222話 月明かりの下で

 ダンスが終わると、社交界の最後まで歓談が続いた。


 ルーシーや真空に迫っていた男たちは結局近づくことが叶わず最後には諦めていた。


 なぜなら、そこには常にアーサーやジュードに加えて光流や須崎までもが囲んでいたから。

 ルーシーたちをガードして接触させないように壁になっていた。


 ただ、突然現れて目の前の女性を持っていった光流の行動には憤慨し、睨みつけるような視線を送っていた人物が何人かいた。


 二人の関係を知っていればそんなことを思うはずもないが、知らない人たちにとっては横入りのような行動を許せるわけもなかった。しかも問題はその人物らがある一定レベル以上の企業。その社長の息子たちであったことだ。


 今日の出来事が後のトラブルの火種になることは、この時の光流はまだ知る由もなかった。




 ◇ ◇ ◇




 ダンスに疲れた俺は昼からずっと食べ物を食べていないことを思い出した。

 そこで参加者として認めてもらい、料理を食べさせてもらえることになった。


 なのでお皿を持って一人で料理が並ぶテーブルに向かった。


 さすがはお金持ち集団。終盤になっても料理が追加されて出てきていた。

 俺みたいにお腹を空かせている人にはとても助かるサービスだった。


 ちょうどウェイターが出来立てのローストビーフを目の前に置いたのでトングを持ってそれを掬おうとした。


「あら、そのローストビーフ美味しそうね」


 そんな時、前に並んでいた女性が話しかけてきた。

 確かに出来立ての料理は一番美味しいはずだ。


「今出てきたばかりなので美味しいと思いますよ」

「そう? じゃあ私もいただこうかしら?」

「でしたらお先にどうぞ」


 そう言いつつまだ顔を見ていない女性へとトングを渡した。

 その女性の顔を見た時、腰を抜かすほどの人物がそこにはいた。


「えっ、えっ……」

「あら、光流くんじゃない。こんばんは」

「えええええ!? なんでここに!? 花理さんじゃないですかっ!!」


 なんと俺の前に並んでいた女性はしずはの母親である藤間花理さんだったのだ。


 さすがは花理さんだ。若々しくて二十半ばの子供がいる女性とは思えない見た目。

 今日もいつかのしずはのコンクールで見た時のように着飾った服装をしていた。


「ふふ。気づくのが遅すぎよ。誰が演奏してたと思ってるの?」

「いや……まさか……え? あの、ピアノを……?」

「創司だっていたのに。ほらあそこに」


 すると花理さんの視線の先には、いつものように眼鏡をかけた創司さん。

 女性陣に囲まれており見るからにモテていた。


「ほんとだ……あの心地よい演奏は二人が……」

「光流くんもまだまだね。まあ、あんな状況ですもの気づかなくても仕方ないわよね」


 つまり、バッチリと俺がルーシーと踊っていたことを見られていたということ。

 踊っていただけなら良いが、ルーシーを誘ったあのシーンも……。


「あ…………しずはには、このこと……」

「言っちゃだめなの? あの子、光流くんに『私とも踊って?』なんて言い出すかもしれないわね」

「花理さん〜〜〜っ」

「ふふ、冗談よ。それにしてもあのオリヴィアの娘さんと友達だったなんてね」


 子供の俺にはまだついていけない大人の笑みを見せた花理さん。

 宝条家とはいつから知り合いだったのだろうか。

 ただ、今の話からルーシーのことをあまり知らないように思えた。


「あら花ちゃん……光流くんもいるじゃない」

「オリヴィア……ちょうど今、彼と話しはじめたところよ」


 俺と花理さんがローストビーフの前で立ち止まっている中、そこにオリヴィアさんがやってきた。

 ローストビーフ……今は取れない……すまん。


「あ、あのオリヴィアさん。花理さんとは知り合いだったんですか?」

「ええ。もう十年以上前からの知り合いよ」

「十年! それは……ここに呼ぶくらい仲が良いわけですね」


 こんなところで親同士が繋がっているなんてルーシーもしずはも知らなかっただろう。

 ルーシーの様子からもこの女性がしずはの母親だとまだ気づいていないはず。

 知ったらどんな反応をするだろうか。


「ふふ。それにさっき面白い話を聞いたものだから、私も興奮しっぱなしよ」

「面白い話……とは?」


 オリヴィアさんが先ほどの花理さん同様に大人の笑みを見せた。

 だから俺は恐る恐るその話を聞いてみた。


「花ちゃんの娘さんが光流くんとバンドを組んでいたって話よ」

「オリヴィアさんはしずはのことは知らなかったんですね」

「互いに子供はいることは知っていたんだけどね。私たち子供の名前を出すようなことはあまりしなかったみたい」


 確かに世間話でも『うちの子が』『うちの長男は』『うちの娘がね』なんて名前を出さなくても会話ができる。

 十年来の友人だったとしても、毎日のように会うわけではないだろうし、子供の話題を出すこともわずかだったかもしれない。


 俺はせっかくなので、ルーシーを花理さんに会わせることにした。多分喜ぶだろうと思って。

 ローストビーフは後回しだ。しょうがない。




 …………




「え〜〜〜〜っ!? しずはのお母さん!?」

「初めまして、ルーシーちゃん」


 先ほどの俺と同じようにルーシーはオーバーリアクションをした。


 しずはの母だと紹介するとすぐに目の色を変えて驚いた。

 そのルーシーに対して花理さんは柔らかい笑顔で挨拶を返した。


 やはりというか、彼女はなぜかしずはのことが大好きなので紹介すれば必ず喜ぶとわかっていた。


「お母さん、知ってたなら教えてよ〜!」

「私だってさっきまであなたとしずはちゃんが繋がってるって知らなかったのよ。私はしずはちゃんに会ったことがないし……」

「そ、そうなんだ。ごめん」


 勢いよく母に迫ってはみたが、予想した答えとは違う答えが返ってきて申し訳無さそうにする。

 先ほどまでアーサーさんにこれでもかと怒りをぶつけていたので、その勢いのままだったのかもしれない。


「じゃあ改めて。私は藤間花理です。しずはの母親をやらせてもらっています。ちなみにあそこで女性たちに囲まれている人も私の子供よ。長男なの」

「えっ……あの人ってヴァイオリンを弾いていた人ですよね!?」

「そうよ。花ちゃんは三人の子供がいるの。ちなみにしずはちゃんは末っ子で姉がいるのよね?」

「ええ。しずはと二人の兄姉はかなり歳が離れているけどね」

「うちと同じです! うちも三人兄妹なので!」


 ルーシーは花理さんとの会話では終始興奮していた。

 しかも三人兄妹という共通点でどちらも末っ子。尚更ルーシーは嬉しそうだった。


「すみません、自己紹介忘れていました。私、宝条・ルーシー・凛奈です!」

「ふふ。知ってるわよ。さっき挨拶していたもの」

「そうでした……そ、それにしてもしずはのお母さんとっても綺麗ですっ! しずはが美人なのはお母さん譲りなんですね!」

「そう見える? でもね、最初は見た目に無頓着だったのよ。今だってどちらかと言えば男の子っぽい服装のほうが好きみたいだし」

「あの美人で可愛いしずはがっ!?」


 そっか、ルーシーは小学生時代のしずはを知らないのか。

 小学四年生までは確かに男の子が着るような服装をよく着ていたけど、六年生になる頃には見違えるほど変わっていた。

 そして中学生に上がると学年で一番の美少女だと言われ……。そこからは確かに花理さん譲りの美貌があったとは思うけど。


「誰かさんのお陰でね?」

「…………」


 花理さんがそう言いながら俺に目線を送る。彼女も俺には想いを寄せる相手がいることを知っているはず。

 ただ、今日この時まではその相手が友人のオリヴィアさんの娘だとは知らなかっただけ。


「あ……光流!?」

「さあ、誰なんでしょうね。ふふ」


 ルーシーが花理さんの視線に気づいて、しずはが変わったのは俺が理由だと気づいた。花理さんははっきりとは言わなかったものの、答えを言っているようなものだった。



 実は母親同士が友人だった、という驚きもありながら、ルーシーはとても嬉しそうに花理さんと会話を続けた。






 ◇ ◇ ◇




 夜風が心地よく顔に当たり、ダンスで上がった体温を冷やしてくれていた。


 まだ最後の歓談は続いてはいるが、今俺は会場とは別のテラスのような場所で涼んでいた。



「あ〜、満足! お腹いっぱい! ここ気持ちいい〜っ!」



 そう、伸びをしながらテラスの縁へ腰かけていたのは黄金の女神――のようなルーシー。

 喧騒から離れたこの場所は、アーサーさんからお詫びとして教えてもらった場所だ。


 何に対してのお詫びなのか、という疑問もあるが、ルーシーと二人きりになれるならどこでも良かった。


 ちなみにお腹いっぱいというのは、ダンスをして消費したからか、これでもかと料理を食べまくっていたせいだ。

 美しいドレスではあるが、どことなくお腹が膨らんでいるような気がしないでもない。

 でも、これを言ったら絶対に怒られる。


 しかもお腹いっぱいと言っているくせに、デザートは別腹のようでそのデザートを乗せたお皿だけここに持ってきていた。


 伸びをしたかと思えば、すぐにお皿に手を伸ばした。


「そろそろ手を止めたら?」

「だって今は体が糖分を欲してるんだもん!」

「わかるけど……」


 まあ、今日くらいは良いか。

 俺だって参加者じゃないのに、料理を食べさせてもらったし。


 でも料理をとる間、他の男性たちからかなり冷たい視線をもらっていた気がする。

 逆視点から見れば俺が皆からルーシーを奪ったみたいに感じているんだろうけど。 


「はい、光流。あーん」

「あむ……」


 フォークで小さくカットされたケーキを口まで運ばれ、俺はそのまま口に入れた。


「むふ〜」

「嬉しそうだね、ルーシー」


 いわゆる、顔がデレデレになっているというのが正しいだろうか。

 今食べているケーキのように甘い顔をしていた。


「だって……だって、だって……わかるでしょ? 言わせないでよ〜」

「はは……」


 その答えは、もうダンスする直前に言われていることだ。

 俺が来てくれて嬉しいと、それがルーシーの気持ちだった。


「ほら、もう一個」

「ちょっ、俺はもう――あむ」


 ルーシーに無理やりケーキを放り込まれる。

 目を細くして睨みつけるも、今の彼女には何も通用しなかった。


 俺に食べさせることに満足したのか、ルーシーは近くにあった背の高い丸テーブルにお皿とフォークを置いた。




「――光流、本当に王子様みたいだったよ」




 こちらに向き直ったルーシーが俺に一歩近づく。


 彼女の金色の髪が優しい夜風に靡いてキラキラと輝く。夜の闇とホテル内の照明が合わさり彼女の顔に美しい陰影を作っていた。



「アーサー兄が仕組んだことだったとしてもさ、光流にあんなことされたら……心奪われちゃうよ」



 俺もルーシーがドレスアップした姿に心を奪われている。

 何個心臓があったって足りないくらいに綺麗だ。



「素敵だったな。光流とのダンス……」



 それは、こっちのセリフだ。

 あんなに滑らかにステップを踏んで俺をリードしてくれたルーシー。

 とっても美しくてかっこよかった。

 多分、ダンスの練習だって一夜漬けだった。なのにあの動きだ。昔の動きを体では覚えていたのか、それとも身体能力の高さ故なのか。はたまた指導者が良かったのか。その全部かもしれない。


「光流のその髪型、とっても似合ってる。メイクもしてて、普段よりも何倍もかっこよくて……あ、普段はかっこよくないって言ってるわけじゃないよ?」

「ふふ、ありがとう。大丈夫だよ」


 今日の俺の髪型はリムジンの中でセットされたオールバック。ポマードのような少しツヤの多い整髪料を使っていた。

 この髪型はしずはのコンクールに正装で行った時以来だろうか。

 ルーシーにかっこよく見えているなら嬉しい。


「光流はいつもかっこいいから安心してね」


 そう言いながらルーシーがまた一歩こちらに近づく。すると右手で俺の頬に優しく触れ、細く滑らな指が頬をなぞる。

 ダンスをした時と同じくらい顔の距離が近くなった。


「――ねぇ……これ、私たちの挨拶にしない?」


 ルーシーが頬に触れた手をそのまま下ろすと俺の肋骨の下部に触れた。ちょうどみぞおちの横あたりだ。

 その部分とは健常者なら二つある――俺には一つだけ残っている左の腎臓だった。


「光流もここに触れて?」

「わかった」


 ルーシーに言われた通り、俺は彼女の右の腎臓がある場所に触れた。

 ドレス越しに彼女の体温が伝わり、生きていることを実感する。


「こうすると、光流と繋がっている気がするの」

「うん……」


 ルーシーの吐息が俺の口元にかかる。


 俺は自然とお腹に触れていない方の手でルーシーの肩に触れていた。

 同じくルーシーも空いた手で俺の肩に触れた。


「今日ね、光流は北海道にいるんだから絶対に来れないって思ってたんだ。でも……それでも、私は光流が私の手を取ってくれるって、望んで……信じてたの」

「ルーシーの手を取れて良かった」

「本当に……本当に嬉しかったんだからね」


 月明かりを映し出すルーシーの瞳が揺れる。

 彼女の匂い、息遣い、体温。全てが直に感じられた。


「いつだって、光流と繋がっていたい……」

「俺も、同じ気持ち」

「また、私を助けに来てくれる?」

「もちろん……」


 今日のルーシーはヒールが高い。

 だから二人の瞳が同じ目線で重なる。



「…………」



 そして、見つめ合ったまま、俺たちはお腹に当てていた手を互いの腰に。

 ダンスをしていた時のような姿勢になった。



「――光流……」

「ルーシー……」



 え、あれ……これって。



 ルーシーの艷やかな薄紅色の唇が俺の唇に近づく。

 そして、目を瞑った。



 これ……良いのか?

 今、しても良いものなのか?


 まだ、俺たちは付き合っているわけでもない。

 でも、多分。気持ちは同じで……。



 誰もないテラスで二人きり。

 月明かりに照らされる中、なんだか雰囲気も良い。


 もう、ルーシーしか見えない。


 二人の世界にはもう誰も入り込めやしない。



 俺も彼女と同じように目を瞑って――、




「――――」




 ルーシーの唇に触れる直前だった。




「――宝条・ルーシー・凛奈! やっと見つけましたわ!」




 静寂を破って二人の世界に入り込んできた人物がいた。




 バタンとテラスへと続くガラスの扉を開け放たれた。


 ビクッと俺とルーシーが同時に反応し硬直。

 体をそのままに開け放たれた扉のほうを向いた。



「――玲亜、ちゃん……」



 ルーシーが呆れた声でそう呟いた。

 そこには真っ赤なドレスをはためかせて満面の笑みで立っていた倉菱玲亜がいた。



「…………あら……ワタクシ、お邪魔だったかしら?」



 人差し指を口元にあて、あっけらかんとした表情だ。

 反省している様子はなさそうなのが、彼女っぽい。



「もう……本当に玲亜ちゃんったら……」



 キス、未遂……。


 唇同士のキスは告白前にしなくて良かったと捉えるのか、それとも……。


 そういえばルーシーは倉菱さんのことをいつの間にか玲亜ちゃんと呼んでいる。

 この短い間に仲良くなったのだろうか。


「あなたのお母様が、帰るから呼んできてもらえないかと言われたんですの」

「そう、なんだ……」


 倉菱さんの説明に理解しつつも、ルーシーはどこかキス未遂になったことについてがっかりしている様子が見て取れた。


 少し前、俺は頬にキスされた。

 なら、俺だってルーシーの頬にキスしても良いのではないだろうか。


 今、ルーシーは倉菱さんの方を見ている。


 だから――、




「――――」




 俺はルーシーの無防備な頬にキスをした。




「――ひ、光流っ!?」



 ルーシーがこちらに振り向きながら顔を真っ赤にしていた。

 俺のキスでそんな反応をしてくれたことが嬉しい。



「あ、あ……あなたは! な、なんてことをしてるんですのっ!?」



 ただ、倉菱さんの目の前でのキスだった。

 だから彼女は顔を赤らめながら卑猥なものを見るような目でそう言った。



「前の……お返しだよ」

「光流……」



 柔らかなルーシーの頬の感触。

 自分からキスなんて初めてしたけど、あれで合っていたのだろうか。


 ただ、今のルーシーの表情が合っていたと物語っていた。



「ハ、ハレンチですわっ! ハレンチですわ〜〜〜っ!?」



 二回も言わなくてもわかるのに。

 倉菱さんは頭から湯気でも吹き出ているかのように表情を沸騰させ、両手で自分の頬に触れながら叫んだ。

 その声がテラスの闇へと消えていった。



「ふふ、ふふふふふっ」

「はは、はははははっ」



 そんな倉菱さんの様子がおかしくて二人で笑ってしまった。



 これからもこのルーシーの笑顔を守りたい。

 手の届く範囲で守りたい。


 いや、手が届かなくても、今日みたいに駆けつける。

 そう決めながら、彼女の笑顔を心に刻み込んだ。



 この後、ルーシーからはアーサーさんの婚約者が倉菱さんだと聞いて驚かされた。

 ただ、先ほどの反応からまだ二人はキスはしていないのだと感じた。




 ◇ ◇ ◇




「――光流。今日はありがとう」



 何度も、何度も。

 今日は何度も言われた言葉。


 ホテルから宝条家の車で家まで送ってもらい、玄関の前でルーシーがそう感謝を告げてくれた。


「こちらこそ。――次はまた合わせ練習の時に」

「うん。……じゃあおやすみ、光流」

「おやすみ、ルーシー」


 言葉を交してルーシーと車の中にいる真空へと手を振った。


 俺が車を見送ろうとしたのだが、ルーシーは俺の家の前で動かず、俺が家の中に入るまで見送るつもりのようだった。多分、彼女なりの今日の感謝がそこに詰まっていた。


 だから俺はルーシーの気持ちを汲んで、家の中に入ろうとリュックから家の鍵を取り出した。



 ――はずだったのだが。



「あれ……」

「光流?」


 リュック一つに最低限の荷物を詰めて北海道から東京へと戻った。

 ……鍵を入れた記憶がない。でも、いつもなら自然とどこかに入れている。覚えていないだけで、どこかにはあるはずだ。


 俺はリュックのあらゆるポケットを開けて鍵を探した。

 しかし結局、最後まで鍵は見つかることはなかった。


 そういえば……。


 今日は東京に戻ってきてからずっとスマホを触っていなかった。


 不思議そうに俺のことを見ているルーシーを前に、溜まっていたメッセージ欄を眺め、一人のメッセージボックスを開いた。



『光流! あんた鍵忘れたでしょ!』



 姉から鍵の写真付きメッセージが届いていた。



「光流、どうかしたの?」

「あ……えーと……」



 つまり俺は、東京に戻ってきたは良いが――、



「――家に入れない。鍵、北海道に忘れてきたらしい……」

「ええっ!?」


 俺の言葉を聞いてルーシーは目を見開いて驚いた。

 しかし、次の瞬間にはパッと顔色を変えて何かを思いついたように手を叩いた。



「――なら、うちに泊まりに来なよ!」



 まさかのお誘いだった。


 まだ怒涛のような一日は終わらないらしい。




 ◇ ◇ ◇



 

 俺は今、再び宝条家の車に乗っていた。



「光流く〜ん、そんな顔赤くしてどうしたの〜?」

「真空……茶化しちゃだめでしょ」


 黒塗りの高級車の後部座席の真ん中。

 両サイドにはルーシーと真空が座って俺を挟んでいた。


 さよならを告げたのに家に入れず、また車に乗ってしまったのだが、それを知った真空が俺を肩で押しながら茶化してきた。


 車内では終始、真空が俺とルーシーの話をしていた。

 よほど見ていて感動したのか、面白かったのか、興奮冷めやらぬ様子で話が終わらなかった。

 ただ、真空はテラスでの俺たちのことは知らない。あれは二人だけの秘密……にはならなかったけど、素敵な思い出だ。


 でも、ルーシーは親友である真空にはキスされたことを話してしまうだろう。

 結局真空にはいつも俺の情報は筒抜けになってしまっている。




 ――そうして到着した宝条家の屋敷。


 俺は家に通されるとルーシーたちの部屋に近い客室へと通された。

 そこは既に家具が揃っていて、ベッドも用意されている部屋だった。


 着替えはアーサーさんのものを借りることになったので、ひとまず寝巻きは気にしなくても良くなった。シルクのような素材のパジャマであまりにもサラサラで驚いた。パジャマ一つとっても高級なものはあるらしい。


 トイレの場所はある程度把握してるので問題はなかった。最後に風呂場を案内されたのだが、温泉旅館のようなお風呂で腰が抜けた。

 真空は毎日ここに入っているらしく、最高だと話していた。



「――じゃあ、お風呂借りようかな」



 今日はあとお風呂に入って寝るだけだった。

 だから俺は着替えを持って風呂場へと向かった。


 ただ、アーサーさんたちが普段使っている男子側の風呂場があることを教えられなかったこと、そして、誰がいつお風呂に入るのかを聞いていなかったこと。


 慣れない場にダンスも踊ったせいで疲れ果て、脳みそがほとんど機能停止していたせいもあるかもしれない。


 そのせいでこのあと風呂場で大変なことになるなんて思いもしなかった――。







 

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