251話 優しさにつけこむ

「——くどう、さん……」


 カズヤと別れ、再び駅へと向かう途中、正臣を呼ぶ声が聞こえた。

 駅前に設置されているベンチ——そこにうなだれて座っていたのは坂巻だった。


「坂巻さん? 帰ったんじゃ——ぁ」


 答えを受け取る前に正臣は気づいてしまった。

 彼女の履いていた右足のヒールが、根本からぽっきりと外れてしまっていたのだ。


「さっき走ったせいか、ちょうど溝に嵌まってしまって……」

「あぁ……私のせいか」

「い、いえっ、そんなこと言いたかったんじゃなくて——さっきは本当に助かりました」


 ベンチに座りながら坂巻は深く正臣に礼をした。

 まさか、彼女をナンパしていた男性と連絡先を交換したなんて、今の正臣には言えなかった。


「見かけてしまったからには、声をかけないわけにはいきませんでしたから」

「九藤さん……お優しいんですね……はぁ、九藤さんみたいな人が彼氏だったら、人生もっと楽しかったんだろうなぁ……」


「はは、人生を語るにはまだ早いですよ。あと二十年近く生きたら、言ってみてください」

「もう……九藤さんっていじわるです」

「本当のことを言っただけです」


 口をとがらせる坂巻に正臣は微笑する。

 そして、少しだけ沈黙が流れたあと——、


「あ、あの……こんなことお願いするのは本当に申し訳ないのですが……少しだけ肩を貸してもらえませんか?」


 意を決したように坂巻がそう発言する。


「…………」


「あ、九藤さんには素敵な奥様がいるかと思います。なので、私のことは物だと思ってください。ほら、物って無機物ですから、いちいち気にしなくても良いと言いますか……」

「物であったとしてもそれが大切な物だったとしたら、ただの無機物だと思えないですよ。あなたは協力会社の従業員です。——少しだけ肩を貸すくらいなら……」


 正臣はもちろん迷った。

 若い女性に触れても良いのかと。それは希沙良に対する裏切りではないのかと。

 しかし、彼女からは純粋な気持ちしか届いてこなかった。だから、彼女を信じて肩を貸す決意をしたのだ。





 …………





「あ、あの……本当にすみません……」


 数十分後、坂巻と正臣は、彼女が一人暮らしをしている家の最寄り駅まで一緒に向かい、そこから肩を貸しながらゆっくりと彼女の家へと向かっていた。


「いいえ。この恩はプロジェクトの成功で返してもらえれば」

「はは……私はまだ中堅です。そんな大きな責任……いや、でも……ナンパから救ってくれたことに加えて、家まで送ってもらっているんですから、そんなこと言ってられませんね」


 正臣の言葉に苦笑しながら坂巻は仕事に対して真摯な言葉を告げた。


「どちらかというと、私は社内のみの裏方のような仕事をしていましたから、長い勤務の中でも先方と接触して仕事を進めるのは初めてです。多分、私の方が迷惑かけますよ」

「なら、どちらが迷惑をかけないか勝負ですねっ」


 坂巻はペロッと舌を出しながら、正臣に微笑みかける。



 そうして時間をかけてやっと到着した坂巻の家。

 そこは三階建てのアパートでエレベーターはなく階段でしか登れないようになっていた。


 入口のオートロックの鍵を開け、三階だった坂巻の部屋の前まで正臣が肩を貸した。

 途中「階段の上まで肩を貸してもらってすみません」と坂巻が何度も謝った。


 扉の前に到着すると、坂巻は鍵を開けて、自らの部屋の中へと足を踏み出す。


「きゃっ」

「あぶないっ」


 しかし、扉を開けた瞬間、彼女は酔い過ぎていたからか、その場でふらついてしまい倒れそうになってしまった。

 正臣はそれを見て彼女が頭を打たないようにと咄嗟に庇う。


「いった……」

「く、九藤さん……何度も何度もごめんなさい……」


 正臣は坂巻の下敷きになって、床に倒れ込んでいた。

 ただ、状況が問題だった。


「い、いや……大丈夫、大丈夫だ」

「あの……それでですね。助けてもらって、本当に申し訳ないんですけど……そ、そろそろ胸から手をどかしてもらえたら、なんて……」


「っ!? す、すまないっ! 咄嗟で!」

「も、もちろんです! 逆にこんな粗末なものを触らせてしまってすみませんっ」


 坂巻は粗末、とは言ったが、相当に大きなものだった。

 ただ、彼女は正臣に対して本当にそう思っているかのように謝罪していて。



『パシャっ』



 正臣からは聞こえない距離、どこからか不穏な音が聞こえた。



「あ、あの……酔い覚ましに、少しだけお茶に付き合ってくれませんか?」

「それはさすがに……」


 二人は起き上がると、坂巻からとんでもない提案をされる。

 もちろん正臣は拒否したのだが——、


「あの、ほんの少しだけで良いんですっ。これだけご迷惑をかけてお礼もなしに帰すわけには……私自身がそれを許せませんっ」

「んん……では、一杯だけなら」

「ほ、本当ですか! ありがとうございます!」


「ですが、お茶は私が淹れますね。坂巻さんはとてもじゃないが、お茶を淹れられるような体調にはみえないので」

「あはは……どこまもご迷惑を……」


 結局、彼女の懇願に負けて、正臣は一人暮らしの女性の敷居を跨いでしまった。




 …………




「私、地方が実家で、そこで父が小さな工場を経営してるんです」

「へぇ。経営者ですか。それはすごいですね」


 正臣がお茶を淹れたあと、ローテーブルの前に腰を下ろした二人。

 そこでは坂巻から家族の話を聞かされた。


「いえ、本当に小さな工場で……昔は自社しか扱えない製品を取り扱っていたみたいなんですけど、時が立つにつれて競合他社にそれよりももっと凄い商品を開発されてしまったりで、今は工場を維持するだけでもやっとです」

「苦労している、ということですか……」

「はい……」


 正臣は彼女の身の上話を聞いて、少し共感を持ちはじめた。


 希沙良の実家は北海道だが、正臣の実家は香川県。

 実家は老舗のうどん屋。ただ、両親は潰れかけの家を継いでもしょうがないと話し、正臣には一般的な就職を勧めた。

 しばらく実家には顔を出していないが、よく家にはうどんの麺が送られてきていた。


 自分の実家と似たような境遇の坂巻の話に正臣は共感したのだ。


「うちも実家がうどん屋でしてね。まぁ、大変ですよ」

「えっ。そうだったんですね。私、うどん大好きですよ」


「私は逆にうどんには飽きてしまいましたけどね」

「小さい頃から食べさせられていたなら、そうなってもおかしくないですよね……」


「うちにはうどんが大量に余っているので、今度の打ち合わせの時にお渡ししましょうか? どうせ消費しきれないので」

「えっ!? いいんですか? なら、ぜひ!」


 正臣の提案に目を丸くした坂巻。

 そんな時、あることに気づく。


「あれ……九藤さん、馬のストラップどうしました?」

「ん……あれ、どうしたんだろう。ないな」


 いつの間にか正臣のスマホにつけてあった馬のストラップがなくなっていたのだ。


「あぁ、もしかして私のせい……っ」

「まさか、そんなことはないだろう」


 肩を貸してもらっているうちにどこかに引っかかって落としてしまった。

 そうかもしれないと思いながら坂巻は謝罪をした。


「いや、でも……もう私、今日はだめだめですっ」

「そんなに落ち込まなくても……」


 熱いお茶をぐびっと喉に通したあと、顔を伏せた。


「普段はここまで人に迷惑をかけることなんてないのに……」

「そういう時もありますよ」


「く、九藤さんがいたからかもしれません」

「私ですか?」


「だ、だって、初対面なのに、ここまで心を開けた人、初めてですもん」

「私はただのおっさん部長ですよ」


 正臣は先程の青年を思い出し、自らをおっさんと呼んで自虐する。


「お、おっさんなんて! 九藤さんはカッコいいです! 今まで見てきたどの男性よりも!」

「さすがにそれは目が曇っているね」

「そんなことありませんっ! だって、だってぇ……」


 テーブルの上をぽこぽこと叩きながら、酔った勢いで駄々をこねるような口調になった坂巻。

 正臣はそれを見て、ため息を吐いた。


「————」


 しかしそのあと、しばらく沈黙が続いた。


「坂巻さん? あれ……寝た?」


 反応しない坂巻に正臣は近づいて確認する。

 しかし——、


「ばぁっ!」

「うおっ」


 狸寝入りしていた坂巻が突然起き上がり、正臣の腰あたりに飛びついた。


「ちょっと坂巻さん!?」

「ふにゃあ……」

「ちょ、ちょっと……」



『パシャ、パシャっ』



 再び、正臣の聞こえない距離——カーテンが閉められていない窓の先から不穏な音が鳴っていた。


 股間近くに飛びつかれた正臣は困惑しながらも坂巻を引き剥がそうとする。



「——おとう、さん…………」


 ふと聞こえた、坂巻の小さなつぶやき。

 そして、彼女は寝息をたてはじめ、本当に眠ったのだと感じた。


「なんだ……俺に感じていたのは、父性か……良かった」


 その言葉を聞き、正臣は少し安心した。

 もし彼女に別の意味での好意を持たれていたなら、どうしようかと。


 これから長く付き合っていかなければいけない相手だ。

 自分には大切な家族もいる、どうしたって彼女とはどうにかなるわけにはいかなかった。


 そもそも家の中に入ることすら、したくなかった。

 しかし、どうしてもお礼をしたいという彼女を放っておけなかったのも事実だった。


 このような正臣の善性は、息子の光流に引き継がれており、どこか二人は似ていた。



 正臣は本当に寝てしまった坂巻を持ち上げ、なんとかベッドへと寝かせて、毛布をかけてあげた。

 このようなことは光流や灯莉が小さい頃に何度も行った行為だった。だからかスムーズに行えた。


 そうして、開いていたカーテンを閉めると、坂巻の部屋から出ていき、家へと帰宅した。




 ◇ ◇ ◇




「あれ、私……寝てた?」


 正臣が帰ってから一時間後、少し痛みがする頭を抑えながら体を起こした。


「あ……ベッドに、毛布……」


 坂巻は一目で正臣がここまでしてくれたのだろうと感じた。


「本当に、優しい人……っ」


 毛布の端を握りながら、坂巻は正臣のことを思い返す。

 初対面の人にここまで優しくされたのは初めてだった。


 いや、初めてではない。

 自分に対して優しくしてくれた人は、これまでにも大勢いた。

 しかし、色目なしに優しくしてくれた人は、家族以外では初めてだった。


 坂巻はこの容姿のお陰で男性から言い寄られることが多かった。

 それ故、男の目を見ればすぐに自分にどんな目線を向けているのか判断できるのだ。


 しかし正臣は今日部屋に上がってから一度もそういう目で見てはこなかった。


「なのに、なのに…………」


 坂巻は、申し訳なく思う。

 顔を両手で覆い、自分がしてしまった大罪を悔やむ。


 競馬やうどんが好きなことだって本当だ。

 会話が楽しかったことも本当だった。


 自ら望んでしたことではなかったとはいえ、実際にやったのは自分。

 だから、そんな力のない自分が許せなかった。


「優しい……あんなに優しい人なのに……」


 坂巻は思い返す。

 突然現れた、人を物としか思っていないような、冷たく見下ろす目。


 自分よりずっと年下のくせに、親にバレないように立ち回り、権力を振りかざすアイツの嫌な目。



『——実家の工場を潰されたくなければ、九藤正臣に色仕掛けをしろ』



 それが、坂巻——坂巻京架さかまききょうかに課せられた任務だった。


 そんなことやりたくない。

 でも、自分には力がなかった。


 ——坂巻の父は経営者というより、発明家だった。


 新たな技術に投資するため、多額の借金を背負ったかと思えば、革新的な技術を作り出し、一気に売上を叩き出して借金を全て返す。

 そんな発明家のようなことをしながら自転車操業を繰り返した結果、今はギリギリの経営をすることとなった。


 坂巻は父が工場で見せる笑顔が好きだった。

 だからこそ、工場を失えばその父の笑顔が見れなくなると思い、社会人になってからはもらった給料の一部を実家へと毎月送っていた。


 なぜ、このタイミングで自分に目をつけられたのかはわからない。

 正臣との渉外を控えていたからかもしれないし、自分がそんな弱みを持っていたからかもしれない。


 けど、そんなことはどうでも良い。

 従うしかない状況だった坂巻は、言われた命令を実行する以外に選択肢はなかった。


 だからこそ、彼女は悔やむ。

 あんなに人の善い男性を窮地に陥れるような行為をしたことを。



「ごめんなさい……ごめんなさい……」



 坂巻はこのあと起きる展開を知っている。

 そのことを思うと、ただ涙を流すことしかできなかった。



「あぁ……私が死んだ時は、神様は地獄送りにするんだろうなぁ……」



 実家のためとはいえ、やってはいけないことをした坂巻。

 結局、脅されたところで天秤にかけたのは自分の家族を優先することだった。


 初めは、見知らぬ男性にハニートラップするだけ、そこまで心が傷まないはずだと思っていた。

 なのに、その相手の男性は、想像以上に良い人で絶対に社会の闇に埋もれさせてはいけないような人だった。


「九藤さん……どうか、どうか——」


 彼がこれから受け入れることになるトラブルに対し、遠くから無事を祈ることしかできなかった。





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