250話 新たなトラブル

 ちょうど光流の周囲を取り巻く事件の沈静化——秋皇学園浄化作戦が終わったすぐあとのこと。


 その日、九藤家には暗い雰囲気が流れていた。

 理由は光流の父親——九藤正臣くどうまさおみが原因だった。


「すまん……俺のせいで、仕事を辞めなければいけなくなるかもしれん……」


 ダイニングテーブルの上に頭をつけ、家族三人に釈明する正臣。

 光流も今までこんな父を見たことがなく、目をチカチカさせた。


「理由を教えてちょうだい?」


 そんな正臣にも真摯になって話を聞こうとする光流の母親——九藤希沙良くどうきさら

 顔色ですぐに何があったのかを察することができる気が利く人物だった。


「皆、心して聞いてくれ」


 正臣が言いづらそうに少しだけ言い淀み、そして——、


「——俺の不倫だ」


 次に語られた言葉で、その場は時が止まったかのように空気が固まった。




 ◇ ◇ ◇




 その日、大手IT企業の部長を務める九藤正臣は取引先企業との懇親会を行っていた。


 これまであまり渉外をすることは少なかったが、今回は新たなプロジェクトの立ち上げで協力先の企業とも密に連絡を取り合いながら進める内容であっため、こうして顔合わせをすることとなった。


 そして、会社での打ち合わせ後、都内の居酒屋で先方との懇親会。

 人数は約十人。ただ、ちょうど男女が五対五の人数になっていたことが理由からか、先方の男性が「なんか合コンみたいっすね!」などと言った結果、変な空気が流れた。


 と、言いつつも懇親会は懇親会。

 仲良くなるための交流、細かいことを気にせずワイワイガヤガヤと話しながら飲み食いをしていった。


「ちょっと坂巻さん、九藤部長は既婚者でおっきな子供が二人もいるんですよ〜? 近づき過ぎじゃないですかー?」


 そう発言したのは正臣の部下の西口という男性。年齢は二十代半ばでまだ入社して数年。

 お酒も入って饒舌になってきたせいか、彼は正臣の隣に座る女性——坂巻に対して口をとがらせた。


「こんな質問するからじゃないですか。今日いる男性陣の中なら、九藤さんが一番良いなって思っただけです」


 坂巻と呼ばれた二十代後半の女性は、今日初めて顔合わせをした協力会社の従業員の女性。

 西口が女性陣に向かって「今日いる男性の中で選ぶなら誰?」という質問を投げかけた結果だ。


 最初は困惑した女性陣だったが、渋々、西口の質問に従い一人ひとり回答していった。

 そんな中で、坂巻は今日来ていた女性陣の中では飛び抜けた美人だった。だからか、西口は正臣の名前を出したからか、少しムッとしたのだ。


 ただ、回答したは良いが、坂巻はわざとらしく正臣の隣に座り直して物理的距離を縮めていた。


「はいはい、そこまで。今日はそういう場ではないだろう。西口も先方に失礼だろうが。これから長く付き合っていくんだから」

「ほら、こういう落ち着いたところが良いんですよ」


 正臣が西口をなだめるも、坂巻は煽るように正臣を褒める。

 それに対し西口は「ちぇ」とそっぽを向いた。


 協力先の企業と仲良くなるための懇親会なのに、少しだけ居心地が悪い空気が流れた。


「うちの西口がすみません」

「いえいえ。うちの如月だって似たようなものですよ。いや、もっと酷かったかもしれません」


 正臣の言葉に返したのは協力会社の責任者。

 年齢は三十代後半で、正臣同様に落ち着いた雰囲気だ。


「てへへ。あの頃はこっぴどく怒られたなぁ……今じゃ良い思い出ですね」

「良い思い出も何も、お前のせいで一つプロジェクトが潰れかけて、どれだけ先方に頭を下げたと思ってるんだ」


 如月と呼ばれた西口と同じく二十代半ばの可愛らしい女性が、舌を出しながら上司に対してあざとく笑う。

 プロジェクトが潰れかけた、ということだ。それなりのことをしたのだろう。

 頭を下げただけでそのプロジェクトが継続したなら、正直儲けものだ。


「——九藤さんはご結婚されてるとのことですが、今でもずっと仲が良いんですか?」


 会話が進む中、正臣一人に対して、坂巻が質問を投げかけた。


「そうですね、一応は仲良くやっているとは思います。でも、家の事は妻に任せっきりなので、どこかでストレスは抱えてるかもしれませんね」

「ふふ。こんなに礼儀正しくて責任感のある人ですもん、多分奥様だって同じことを思ってますよ」

「そうだと良いのですが……」


 正臣は妻の希沙良の話を出され、少しはにかんだ笑顔を見せる。

 と、その時だった。


「あっ、そのストラップ! ティープインパクターですよね!?」

「おお、知ってるんですね。好きなんですよ、競馬が」


 正臣の白のワイシャツの胸ポケットから出ていたのは一昔前に活躍した競走馬のストラップだった。

 そのスマホカバーにつけられたストラップを見て、坂巻は反応し、正臣は目を丸くさせた。


「ええっ!? 私も大好きなんです! 日曜のG1見ました!?」

「そ、そうだったんですか。まさかこんなところに競馬好きがいるだなんて驚きました。三共大阪杯ですよね? 見ましたよ。予定がない時の土日はいつもテレビ中継を見てますからね」


「私、賭けてたんですけど、三着だけ外して……! もう、前走G1一着なのに来ないとかありえませんっ」

「はは、三着だけ大穴が来たからなぁ。——それにしても坂巻さん、競馬相当詳しそうだね」


 話す内容でわかる競馬の詳しさ。

 正臣は競馬が好きといっても現在は賭けることはしていない。テレビ中継を観戦しているだけでも十分楽しいのだ。

 競馬については家でも会社でも話せる人はない。だからか、純粋に競馬の話ができることが嬉しかった。


「これでも私、競馬歴長いんです。小さい頃はお父さんに代わりに買ってもらって。上京してからは友達と府中や中山にも行ったりもしてたんですよ。今はなかなか行く機会はないですけどね」

「見た目じゃわからないものだなぁ。競馬はおじさんの趣味のイメージが強いから」


「あー、九藤さんもさっきの西口さんみたいに私を色眼鏡を通して見るんですかぁ? なんだか嫌だなぁ」

「すまない、そういうつもりではなくて……とにかく競馬の話ができて嬉しいということで……」

「ふふ。冗談ですよ、私そんなことでいちいちいじけませんから。そうでないと会社でもやっていけませんし」


 坂巻は女性陣の中では一番大人っぽく見え、人当たりも良かった。

 そんな彼女が正臣の隣に座ってからは顔色が変わり、先程までは見せていなかった多数の表情を正臣の前では見せていた。


 それはお酒が入ったからなのか、それとも自分を気に入ったからなのか、この時の正臣には判断がつかなかった。ただ、今の坂巻の顔は赤く火照っているように見えて——、


「あぁ……私、ちょっと飲み過ぎたかもしれません……」


 坂巻がふらふらとしながら額を抑えた。


「大丈夫ですか? ——とと」


 するとそのまま後ろに倒れてしまいそうになった坂巻。

 正臣は彼女の手を背中で支え、床にぶつかるのを阻止した。


「九藤さん……ありがとうございます……初対面だというのに、お恥ずかしいところ見せてしまいましたね」

「いえ、このくらいは。……お酒もほどほどにということですね」

「はい、九藤さんの仰る通りですね」




…………




 懇親会が終わり、居酒屋の外に出た一同。

 プロジェクトの成功を願い、別れを告げてから、それぞれの駅へと歩いていく。


 正臣も一人、駅へとゆっくりと歩いていった。


 そんな中、正臣はふと読みたい書籍があることを思い出し、近くの書店に寄った。

 おおよそ十分程度の時間だ。

 購入後、カバンと書籍が入った袋を持ち、再度駅へと歩き出した。


「ちょっと……しつこい、です……っ」

「おねーさん、すっげえ美人! このあと俺とどう? 一時間だけカラオケでも、ね!?」


 そんな時だ。聞き覚えがある声がしたので正臣は首を振って、声の元を探した。

 すると、協力会社の坂巻が若い男に言い寄られていたのだ。


 明らかに嫌がっている様子。

 放ってはおけなかった正臣は、走り出した。


「ちょっと君、嫌がってるじゃないか」

「く、九藤さんっ!?」

「あぁ?」


 正臣が後ろから声をかけると、それに坂巻が気づき、男は睨みつけるようにして振り返った。


「彼女はうちの大事な取引先企業の女性だ。君のようなチャラチャラした人が関わって良い相手ではない」

「おっさん……ナメてんのか?」


 正臣の言葉に怒りを見せた男は坂巻を解放し、正臣に詰め寄る。

 正臣は坂巻に目で合図すると、坂巻はそれを感じ取り、その場から駆け出した。


「ちょっ、お前っ!」


 一瞬の隙を突かれた男が振り返るも、既に坂巻は数十メートル先まで走っており、今から追いかけると流石に労力がかかりすぎると思ったのか、追いかけることはしなかった。


「おっさん、どうしてくれ——」

「すまないっ!!」

「は?」


 正臣はいつの間にか頭を下げていた。

 意味がわからないその態度に男は困惑する。


「いや、君はナンパをしていたんだろう? その時間を奪ってしまったことへの謝罪だ。ナンパの全てが悪とは思わない。ただ、嫌がっている相手にしつこくするのは良くないだろう」

「意味わかんねぇ……」


 男は正臣が並べる言葉の意味を理解できなかった。


「いやな、私も大学時代、たまたま見かけた妻があまりにも美人に見えてな……いや本当に美人なんだが。それで頑張って声をかけたんだ。正直それって、ナンパみたいなことだろう? だから私も君がしていることを絶対に悪とは言えない」

「それとこれとはまた別の解釈だろ……」


 同じナンパなはずなのに、正臣の言葉になぜか同意しない男。


「ともかくだ、君の時間を奪って悪かった。彼女はうちの会社と関わる大事な人材なんだ。トラブルに巻き込みたくない」

「………ったく。あーもう、なんだよおっさん。変なやつだな」


「はは。変だと言われたのは久しぶりだな。これでも真面目に家の大黒柱をやっているんだがな」

「毒気抜かれたわ——逆におっさん気に入った」


 すると、なぜか男が正臣に対して笑顔を見せた。

 正臣はその態度に少し困惑するも、殴られなかっただけ良かったと安心した。


「はい、これ」

「え?」

「連絡先!」


 すると突然男がスマホを取り出し、QRコードを見せだしたのだ。

 正臣は目をパチクリさせる。


「い、いや……意味がわからないんだが」

「それはこっちのセリフだっての。良いから交換しようぜ」


「うーん、まあ今後も悪いことをしないと誓えるのなら」

「代わりにおっさんの奥さんを口説いた話を今度聞かせろよ」


 なんとも不思議な提案だった。

 男を見ると、年齢は二十代半ば。西口と同じくらいに見えた。


「——妻に関する話は長くなるが、いいか?」

「はんっ、やる気になったみてーじゃねえか」


 そう答えた正臣に対し、ニヤッと笑みを見せた男。

 連絡先を交換すると、『カズヤ』と名前が記載されていた。


「カズヤくんか」

「ああ、おっさんは正臣っていうんだな。なんだか堅苦しい名前だな」

「良い名前だろう」

「褒めてねぇ! ………はははっ」


 いつの間にか仲良くなってしまった二人。

 正臣もまさか、こんな所で若い男性と連絡先を交換することになろうとは思わなかった。


 チャラチャラした相手なのに、話してみるとどこか芯の部分では悪いヤツではないだろうと感じはじめた。


「じゃあ、またな、おっさん。なんかあれば連絡していいぜ」

「ああ、気を付けて帰りなさい」

「お前は俺の親父かっ」

「父親だから、子供を見送るのは義務だろう」


 カズヤは最後まで正臣のことが理解できなかった。

 ただ、面白いヤツだなとは思ったのだ。


「ん……」


 カズヤは少し歩き出してから振り返った。すると逆方向へと歩き出した正臣の背中が見えた。

 そんな時だ、正臣の体から、何かがポトリと落ちたのだ。


 正臣はそれが落ちたことに気づかない。

 それを見て嘆息したカズヤは小走りで追いかけて落ちた物を拾った。


「おっさんこれ! …………あれ?」


 正臣に声をかけようとしたが、既にどこに行ったのかわからなくなっていた。


「これ、馬か……?」


 ふと、拾ったものをまじまじと見つめる。

 するとそれは正臣が先程までスマホにつけていた馬のストラップだったのだ。


「ったく、抜けてんなあのおっさん……暇んなったし、探してやるか」


 カズヤは、いなくなってしまった正臣にストラップを届けるため、周囲を探し回ることにした。


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