221話 下手くそなステップ

 社交界が行われる日の早朝。

 俺はアーサーさんから緊急性のあるようなメッセージをもらった。


「ルーシーが、取られる……?」


 このメッセージだけでは、まだ理解が及ばなかった。


 ただ、いきなり東京に戻って来いと言われても俺は明日戻る予定だ。

 そんな急に……。


 でも、俺が行かないことでルーシーに何かあったとしたら……。

 そう考えると何もせずにはいられなかった。


 俺はアーサーさんにすぐに返事をした。

 どういうことなのか聞いてみると、詳しい事を話すと余計な心配をさせるかもしれないから、とにかく今日の夜までには戻って来てほしいと返事がきた。


 これだけでは本当に何もわからない。

 とりあえず家族に相談してみることにした。



 ジョギングから祖父母の家に戻ると既に家族全員が起きており、食卓には朝食が準備され始めていた。

 さっとシャワーを浴びてからテーブルに座ると、俺から話す前に姉が話しはじめた。


「――光流、東京に戻るんでしょ?」

「えっ……なんでそれを」

「アーサーさんから私にもメッセージ来たよ。どうにか光流を呼び戻せるようにしてくれって」

「そこまで……」


 俺が決断できなかった時のために姉にもお願いしていたのか。

 それなら本当にルーシーが何か危ない出来事に巻き込まれているのかもしれない。


 そういえば今日は社交界という話だったはず。それと何か関係しているのだろうか。


「光流、良いわよ。行ってきなさい」

「またくればいいべ。とりあえず白い恋人でも持ってけ」


 姉に続いて母も後押ししてくれると祖父が戸棚から札幌発祥のお土産の箱を持ってきてくれた。

 皆、本当に優しい。ただ、祖父からもらった白い恋人の箱は封が切られていた。……これ、既に中身食べてない?


「次は夏休みに来ようと思ってる。ラベンダーが咲いた時に」

「良いじゃない。せっかくだから次は札幌とか函館にも行ってみたらどう? 夏休みなら時間あると思うし」


 祖母の勧め。

 札幌に函館か……。今まで行った記憶がないな。富良野に近い旭川ならあるけど。

 そういえば旭山動物園も昔に行った時は凄い楽しい動物園だった気がする。ルーシーと一緒に行ってみたいな。


「うん。うまく予定が空いたらそうしてみるね。じゃあ、本当にこれから帰るけど、大丈夫?」

「良いぞ。着替えはこっちで運んでおくからとりあえず財布だけ持って行きなさい」

「父さんもありがとう」


 すると父がタクシー代と飛行機代と少し余分にお金をくれた。

 帰りの分の飛行機代が無駄になっていないのだろうか。それだけ不安だった。


「ちなみにお金はアーサーさんが出してくれるって。こっちが急に呼び出すんだから当たり前だって言ってたよ」

「さすがはアーサーさん……」


 お金の心配はなくなったようだ。

 俺は帰る準備をするため、歯磨きや外に出る服装に着替えた。



 そうして、家の前にタクシーを呼んで最寄りの駅へ。そこから電車で移動し、千歳空港へと向かった。

 千歳空港から羽田空港行きの飛行機に乗れたのは十五時ほどの便だった。


 電車や飛行機で移動している間、色々と不安が襲ってきた。

 とにかくルーシーが心配だ。


 なのに、ルーシーに直接連絡することをこの時はなぜか忘れていた。

 アーサーさんに飛行機の到着時刻を話すと迎えに行くから待ってろと言われた。


 約一時間半で東京に戻り空港の外のロータリーへと顔を出すと、そこには宝条家の人間が待っていた。



「――光流坊っちゃん。お待ちしておりました」

「氷室さん……わざわざありがとうございます」


 学校でもお弁当を届けにきた時や合わせ練習でルーシーの家に行った時には顔を見ていた。

 なので、最近は氷室さんによく会っている気がする。


「こちらにお乗りください。急ぎますよ」

「は、はいっ」


 俺はたまに乗せてもらったことがある黒塗りの高級車に乗り込んだ。

 運転手はあまり見たことのない使用人だった。


 そうして俺は氷室さんにどこかへと連れて行かれた。




 ◇ ◇ ◇




 そこから約一時間程度だろうか。

 午後六時半を過ぎたくらいの時間になった。


 もう、空の色は夕闇に染まっていた。


 移動中、氷室さんにはどこに向かっているのかを教えてもらうことができなかった。

 アーサーさんに口止めされているとのことで、氷室さんは情報規制されていたのだ。


 そんな中、いきなり車が路肩へと一時停止した。


「光流坊っちゃん。車を乗り換えます。こちらへどうぞ」

「えっ、乗り換えるんですか?」


 何が何やらよくわからなかったが、俺は指示に従うしかなかった。

 言われるまま車を降り、別の車へと乗り換えた。


 その車というのは、なんとリムジンだった。


 リムジンに乗るのは久しぶりだった。

 ルーシーと再会した日が最後だったはずだ。


 久しぶりに広い車内を体感しつつ、そこで出迎えてくれたのは数人の使用人だった。


 まず、運転手には須崎さん。

 他にはルーシーとたまに話しているところを見たことがある牧野さんという使用人。

 あとは女性の使用人のような人が二人。ルーシーの家で見かけたことはあるがよくは知らない人たちだ。


 ただ、牧野さんだけはなぜかいつもと全く雰囲気が違った。ドレスを着ていてメイクもいつもと違い髪型もアップにしていた。

 他の二人はいつもの宝条家にいる時と同じ使用人の服装だった。



 そうして氷室さんもリムジン乗り込むとそのまま車は出発した。

 というか、車を乗り換えたのになぜかその車も後ろに着いてきていた。


「――さあ、九藤様。お着替えをしますよ」

「お着替えっ!?」


 車が出発してからすぐ、少し体が大きめの使用人がそんなことを言い出した。

 俺はこれからどうなってしまうのだろうか。 


「こちらは侍従長という立場の大八木と使用人の牧野に及川です」

「僕は九藤光流と言います。よろしくお願いします」


 氷室さんにそう紹介されると三人とも俺に軽く礼をしてくれたので、俺も自己紹介をして頭を下げた。

 大八木さんは確かに体型も相まって責任感のありそうな雰囲気だ。

 牧野さんと及川さんは使用人をしているにはもったいないくらい美人な人だった。


 牧野さんはルーシーに聞く話だと三十代だというが二十代にしか見えない。

 及川さんは二十代前半に見えるが新人という感じがしない。というかなぜか手をわきわきを動かしているのが気になった。


「では、お願いします」

「えっ……え、えっ!?」


 俺は三人に服を脱がされ、パンイチにされた。

 水着でもないのに、女性三人に下着姿を見られるのはさすがに恥ずかしい。


「あら、良い体ではないですか」

「お嬢様から聞いてはいましたが、これほどとは……」

「着痩せするタイプなんですねっ」


 それぞれに俺の体を見て感想を言ってくる。

 そんなにまじまじと見ないでくれ……。


 すると、今度はボディシートで体中を拭かれてから用意されていた服に着替えさせられた。

 正直一人でも着れるかと思ったが、三人同時に手を動かされると一瞬で着替えが完了した。


「これでよし……牧野、メイク道具を」

「はい」


 もう、なるようになれ……。

 これでルーシーが救われるなら何でもやってやる。


 そうして、リムジンで移動しながら約十分。

 俺は初めてのメイクに加え、髪も整えてもらった。



「光流坊っちゃん……素敵ですよ。髪を上げると印象がかなり変わりますね」

「さすがは牧野ね。数倍は良くなったんじゃないかしら」

「牧野先輩凄いですっ」

「いいえ。今日は時間のない中できる限りのことをしただけです。もう少し時間をいただければもっと……」


 俺は少し光沢が入った白いスーツに着替えさせられ、髪型はオールバックになっていた。

 しかもスーツの中にはベストも着させられた。初めて着たのだが、少しお腹回りが締め付けられている気分だ。

 さらにシャツには通常のネクタイではなく蝶ネクタイ。胸には三角折りにされたハンカチも差し込まれていた。


「あと少しで到着しますよ」


 すると運転してくれている須崎さんがそう伝えてくれた。

 結局、今の今まで何が俺を待っているのかわからなかった。


 そして、次の牧野さんの言葉で俺は衝撃を受けることになる。


「九藤様。これから話すことは少し恥ずかしいかもしれませんが必ず守ってください」

「え……あ、はい……」


 牧野さんの真剣な目が俺にYESとしか言わせなかった。


「時間がありません。ホテルに到着しましたらすぐに走ってください。場所はエレベーターで上がって十六階の桜の間です。受付には既に伝えているので、受付せずにそのまま会場に入るための扉へ向かってください」


 ホテル……?

 やっぱりルーシーが参加しているという社交界に俺も参加させられるということだろうか。

 でも、それなら緊急性があるようには……。


「中に入ったらすぐにお嬢様をお探しください。九藤様を待っています。何度も言いますが時間ギリギリです」


 でも、この言い方。やっぱり緊急性があるということだ。

 走るのは得意だ。なんだってやってやる。


「そして、お嬢様を見つけたらこう跪いてください」


 すると牧野さんはその場でどうするのか実践してくれた。


「跪いたら、お嬢様の手を取ってこうするのです。最後に手の甲に口づけをしながら『僕と踊ってくれませんか?』そう言ってください」

「えええええ〜〜〜っ!?」


 理解はできるが、想像以上のことを言われて俺の脳が理解するのを拒否していた。


 牧野さんは及川さんの手にキスしており、その及川さんは嬉しいのか頬を赤らめていた。

 一方の牧野さんはずっと真面目な顔をしていた。


「九藤様。これはあなたにしかできないことです。あなただけができることです。そして、あとのことはお嬢様に任せればなんとかは……なるでしょう。詳しくはこれ以上お話することはできませんが、九藤様なら必ずやってのけると信じています」

「牧野さん…………」


 多分、俺とルーシーの関係は宝条家の人は全て知ってるのだろう。

 だからルーシーの心の内だって全部でなくとも理解はしている。


「私たちは全員、お嬢様のご病気が治った時には涙しました。九藤様が直接的な要因になっているかはわからないとお聞きしていますが、それでも九藤様には感謝しています。お嬢様が辛い思いをしていることを長い間見てきましたから」


 牧野さんの言葉には熱がこもっていた。

 それはルーシーのことを小さい頃から見てきたからわかることだった。


「男を見せてください。私たちにもお嬢様があなたを選んで良かったと思えるよう、その姿を見せてください。私たちは宝条家と一心同体です。誰もがこの家のことが大好きで働いています」


 それは見ていてわかる。

 宝条家で働いている人は皆幸せそうだ。

 高齢になっても働き続けている氷室さんを見てもそれは十分に感じ取れた。


「――失礼しました。少し私情が入りましたね。でもこれで九藤様が私たちの想いも背負っていることを理解されたでしょう。宝条家と関わるということはそういうことなのです。ですから、私が言ったことをそのまま実践ください」

「……はい!」


 牧野さんの今の話で俺は決意できた。

 ルーシーと関わるということはどうなるか俺は理解していた。

 そして、今回がその一つだということを。


「九藤様ならできますよ」

「九藤様、頑張ってくださいっ!」


 大八木さんと及川さんにも言葉をもらった。

 彼女たちも牧野さんと同じ気持ちだとその瞳からわかった。


「もう着きますよ」


 須崎さんがそう言うと何やら高級そうなホテルがリムジンの窓越しに見えてきた。

 ドクドクと心臓の鼓動が速くなってきたのを感じはじめた。


 そうして、ホテルのロータリーへとリムジンを横付けした。



「――九藤様、行ってきてください!」 

「はいっ! 行ってきます!」


 牧野さんにそう言われ、俺はリムジンから飛び出した。







「……牧野先輩、演技お上手ですねっ」

「何言ってるのよ志津句ちゃん。本当の話じゃない。ただ、わざと真剣味が増すように強めには言ったけれど」


 光流がリムジンから出ていった後、車内に残された牧野と及川が言葉を交した。


「それにしてもアーサー様には困ったものね。わざわざ北海道から呼び寄せるだなんて。お嬢様のためかもしれないけれど」

「アーサー様からダンスのことは言うなと言われたことには驚きましたけどね。『踊ってくれませんか』という言葉で九藤様は気付いたかもしれませんが」

「どんなダンスになるんだろう……あ〜見たいなぁっ。お嬢様素敵なんだろうなぁ〜」

「では志津句ちゃんの代わりに私が見てきますので」

「牧野先輩ずるーい! 写真……いや動画撮ってきてくださいよ!」

「私がそんなことできるわけないでしょう? それに、あとでお嬢様にどこに行ってたのって怒られるかもしれないのに」

「それはご愁傷さまです……」

「では私は会場に戻りますので、氷室様も侍従長も及川もお疲れ様でした」



 牧野はそう言い残すとリムジンから降りてそのまま会場へと戻った。


 続いて氷室と大八木と及川がリムジンから降りて最初に光流が乗っていた車へと乗り換え宝条家へと帰路についた。

 残された須崎はというと、駐車場に車を停めた後に再び会場へと戻っていった。




 ◇ ◇ ◇




 俺はホテルの会場に入り、すぐにエレベーターを目指した。

 一階にエレベーターが降りてくるまでの時間が惜しい。


 牧野さんが言う通りなら、ルーシーが待っている。


 俺は足踏みしながらチンと音が鳴って到着したエレベーターに勢いよく乗り込んだ。


「十六階だったよな……」


 目的の場所の階のボタンを押してしばらく待った。


 長い。とても長く感じるエレベーター。

 このエレベーターが遅いのか、俺が遅いと感じているだけなのか。

 どうしてもこの何もできない時間が長く感じられた。


「……っ」


 十六階に到着すると同時に俺は駆け出した。


 どこだ……っ。


 桜の間……桜の間……!


 すると共通フロアのラウンジに標識のようなもので矢印が記されていた。


 そこかっ!


 俺は桜の間に向かって走ると受付が見えてきた。


「ちょっと君!」

「良い! あの子は良いんだ!」


 受付の一人が俺を止めようとしたが、もう一人が瞬時に俺だと理解したのか、牧野さんが言った通りに受付をせずに通してくれた。


 そして大きな両開きの扉の前に到着した。


 ここでルーシーが待っている。


 未だに何が何やら状況がよくわかっていない。

 けど、俺は牧野さんたちの想いも背負ってるんだ。


 信じてやり遂げるしかないんだ。


 俺は、一歩前に足を進めた。




 ◇ ◇ ◇




 ルーシーが男たちに囲まれた時、入口の扉近くの壁に腰掛けるアーサーが腕時計を眺めていた。

 それは今日一番楽しみにしていた最高のショータイムが始まるのを待っていたから。


 最初からこうなることを予想していた。

 いや、ルーシーに挨拶をさせわざと目立つようにして注目させた。

 つまり男たちがルーシーをダンスの相手として誘うように仕向けたのだ。


 ルーシーにとっては意地悪な行為。

 ただ、そのルーシーを助ける救世主は必ず来ると信じていた。


 だからこその早朝の仕込み。



「アーサー、これから何が始まるんですの……?」


 目元は赤いが吹っ切れた顔をした玲亜がアーサーの隣に立っていた。


「パーティーだよ。今日一番面白いパーティーがな」

「あなたって本当にイタズラ好きだったんですのね……」

「ああ、特にこいつが関わるとな……」


 もう陰鬱な雰囲気などなく普通に会話していた二人。

 玲亜もアーサーにはいつも通りの言葉で接していた。


「こいつ……?」

「ああ、今にわかる」


 全ては教えないアーサー。

 玲亜は不思議な顔をしていたが、目の前で囲まれているルーシーの様子が少し気になった。


「ルーシーは大丈夫ですの?」

「当たり前だ。ほら、くるぞ。――良い時間だ。さすがだな氷室」


 アーサーはニヤリと口角を上げてそう呟いた。


 すぐ横の扉の先から少しずつ聞こえてくる足音。

 その足音がどんどん近くなり、そして――、




「――さあ、白馬の王子様のご登場だ」




 ◇ ◇ ◇




 両手で勢いよく扉を開いた。




「――ルーシーっ!!」




 それと同時に大切な人の名前を叫んだ。


 すると、中にいた人全員が一斉に俺に視線を向けた。

 ただ、今の俺にはそんなことどうでも良かった。


 ルーシーを探して牧野さんの言う通りにする。それが俺の使命だから。

 それで、ルーシーのピンチを救えるはずなんだから。


 フロアを駆け巡ったせいで少しだけ息を乱しながらも、その場で会場内を見渡す。

 変な目で見られながらも大勢の人をかきわけルーシーを必死に探した。



「…………っ」



 人混みに紛れて、一瞬だけ金色の髪を視界に捉えた。


 俺はその場所に向かって走り出した。



 こんな数の男の人に囲まれて恐かっただろう。


 でも、俺が来たから、俺が手を取るから。

 もう、大丈夫だから。




「――見つけた」




 そこにいたのは、目に涙を浮かべていたルーシー。

 一瞬、取り囲んでいた男たちに怒りが湧いたが、今は優先すべきことではない。



「ひか、る……?」

「うん。俺だよ、ルーシー」


 ルーシーが確かめるように小さな弱々しい声で俺の名前を呼んだ。

 俺とルーシーの目線が交差する。


 後は教えてもらったことをやるだけだ。


 心臓の音がうるさい。

 こんな大勢が見ている前。少しだけ手が震える。


 でも、やるんだ。やるんだ俺。



「お、お前は誰だ!」

「宝条さんに何の用だ!」



 目の前にいた男たちからそんな声が聞こえた。

 でも、俺は気にせずにルーシーの前に跪いた。



「光流……?」



 俺は跪いたまま彼女の右手を取った。

 そうして、顔を近づけて軽くキスをした。



「―――っ!?」

「お前、何をっ!?」



 ルーシーが驚いたと同時に、男たちから悲嘆の声があがった。

 俺は恥ずかしい気持ちを振り切って気にせず続ける。


 先ほどまで頭の中で反芻していた言葉を。


 俺には似合わない、王子様みたいな言葉を――、




「――僕と踊ってくれませんか?」

「っ………」




 この短い間にルーシーの瞳が何度も見開いては揺れ、見開いては揺れた。


 そして、今この瞬間。

 ルーシーの瞳が一番揺れた。




「――私で、よければ……っ!」




 笑顔になったルーシーの瞳から一雫の涙が宙へと飛んだ。


 そうして、俺は立ち上がる。


 ただ、ここから何をすれば良いか聞かされていなかった。

 どうすれば良いんだ。誰か教えてくれ……!


 しかし、俺はそんなことを考えなくても良かった。

 だってルーシーが俺と手を繋いだまま歩き出したから。



 周囲のざわざわが大きくなる。

 呆気にとられた人、憤慨した人、笑った人、感動した人……様々だ。


 でも俺は、もうルーシーしか目に入っていなかった。


 今日の彼女はいつもの数倍美しくて、王女様みたいな輝きを放っていた。

 写真で見るよりもドレスが似合っていて、素敵で……信じられないほど綺麗だった。


 揺れる金色の髪から宝石が落ちていくかのように、コツコツと鳴るヒールの音が心地よい音を奏でるように。

 誰もがこの瞬間の彼女に見惚れていただろう。



 ルーシーが俺の手を引いて連れて行ったのは、会場の中央。

 なぜか中央には人がおらず、空間がぽっかりと空いていた。


 俺とルーシーは、会場の中心で向き合った。



「――本当に綺麗だよ、ルーシー」

「光流……。とっても、嬉しい……っ」


 俺がそう言うとルーシーは最高の笑顔で返してくれた。

 ルーシーの今日のヒールは少し高めで、俺と同じか俺よりも身長が高かった。


 ずっとずっと存在が大きく見えた。

 でも――、


「光流こそ、すっごくカッコいい。なんでここにいるのかわからないけど、来てくれて嬉しい。……本当に嬉しいよ」

「ありがとう。ルーシーのためになったのなら、良かった……」


 もう、二人だけの空間になっていた。

 だから、誰も俺たちを止められない。


 止めたって、止まらない。



「光流は踊り方なんてわからないよね……」

「ほとんど何も聞かされていなくて……俺、やっぱり踊るんだね」

「ふふっ。そっか。そっか……っ」


 ルーシーがくすっと笑い、俺の手と肩を優しく掴んだ。

 そういえば、牧野さんはあとはルーシーに任せれば……なんて言ってたっけ。


「じゃあ今日は私がリードする日だね。姿勢を正して私の腰を掴んで?」

「こう、かな……?」

「うん。もうちょっと上。背中辺り」


 ルーシーに言われた通りに彼女の腰――ほぼ背中の部分に軽く触れた。

 彼女の腰はとても細く、柔らかく、温かさを感じた。


「あとは、ステップをするだけ。私の動きに合わせて足を動かすの」

「できるかわからないけど、やってみる」

「うまくいかなくても大丈夫。でも光流ならできるって信じてる……」

「そう言われたならやるしかないね」

「うん……っ」


 ダンスなんて人生で一度もしたことがない。


 やれるわけがない。

 でも、ルーシーにできるって言われた。なら、やるしかないじゃないか。



 ――いつの間にか、会場を静寂が包んでいた。




 ◇ ◇ ◇




「――まさか、こんなところで光流くんを見ることになるなんてね……創司、行くわよ」

「はーい」



 二人はアイコンタクトをするまでもなく、そう声をかけただけで同時に演奏をはじめた。


 いきなり始まった演奏に、周囲が驚く。


 世界が誇る最高のピアニストに、現役最強のヴァイオリニスト。


 息の合ったその演奏はゆったりとした曲になっていた。

 聴いていて心地よい。耳から逆の耳へスーッと入っていく自然さがあった。


 メインはダンス。

 そのダンスを邪魔しないようにピアノとヴァイオリンの音が主張しすぎないように音を奏でた。



 中心にいる二人のダンスが始まった。



 ルーシーが足でステップを踏むと、光流が一瞬遅れてそのステップに着いていく。

 進行方向へ互いに繋いでいた片手を伸ばし、回りながら移動する。


「ステップは細かく。でも焦らず」

「うん」

「ゆっくり……ゆっくりで良いよ……」


 ルーシーが光流に声をかけながら少しずつ、ゆっくりとステップを刻む。

 光流の足がたまにルーシーの足に当たりかけるが、ギリギリそれは避けられていた。


「うん、上手。次は腰の手を放して」

「こう?」

「そう」


 光流が左手を放すとルーシーが回るように反転し放した右手を伸ばす。

 そうして、今度は逆。

 右手と繋いで逆方向へと回りながらルーシーが左手を伸ばす。



「こんなの……ダンスじゃ、ないっ」

「下手くそじゃないかっ」

「これなら、俺がダンスしてたほうが……っ」



 ルーシーと光流のダンスを見て、ルーシーの手を取れなかった男たちは歯がゆい思いをしていた。

 二人のダンスはとても上手とは言えないものだった。


 ステップはぎこちなく、体は硬く、ただ姿勢だけは保ち続けた。


「……光流、素敵だよ」

「ついていくのが……精一杯……っ」

「ふふ……ほら、次は私を支え……てっ」


 そんな時、ルーシーが光流の足に引っかかっていないにもかかわらず躓いてしまう。

 いつもはここまで高いヒールを履かないせいかルーシーは体勢を崩し、後ろに倒れるようにしてバランスを崩した。


 しかし、その一瞬。

 普段からのトレーニングのお陰なのか、体幹の強さや腕の筋肉が鍛えられていたことが功を奏したのか。


 普通なら反応できないはずの転倒を膝を折り、ほぼ右腕一つでルーシーの全体重を床スレスレで支えた。

 ルーシーは腰がのけぞり顔がピクピクしており、光流も腕がピクピクしていた。


 そんなトラブルを奇跡的に避けたからなのか――、



「ひゅ〜〜〜っ!」



 そんな声と共に拍手が巻き起こった。


「光流……ありがとう」

「あ、危なかった……」

「これからも光流に体を預けられるね」

「……頑張るよ」


 たらっと光流のこめかみから汗が流れる。

 腕になんとか力を入れてルーシーを起こす。


 再び元の姿勢に戻りダンスが再開された。



「クックック……最高じゃないか。玲亜、どうだ?」

「ま、まさかあの木偶の坊がルーシーの相手だったとは……見ていられませんわ」

「お前はまだわかってねーな。あの下手くそなステップだから良いんじゃねーか」

「あなたは本当に歪んでますわね」


 これを待っていたと言わんばかりにアーサーは二人のダンスを見て笑っていた。

 玲亜には少々理解できなかったが、ルーシーの表情が光流を見てうっとりとしていたことは見てとれた。


「俺たちも行くぞ」

「あなたが転ばないか心配ですわね」

「何言ってるんだ? この場に俺よりダンスがうまいやつなんていない」

「ワタクシの方が上手に決まってますわ。その減らず口に恥をかかせてあげましょう」

「ふっ、やってみせろ」


 ルーシーと光流に続いて、アーサーと玲亜も手を取って中央へと進んだ。

 そうして、ダンスに加わった。


「真空、行くよ!」

「ジュードさんっ」


 ルーシーと同じく男たちに囲まれていた真空。

 しかし、光流たちのダンスに目を奪われていた時、真空から目線を外してしまっていた。


 ジュードはその瞬間を見逃さず、真空の前までやってきて手を取った。

 そうしてアーサーたちと同じくダンスの輪に加わった。


 それを見た周囲の参加者が次々と中央へと進んでゆく。


 ただ、ルーシーや真空を目当てにしていた男たちは、まだ誘われていない女性がいるにも関わらずその場に立つ尽くしていた。




 ◇ ◇ ◇




「光流、慣れてきた……?」

「まだ、全然……っ」


 さっきは本当に危なかった。

 体がとっさに反応したからルーシーを支えられたけど、あと一瞬遅れたらルーシーが床に頭をぶつけていた可能性があった。


 本当に体を鍛えていて良かったと思った瞬間だった。

 多分鍛えていなかったらいくらルーシーが軽くても支えるのは難しかっただろう。


 やってみせるとは意気込んだものの、ルーシーに合わせるだけで本当に一杯一杯だった。

 慣れただなんて全然言えなかった。


 そうしているうちに、俺たち以外にダンスをする人が増えてきた。

 そのせいか視線が分散し、見られているという感覚がなくなった。


 つまり、体の緊張がなくなってきていた。


「あれ……光流よくなってきてる」

「少しだけ……」


 息が触れるほどの近さで大きなサファイアの瞳がじっと俺を見つめている。

 その瞳が小刻みに揺れていて、特に今日は色っぽく見えた。


 気を抜くと、すぐにルーシーに持っていかれそうだ。


 ただ、おおよそ同じ動きの繰り返しをしてきたので、ルーシーのステップから次の動きが予想できていた。

 だから、俺は少しだけ遅れを取り戻していた。


「良い……合ってきてるよ」

「俺だって……やれるだけ……」

「本当に光流は……かっこいい」

「ルーシーだって……本当に綺麗だよ」


 少しだけステップが合ってきたとしても、結局は出鱈目で素人に毛が生えた……いや毛も生えていないレベルだ。

 それでもルーシーは褒めてくれる。


 こんな綺麗なルーシーと踊れているだけでも奇跡だ。

 俺みたいな初心者とこんな素敵な舞台で……。


 そうして最後、俺たちの動きに合わせてくれるように互いの腕を伸ばしルーシーが白鳥のようにポーズを決めた瞬間、演奏が終わった。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


 やっと、終わった。

 ぎこちなかったけど倒れずにやり切った。



 すると会場全体から拍手が巻き起こった。


 同時に今まで踊っていた人たちがその場から捌ける。


「光流……踊ってくれて本当にありがとう」

「はは。下手くそだったけどね」

「ううん。私にとっては素敵なダンスだった」

「いつかまたルーシーと踊る時には踊れるようにしておきたいな」


 息を切らしているルーシーは、俺の目を真っ直ぐに見て頬を赤らめる。うるっとした瞳に吸い込まれそうになりながらも俺はしっかりとその目を見返した。

 そう言葉を交しながら俺たちは手を繋いだまま中央から端へと移動した。


 すると、入れ替わるように他の男女が中央へと集まりだした。

 ある程度人が集まると、再び流れるように演奏が再開された。



 緊張と普段はやらない動きとピンと張った姿勢のせいかめちゃめちゃ疲れた。

 しかし、今日はそれだけでは終わらなかった。



「ルーシー、光流。最高だったぞ」


 そう声をかけたのはアーサーさんだった。

 ニヤニヤとしていて満足そうな顔をしている。


「アーサーさん……本当に何事かと思ったんですからね」

「でも何事にはなってただろう? お前がこなければどうなっていたか、わかるよな?」

「そう、ですね……」


 確かにアーサーさんが俺をここに呼ばなければどうなっていたのだろう。

 ルーシーが無理やり誰か他の男と手を取り合うことになり、密着して踊ることになっていたのだろうか。


 いや、宝条家の人はそんなルーシーが嫌がることはしないはず。

 それならこれはアーサーさんが色々と仕組んだはずだ。


「ちょっとアーサー兄! 色々言いたいことはあるけど……!」

「なんだよ、言ってみろ」

「光流を呼んだのはアーサー兄なんでしょ? 光流が来てくれてもちろん嬉しかったよ? けど……」

「だろ? いくらでも感謝していいぞ」

「こんな状況を作ったのはアーサー兄でしょ! ここまできたら私でもわかるんだから!」


 やはりそうだったか。

 ルーシーもそう思っていたらしい。


 アーサーさんには困ったものだ。


「あ、須崎に牧野さんも! どこ行ってたのよ!」


 すると二人の姿を見つけたルーシーが怒りの目を向けた。

 二人は俺と一緒にいたはずだけど、どういうことなのだろうか。


「お嬢様。文句はアーサー様にお願いします。では私は瀬利と踊ってきますので」

「せりぃ〜っ!?」


 須崎さんが牧野さんを名前呼びしていた。

 もしかして、良い仲なのだろうか。


 ルーシーの言葉をいなした須崎さんは牧野さんを連れてダンスに加わった。

 その牧野さんは連れ出される直前、俺の横を通り過ぎ「よくやりました」と小さい声で褒めてくれた。


「ルーシーっ! もう、すっごく感動した! あそこで光流くん来るっ!? てか、なに! あの手にキスしたやつ! こっちまで恥ずかしくなったじゃん!」

「そういえばそうだった……」


 そこに先ほどまでジュードさんと踊っていたらしい真空がやってきた。

 手の甲にキスをしたことについて思い出してルーシーは恥ずかしくなったようだ。

 俺だって恥ずかしいよ……。


「あ、あれはびっくりしたけど……でも嬉しくて……ってそうじゃなくて! あれだって絶対アーサー兄がなんか命令したんでしょ! 絶対そうだ!」

「ルーシー。もういいだろ。ほら、次は俺と踊るぞ」

「はぁっ!? ちょっ、まだ話は終わってないっ!」


 アーサーさんはルーシーに有無を言わさず連れていった。

 ダンスで黙らせる気なのか。


「光流くん! まさかここに来るとはね〜。会場に入ってきた時は白馬の王子様がルーシーを迎えに気たのかと思ったよ! マジで漫画かと思った!」

「真空……そう言ってくれて嬉しいけど、俺は今でもなんでこんなことになってるのか、ほとんどわかってないんだからね」


 俺はため息をつくしかなかった。

 ひとまず、俺はルーシーのダンスパートナーになるためにアーサーさんに仕組まれて呼ばれた。恐らくこれで間違いはないのだろう。


 でも、ルーシーを助けて嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ち五分五分だ。

 下手くそなダンスを全員の前で見せてしまったし、恥さらしもいいところだ。


 なのに――、


「それはそれとして、次は私と踊ってね〜」

「えっ、真空と!?」

「だって、そうしないと他の男に誘われちゃうもん。ダンスの時間が終わるまでは知ってる人で交代交代だよ」

「まじか……」


 ダンスはまだ終わらないらしい。


「私のことが不満なの〜?」

「不満なわけないでしょ。俺が下手くそなダンスしかできないからだよ」

「……不満、ではないんだ」

「ちょっと。変な言い方は止めてくれ」


 真空の怪しい笑みが男心をくすぐる。

 下手くそなダンスで断りたかったが、それ以上に俺は今の一曲で疲れていた。

 このあとはさっき以上にヤバいダンスしかできない……。


 それにしてもルーシーもそうだが、真空も写真で見るより実際に見た方がとてつもなく素敵にドレスアップされていた。そりゃ誘いがたくさん来るわけだ。


「真空もドレス似合ってるよ」

「ちょっと光流くん。私を口説くのはやめてよね〜」

「口説いてない!」

「そういうところだぞっ」


 そうして、俺は真空と一緒に踊ることになった。


 会場の中央を見るとルーシーがアーサーさんに振り回されていて、必死に着いていっていた。

 あれは……本当に大変そうだ。


 その後はルーシーや真空以外の人とも踊ることになった。

 しかもその相手がルーシーの母であるオリヴィアさんや倉菱さん。剣持さんや鳳さんもだ。


 ちなみにルーシーとオリヴィアさん以外には、ダンスについてボロクソに言われた。


 仕方ないだろ練習すらしてないんだから。

 コケなかっただけ良いと思ってくれよ。



 北海道からの弾丸帰省。

 まさかダンスを踊らされるとは思ってもいなかったが、やっと天国のような悪夢の時間が終わった。


 もう、疲労困憊だった。

 足だってピクピクと痙攣している。

 普段から鍛えているはずの俺より、俺と踊った女性陣の方が皆元気そうだった。



 ああ、今日はもう家に帰って眠りたい。



 ――でも、本当にここに来て良かった。



 他の誰でもない俺が最初にルーシーの手を取ってダンスできたこと。


 彼女の綺麗なドレス姿を最初に独占できて、下手くそだったけど、そんな素敵な彼女とダンスができて。



 色々あったけど、結局は――、



「俺って幸せ者だな……」



 すぐ近くでいまだにアーサーに怒っているルーシーを見ながら、そう思った。






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