫だ。本件は事細かに知らなければいけない内容だ」
「わかりました。ありがとうございます」
正臣は、二日前の夜に何が起きたのか、ゆっくりと丁寧に説明した。
もちろん、彼女に好意は全くないことも含め、全てをだ。
「——では、写真の件は誤解というのが、九藤くんの意見かね」
「はい……」
「実はだな、先方にも同じ写真が送られていたようだ」
「え……っ」
それを聞いて、正臣は目を見開いて驚く。
「そして、先方の女性は、君に襲われた——そう言っているらしい」
「な、なぜ!? ありえません! 私は家族もいるのに……こんなリスクがあること、するわけが……!」
メールの件名は『九藤正臣は不倫してる』だった。
そのはずなのに、『襲った』というそれ以上の悪い内容に昇華されていた。
「でも、実際に家に入ったことは確かだ」
「それは、彼女に言われて…………本当に、どうなってるんだ……っ」
おかしい。明らかにおかしい。
先日話した彼女がそんなことを言うわけがない。正臣だって、人の善し悪しは多少なりわかっている。
その経験を元に坂巻を見た結果、彼女は悪い人間には思えなかったのだ。
だから、襲われただなんていう発言は彼女らしくないと感じた。
「私たちも、そもそもなぜこんな写真が撮られているのか、という状況におかしさを感じている」
そう言い出したのは、副社長だった。
大手IT企業の副社長だ、それなりに修羅場も潜ってきている。だからか、写真のおかしさにも気づき指摘した。
「ただな、先方の社長がご立腹なんだ」
「そんな……」
つまり協力会社の社長は、自分の社員に酷いことをされた自分を恨んでいる、という状況になる。
彼女の言い分を信じ切っているということだろう。
「最悪、君を解雇しなければいけなくなるかもしれん」
「————っ」
正臣は大学を卒業して入ったこの会社に勤めて既に二十年以上。
不倫という最悪な名を背負って解雇されるとなれば、家族にも申し訳が立たない。
歯を食いしばりながら、どうすれば良いか考えるも、何をすれば良いか全くわからなかったのだ。
「とりあえず状況はわかった。このあと我々は一度この件を相談する。プロジェクトが破綻してしまう可能性もあるからな」
先方の社長が怒っているともなれば、プロジェクト自体なかったことになりかねない。
立場的にはこちらの会社の方が大きな会社ではあるが、もし、この件を公にでもされた場合、ニュースになる可能性だってあり得るのだ。
「今日は帰って大丈夫だ。明日は普通に出社だ。出社したら、また呼ぶことになると思う」
「わかりました……」
正臣は副社長にそう告げられると、荷物を取りに自分が働くフロアのデスクへと戻った。
先程より、大勢の社員から目線を向けられた。
それは、明らかに非難の目だ。
ここに勤めて二十数年、正臣は初めて居心地の悪さを感じた。
「——部長! どういうことですか! なんで……なんで!」
デスクに戻るとわざわざ声をかけてきたのは、西口だった。
彼は一緒の懇親会に参加し、坂巻に初対面で好意を持っていた部下だ。
まだこの会社に勤めて三年ほどの若手。その彼もメールの内容を見たらしい。
「ああ、西口か。悪いな……」
「ちがっ——そういうことを聞きたいんじゃなくて! あれは本当に部長がやったんですか!」
「西口、お前は、どう思う?」
「そんなの……あの写真の通りだと……信じたくないですけど……っ!」
西口は怒りを隠さずに、正臣に詰め寄る。
一方の正臣は、意気消沈しており、力なく返事をする。
そう写真の通りなら、誰が見ても男性と女性がいかがわしい仲だと見えてしまう。
「————でも、俺は……俺は、部長がしたなんて思えません!!」
「西口…………」
西口は、坂巻が正臣に近づいた様子を見て、嫉妬していた。
協力会社とも仲良くしなければいけないのに、若さからか不遜な態度を取ってしまっていた。
でも、正臣の部署に配属され、三年間一緒に仕事をしてきたのも事実。
普段から家族のことも聞いていたし、とてもじゃないが、不倫をする人には見えなかった。
「だから、俺は信じてます。部長が潔白だって。俺は信じてますから!」
「————っ」
その言葉に、正臣は目頭が熱くなる。
まさか、部下にここまで想ってもらっていたなんて、思わなかったから。
「今日はもう帰ることになった。悪いが、あとは任せた」
「部長……」
荷物を持つと、正臣は立ち上がり、皆に視線を向けられながらフロアを出ていった。
正臣はその後、夜まで時間を潰し、公園で一人弁当を食べた。
そうして、家に光流や灯莉が帰る頃を見計らい、帰宅した。
◇ ◇ ◇
「——俺の不倫だ」
そう、父の口から言われた時、俺は意味がわからなかった。
だって、どう見ても父がそんなことをする人に見えなかったから。
でも、人はわからない。不倫をしなさそうな人だって、不倫をしていることがあるのが、世の中。
詳しく話を聞くまで、判断はつかなかった。
「————」
食卓が静まり、しばらく誰も一言も喋らなかった。
俺も姉も表情が固まり、何を話しかけて良いのか、わからなかったのだ。
しかし、ただ一人だけ。いつもと変わらない人がいた。
母だった。
「そうなの。——それで、本当に不倫はしたの?」
ショックを受けた様子はない。
なぜ、そんなに冷静でいられるのか、俺にはよくわからなかった。
「不倫は——していない」
次に父から語られる言葉で、俺は少しだけ胸を撫で下ろした。
ただ、その言葉が本当なのかどうかは、見当がつかない。
「なら、してないのね。良かったわ」
「——っ。希沙良、なんで……」
父の言葉を信じ切っている母の言葉。
それに対し父はなぜ信じられるのかと顔を向けた。
「あなた、私が好きでしょ? ふふ。なら、するわけないじゃない。ねぇ?」
確固たる自信。揺るぎない自信。信じて疑わない自信。
それは父が母のことを好きだという、ただ、それだけのこと。
でも、それが全てだった。
「もちろん好きだ……っ。だから絶対に不倫はしてない……でも、事実が……」
「どーせ、ハニートラップみたいなものに引っかかったのね。でもあなたはそういうのに引っかかるはずないから、無理やり飛びつかれたとか、密着されたとか、そんなところでしょう?」
「え、なんでそれを……?」
「当たった? そんなことじゃないかと思ってたのよ」
「いや……大体そうなんだが——」
俺は安心した。姉の表情を見るに、同じことを思っていたはずだ。
不倫と聞いて、一番心を乱すはずの母が、怒りもせず喚きもせず、父の言葉を信じたこと。
俺はそれが嬉しくて、なんだか目に涙が溜まってきた。
「あら光流、どうしたの? 泣くほどのことじゃないわ。この人がそう言うんだもの、不倫はしていない。ただ、会社を辞めなくちゃいけなくなるのは、どうにかしないといけないけどね」
「うん……自分でもよくわからないけど、母さんが、母さんで良かったと思ったんだ」
家族の中での一番の人格者は母だった。
でも、内心はわからない。あとで一人で泣くかもしれないし、今は俺たちの前だから気丈に振る舞っているだけかもしれないから。
『ピンポーン』
そんな時だった。玄関のチャイムが鳴ったのだ。
「私出てくるね」
今まで何も話さなかった姉が立ち上がり、玄関へと向かった。
そうして、姉が戻ってきたと思えば——、
「うーっす。元気にしてたか、おっさん」
軽薄そうな若い男を連れてリビングの中へと入ってきたのだ。
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