217話 写真の記憶
チャイムを鳴らすと出迎えてくれたのは祖母だった。
「待ってたわよ」
「母さん、久しぶりね」
「こんにちは。お久しぶりです。お義母さん」
既に六十歳を過ぎている祖母は腰が曲がっているがまだまだ元気そうだった。
両親と挨拶を交わすと視線がこちらへ向いた。
「あら〜。光流も灯莉もこんなにおっきくなっちゃって」
どこの家庭も大体は孫のことが好きな祖父母が多いだろう。
うちの家も基本的には小さい頃から良くしてもらっていた。
祖父母は俺たちを見るなりニコッと優しい笑顔になった。
「おばあちゃん久しぶり」
「元気そうじゃん。滞在中に肩揉みでもしてあげるね」
俺と姉が挨拶をすると家の中へと迎えられた。
「おう、やっと来たか。今さっきストーブ止めたけどよ、夜は冷えるからあとで点けるぞ」
現在の時間は午後四時を過ぎた頃。
リビングでは祖父がソファに座ってお茶を飲んでいた。
頭は白髪だがこちらも祖母同様に元気そうだった。
そんな祖父が気にしたのはストーブ。
この家にはエアコンはなく夏は扇風機。冬は石油ストーブかハロゲンヒーターで凌ぐというのが昔から変わらない温度管理だった。
二人とも六十歳を超えているので、今更家を建て替える気もなく、最新家電などは基本的には使っていない。
使っているとすればスマホくらいだろうか。
「おじいちゃんも元気そうだね」
「うわ〜懐かしい〜。こんな匂いだったっけ」
お洒落でもなく、物がまばらに置いてあるしそれほど綺麗とは言えなかった。
それでも落ち着くような居心地の良い空間。それが祖父母の家だった。
「とりあえず荷物を置いてきたらどう? あなたたちの部屋は前に来た時と同じように二階の二つの部屋空けてあるから好きに使って」
「じゃあそういうことだし、荷物を先に置きましょう」
祖母と母の言葉で俺たちは着替えなどが入っている荷物を二階へと運んだ。
部屋は母と父、俺と姉で分かれることになった。祖父母は一階の寝室で寝るそうだ。
「うわ〜! こんな感じだったっけ!」
姉が部屋に入るなり手を広げて体を伸ばした。
ほとんど物はないが、以前来た時にもこの部屋に泊まった気がする。
以前と言っても五年以上前のことだ。ルーシーが俺と会ったことがあるという時期以降も何度か泊まっているはずだった。
「なんか……自分の体が大きくなったせいか部屋が小さく感じる」
「あ〜確かにそうかも。あの時は二人で寝ても十分に広さがあった気がする……」
そう考えると時の変化を感じる。
とりあえずは二人分が足を伸ばして寝られるだけのスペースがあるので問題はなかった。
「光流はこれからどうする? ご飯まで少し時間あるみたいだし」
「二時間くらいあるよね。……でも今日は良いかな。動くなら明日以降にする」
「そっか。なら一階でおばあちゃんたちと話そうよ」
「わかった」
荷物を置いた後は一階に降りて祖父母と会話することにした。
祖母がお茶を用意してくれており、学校生活のことや今何をしているのかなど色々と話を聞かれた。
ギターは荷物になるので持ってこなかった。
弾いて見せたりすることはなかったが祖父母は楽しそうにバンドの話を聞いてくれた。
そうして時間が経過すると、ジンギスカンを食べる時間がやってきた。
◇ ◇ ◇
「匂いっ! この匂いがもう食欲を刺激してる!」
「わかる! 早く食べたい!」
鉄板の上にもやしなどの野菜が焼かれラム肉も次々と乗せられていく。
ジュウっという焼けた音と共にラム肉の匂いが鼻腔をくすぐり、口内によだれが溜まっていった。
「二人共、小さい頃はスーパーでかかってたジンギスカンの歌よく歌ってたわよね」
「そうだったっけ」
「そうよ。あれはどこのスーパーでもかかってるし耳に残りやすいから」
北海道のスーパーではよく音楽としてかかっているというジンギスカンの歌。
あまり覚えていないが姉と二人なら歌っていてもおかしくない。
「もういいんじゃない? ほら食べましょう」
「「いただきまーす!」」
母のゴーの声が出たので俺と姉はいち早く肉に飛びついた。
ジンギスカン専用のたれとともに肉にかぶりつくと、全く臭みのないラム肉の旨さが口いっぱいに広がった。
同時に白米も口にかきこむとちょうどよいしょっぱさが中和され、最高の気分になった。
「うまい! めっちゃうまい!」
「米が止まらないよこれ」
「んん、わやうめーなぁ」
俺と姉は獣となってひたすらにジンギスカンを貪るように食べまくった。
祖父も久しぶりに食べたのか満足そうに食べていた。
「美味しいでしょう? ここ、お母さんも昔から何度か来たことのあるお店なのよ」
「はぁ〜うまい店もあるもんだな」
母の言葉に祖父がお店に来たことがないような発言をする。
それもそのはず。全員ではないと思うが北海道の人はジンギスカンは外で食べるよりも家で食べることが多いらしい。
家にはホットプレートがあり、そこで野菜やラム肉を焼いて食べるそうだ。
だから祖父母も基本的には家で食べることが多かったのか、この歳になるまであまり外のお店でジンギスカンを食べることはなかったようだ。
ちなみに祖父の名前は
なので川瀬は母の旧姓ということになる。
「――ねえ、おばあちゃん。俺ってさ、ラベンダー畑に行ったことある……よね?」
ラム肉を食べながら祖母にルーシーとの思い出について何か思い出せることはないかとそう聞いてみた。
「そうね。いつだったかは覚えていないけどあると思うわ」
祖母は行ったことがあると記憶していたようだった。
なら、聞いてみてもいいだろうか。
「その時さ、俺がどんな人と会っていたか覚えていたりする?」
「うーん。いつだったかしら? この歳になると毎年記憶が消えていく気がするのよね。ふふふ」
冗談ではない冗談を言い出す祖母。笑い事ではない。
認知症とかアルツハイマーだったマジで大変じゃないか。
「おじいちゃんも同じ?」
「ん〜〜〜〜〜〜」
祖父も唸るばかりで思い出せないようだった。
今は時期ではないけど、やはり一度ラベンダー畑に行ってみるしかないだろう。
ちなみに姉にも既にこのことを聞いている。
答えは思い出せない……だ。
ルーシーと出会ったのが五年前。ならそれよりもっと昔になる。
恐らく冬矢とすら出会っていない幼稚園の時ではないだろうか。
思い出せただけルーシーの方が凄い。
…………
「んふ〜〜」
「なんだよ姉ちゃん」
「光流と一緒の部屋で寝るの久しぶりだなって」
「そうだけど……近くない?」
ジンギスカンを食べ終えて家に戻り、風呂に入ったあとに持ってきた勉強道具で眠くなるまで勉強。
そうして就寝時間になったのだが、久しぶりに姉と同じ部屋で寝ることになったのは良いとして、二つある布団をくっつけて、俺のほうの毛布へと侵入してきた。
「少し前まで何回も一緒に寝てたじゃん。お姉ちゃん寂しいよ〜」
「言い方が嘘っぽい」
「ほんとだって〜。あ、お姉ちゃんのおっきくなった胸に反応しちゃった?」
「姉ちゃんのはDだろ。ルーシーたちより小さいんでしょ?」
「なんで知ってるのよ! ……そういえば光流の前で話してたんだっけ。てかDでも十分な大きさなんだぞ!」
背中越しに姉の膨らみを感じる。
昔一緒に寝ていた時のように体を密着させて、頭のすぐ後ろで姉の吐息がかかる。
何度も一緒に寝ていたせいか、確かに安らぎはしてしまう。
「まあ光流はルーシーちゃんと一緒に寝たりしてると思うし、お姉ちゃんなんかには興奮しないか」
「え……なにそれ。なんで知ってるの!?」
「ふふふふ……」
「なに、なになにどういうこと?」
「私とルーシーちゃんの秘密だから内緒〜」
「ルーシーと何話してるの!?」
姉は俺とルーシーがどこかで一緒に寝たことがあることを知っているらしい。
寝たというのは、ごにょごにょしたという意味ではなくて、もちろん睡眠という意味でのことだ。
ルーシーとそういうことになった記憶があるのは二回ほどだろうか。
家に来た時と学校での保健室の時。保健室の時はしずはも一緒に寝ていたけど……。
「てかさ、週に一回はお家にルーシーちゃん連れてきてよ。お母さんも和食の作り方教えるの楽しみって言ってたよ? 私が求めてるのはアーサーさんじゃなくてルーシーちゃんなの。癒やされたいのっ」
「わかったって。さっきアーサーさんにはメッセージはしておいたから様子見てみてよ」
「ほんとに頼むよ。ルーシーちゃんのことも」
「うん。中間テストも近づいてきたし一緒に勉強しようって誘ってみるよ」
バンドも勉強もどちらもしなければいけないけど、ルーシーとはどちらも一緒にやることができるので家に呼んでも差し支えないはずだ。なら、姉の要望も叶えられると思う。
そういえば、俺がルーシーの家に行く数の方が多くなっている気がする。
これからも合わせ練習でお邪魔することになると思うし。
「それにしても本当に体おっきくなったね。筋肉もガッシリだ」
「まあね」
「……あんたが元気なだけで、お姉ちゃん嬉しいんだから。もちろんお母さんもお父さんもね」
「わかってるよ」
「これからも体を大事にしなさいよ」
「うん……ありがとう」
◇ ◇ ◇
翌日、家族全員でラベンダー畑に向かうことになった。
ラベンダー畑と言えども、ラベンダーだけが植えられているわけではない。
クロッカス、フクジュソウ、シバザクラ、ヒヤシンス、ビオラにムスカリ。
様々な色の花が咲いていて綺麗らしい。
らしい、というのは俺もラベンダー畑に行くのは初めてだから。
前に行った記憶がないので、初めてと言っても差し支えないだろう。
そうして、車でしばらく移動すると到着した緑の生い茂るエリア。
と言っても富良野は緑ばかりの土地なので、変わり映えはないかもしれないが、一歩足を進めると目を見張る光景が広がっていた。
「すっごーいっ!」
色とりどりの花を見て叫ぶ姉。
土地の面積もなかなかの広さで、歩き回るだけでも大変に見えるほどだった。
「ちょっと光流! 写真撮って!」
「はいはい」
早速姉はこの素敵な虹色の景色をバックに写真をせがんだ。
俺はポケットからスマホを取りだして、カシャっと姉を撮影した。
あまりにも背景が良すぎて、どう撮影しても素敵な写真になった。
それほど素敵な場所だったのだ。
俺たち家族はまず、昼食をとることにした。
ラベンダー畑には食事をとれるカフェのようなものが併設されており、そこに入ると俺はカレーを注文した。
北海道の野菜が使われているとのことで、この場所で食べているという雰囲気なのか素材の良さなのか、とにかく美味しかった。
その後はデザートとして売っていたソフトクリームを購入。
それを食べつつ、景色を見渡しながら歩くことになった。
ソフトクリームは北海道ならではなのか、牛乳味が濃厚でかなり美味しかった。
何度でも食べたいと思える味だった。これはルーシーにも食べさせたい。
ちなみにラベンダー味なんてものもあり、それは姉が美味しそうに食べていた。
俺はソフトクリームの写真を撮って、それをルーシーに送った。
「…………思い出せない」
「そんなもんでしょ。十年前なんて覚えてるほうが奇跡だよ」
しばらく歩いても結局、何かを思い出すなんてことはなかった。
少し残念に思いながらも花畑の景色には満足したので、家に戻ることにした。
そんな時だった。
ルーシーから『ソフトクリーム美味しそう!』といった返事が帰ってきた。
しかし、その返事だけではなかった。
「うえっ!?」
一枚の写真が追加で送られてきたのだ。
その写真にはルーシーと真空が写っていたのだが、なぜかドレス姿で着飾っていて、二人とも途轍もなく綺麗だった。
特に真空の変わりようは凄かった。
普段メイクは薄いからなのか、具体的に何をしたのか俺にはよくわからなかったが元から持っていた素材の良さを十二分に発揮されたドレスアップだった。
真空の髪型はストレートのロングしか見たことはなかったが、この写真は髪をまとめていてあまりにも雰囲気が全く違っていた。
『二人共すっごい素敵なドレス姿だよ』と、
そんなメッセージを送ると『もっと私を褒めて』と返事が来た。
真空と一括りにして褒めたことが良くなかったのだろうか。
俺は『天使みたいに可愛い』と送った。すると『生で見せたかったな』とのことだった。
これだけ綺麗なんだ。実際に見たらもっと綺麗に見えるだろう。
ルーシーから詳しく話を聞くと、勇務さんの誘いで社交界に参加することになったそうだ。
あの倉菱さんも参加するようで自分の記憶のために参加することにしたんだとか。
ルーシーの報告を受けたあと、祖父母の家に帰宅することになった。
…………
夕食は母と祖母が作ってくれた家庭料理を食べることになり、のんびりとした雰囲気で夜を過ごした。
そうして、夕食を済ませたあとのことだった。
「光流、さっきラベンダー畑で写真撮ってただろ? それで思い出したんだけど、俺とトメも昔はよく写真撮ってたと思ってよぉ。で、これ」
「あっ……」
祖父がリビングにいる俺に持ってきてくれたのは三つのアルバムだった。
そうか、そうだった。ルーシーは確か写真を撮ったって言ってた気がする。
もしかするとこの中に……。
「じいちゃんありがとうっ!」
「はは、見終わったら片付けるから言ってくれ」
祖父は笑顔でアルバムを渡すと近くの椅子へと座った。
俺はそのアルバムを持って二階へと上がり、部屋へと入った。
近くで話を聞いていた姉と一緒に手分けしてアルバムの中を見てみることになった。
「あー! お母さん! わっか!」
「こっち結婚式の時のだよ!」
祖父が手渡してくれたアルバムにはなんと二十年程前の写真も入っており、なんと若い時の母親や父との結婚式の時の写真もあったのだ。
すると、俺と姉が産まれたのか、徐々に俺たちと一緒に写る写真も増えてきた。
ただ、見ていたアルバムには特にラベンダー畑の写真はなく、最後に残ったアルバムに手をかけた。
姉の方のアルバムにもなかったようで、最後のアルバムを一緒にめくっていくことになった。
「ふんふん……ここらへんは、特にないね」
「うーん。こっちのアルバムは俺たちあんまり写ってないね」
最後のアルバムは基本的には祖父母の二人だけの写真や風景の写真が多く、俺と姉や両親が写っている写真はなかった。
そうして、最後までページをめくってはみたものの結局ラベンダー畑の写真は出てくることはなかった。
「じいちゃんに返してくるね」
見終わったら片付けるから言ってくれと言われていたので、俺は三つのアルバムを持って立ち上がった。
「ちょっと、光流っ!」
「え……?」
姉に名前を呼ばれて振り返るとアルバムの隙間からはらりと一枚の写真が床へと落ちていた。
どのアルバムから落ちたのかはわからなかったが、俺は写真に近づいて取ろうとして――、
「――――!?」
紫色のラベンダーがその写真いっぱいに写っていた。
そして、ラベンダー畑の前に立っていたのは五人。
俺と姉と祖母と見覚えのあるおばあさんともう一人。
「ルーシー……っ」
綺麗な金色の髪に青い瞳。
見間違うわけがない。今のルーシーと全く同じ色で……。
ただ、五年前に見たルーシーとは違い、病気ではない綺麗な顔を目一杯の笑顔で輝かせて写真に収まっていた。
そして俺とルーシーはあのラベンダーのサシェを手に持っていた。
「うっわ〜! これルーシーちゃんっ!? ちょっと何、この可愛さ!」
幼少期のルーシーの写真を初めて見た。
随分若い年齢に見えるが、これは紛れもなくルーシーだった。
姉が叫んでいた通り、本当に可愛くて、こんなに小さいのに既に完成されたような見た目で、オーラを放っているかのように眩しかった。
「やばい……めっちゃ可愛い……っ」
「こんな子供持ったら誰でも溺愛しちゃうよ!」
両親にも兄たちにも可愛がられたであろうルーシー。
この頃は特にそんな時期だったろうことが思い浮かべられた。
嬉しい。俺とルーシーの繋がりを見つけられることができて、とても嬉しかった。
「俺と姉ちゃん。ルーシーに会ってたんだね、本当に」
「いや……本当にまさかだね。こんなに可愛かったら忘れるわけないと思うけど、時は残酷なんだね」
本当にそうだ。この可愛さのルーシーなんて、一度見たら忘れはしないと思うほどなのに。
悔しい。思い出せないことが悔しかった。
でも、今この写真を見つけられて良かった。
そして、もう一人。
「ルーシーのおばあちゃんだったんだ……」
俺がルーシーと再会したあの、クリスマスイブの日。ト
ラックにぶつかりそうになっていたところを助けたお婆さん。
写真では少しだけ若いがそのお婆さんと同じ見た目をしていた。
よく見るとどことなく勇務さんに似ている気がした。
「実はそれ知ってました〜!」
「え?」
「前にルーシーちゃんの両親がうちに来たでしょ? あの時に来た理由はおばあちゃんを助けてくれたお礼だったんだよ」
「ええっ!? 俺にはそんなこと……」
別に内緒にすることなんてなかったのに。
でも時間が経過してるしもうわざわざ言うことでもないか。
「ルーシーちゃんのお父さんの方はずっと言おうとしてたみたいだけどタイミングが合わなかったみたい。私は後で気づいた方が面白いと思って黙ってたけどね」
「なんだよ〜」
そんな話があったなんて。
そういえば、ルーシーの家に初めて行った時、勇務さんが何か言いかけていた気がするけど、あの時はルーシーが部屋に入ってきて連れ戻されたんだった。
自分の母を助けてくれたお礼を言いたかったのだろうか。
なら、本当に助けて良かった。
ルーシーのおばあちゃんだから助けたわけではないけど、あの時遅れても良かったと思える材料にはなった。
その後、俺はこの写真を別に取っておいてもらい、写真立てに入れて部屋に飾らせてもらうことにした。
このことを両親に話したらとても驚いていた。
二人には何かあるんだろうと言われたが、本当に何かあるとしか考えられなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、夢を見た。
それは白い靄の中で動く小さな影。
しかし靄はそれは次第に晴れていって視界に色がついた。
『――私もほしいっ!!』
自分と姉のためにサシェ作り体験で作った二つのサシェが手元にあった。
それを持って外に出てみると誰かが叫んでいる声が聞こえた。
なぜだかどうしても気になって傍に近づいてみると――、
『ごめんねぇ。今日はもう受付してないみたいなのよ……』
『ほしいっ! ほしいっ!』
『うーん。どうしたものかしら……』
一人はお婆さん。そしてもう一人は珍しい金色の髪をした少女。
『綺麗……』
小さい俺は初めて宝石を見るようなキラキラとした純粋な瞳をしながらその場で小さく呟いた。
そして、いつの間にか地面を蹴って駆け出していた。
『――ねぇ……これ、あげるよ』
後ろから少女に声をかけた。
多分彼女はこれを欲しがっていたから。
けど、話しかけた本当の理由は彼女の顔が見たかったから。
小さいなりに彼女の何かに惹きつけられていた。
『えっ? いいの?』
『ほんとはおねーちゃんにあげる分だったんだけどいいよっ。またこれるし』
泣き叫ぶような金切り声だったのにサシェを渡すとパッと表情が変化した。
サファイアのような青い瞳でサシェを見つめるとそのまま鼻を近づけた。
『ありがとう……いいにおーい』
その仕草がどこか可愛く見えてドキッと内側の何かが揺さぶられた気がした。
『でもわたしがもってるやつのほうがすこしきれいね』
ただ、上から目線の変な子だった。
少しだけムカついた。だから返してもらおうと――、
『――でも、おそろいね』
そう思ったら一緒のサシェを持っていることに対し嬉しそうにそう言った。
写真を撮る時、彼女の金色の髪が風で靡いて俺の肩にかかった。
そんな小さなことなのに、なぜか嬉しかった。
子供ながらに髪を押さえる姿がどこか色っぽく見えて、カメラから視線を外しそうになった。
そうして二人でサシェを前に突き出しながら写真を撮った。
『るーしー。わたしのとくべつななまえ』
そして別れ際、彼女の特別な名前を教えてもらった。
今まで聞いたことのない耳残りの良い不思議な名前だった。
だから最後に一言言いたかった。
『それにしてもきみのかみ……』
――綺麗だね。
言えなくて『なんでもない』と濁してしまったけど、本当にそう思っていた。
『なによ……。それで、あなたのなまえは?』
宝石のような星のようにキラキラした綺麗な子。
そんな子が俺の名前を聞いてくれた。
『――ひかる!』
だから教えてあげた。
どうせすぐに忘れてしまうだろうと、もう会わないのだろうと思いながら。
『そのふくろ……さしぇ! なくすなよ、るーしー! じゃあね!』
ただ、渡したサシェだけは無くしてほしくないと願いを込めて。
そう言いながら俺はラベンダー畑と彼女を背に走った。
『う、うん! ひかるっ! じゃあね!』
振り返らず、全速力で。
あんなに可愛い子に自分の名前を呼ばれたことが嬉しくて恥ずかしくて。
こんな顔見せられなくて。
どんなに小さい子でも自分の親がわかるように、恐い・恥ずかしい・楽しい・綺麗・かっこいいといった感情は早い内から持っている。
ただ、どうしてそんな感情を持っているのか、理解できず言葉にできないだけで――。
再び白い靄がかかっていく。
色鮮やかだった視界が真っ白に変わっていき、そして、何も見えなくなった。
◇ ◇ ◇
「――――」
「――――っ!?」
「すぁっ………はぁっ……はぁっ……はぁっ…………」
視界の先は天井、少し古びた家の優しい匂い。隣には寝息を立てて眠る姉。
カーテンの隙間から零れる光が、舞い上がっている小さな埃に当たり輝かせる。
朝になっていた。
一階からは味噌汁を煮ているような匂いがふんわりと香ってくる。
祖父母――老人の朝は早い。もう働かなくてもよかったとしてもいつものように朝餉を作る。
頭の近くにあったスマホを手に取るとまだ五時半だった。
「夢……か」
俺は夢を見ていた。
その夢は、どこか実体験しているような感覚で、本当にあったことのようで――。
「そっか……そっか……! ふふ。ふふふふ………」
右手を額に乗せながら、口だけを動かしてニヤける。
「ルーシーはこれを思い出したんだ。……凄い。凄いよルーシー」
彼女と一緒に富良野に来たい。
早くここに連れてきて、俺たちが初めて会ったあの場所にもう一度立ちたい。
そしてまたサシェをプレゼントするんだ。
…………
どこか心地の良い夢を見たせいか、この時間から外に出て見たくなった。
だから俺はキャリーバッグからトレーニングウェアを取り出して着替え、ランニングシューズを持って一階に降りた。
「光流、早いわね。おはよう」
「なんだ。もう起きたのか。ジジイになるにははえーぞ」
「おばあちゃん、おじいちゃん。おはよう」
祖母はキッチンで朝食の準備をしており、祖父は新聞を読みながらお茶を啜っていた。
のんびりとしたこの雰囲気。……悪くない。
「朝食前に俺ちょっと外走ってくるね」
「運動? 良いじゃない。気を付けて行ってきなさい」
「うん、ありがとう。一杯だけ水もらうね」
俺は祖母からコップ一杯の水をもらいごくごくと喉に通して一気飲みをした。
そうしてランニングシューズを履いて玄関の扉を開けて外へ出た。
「すーーはぁ……」
北海道の朝。
緑がいっぱいなせいか、まだ低い気温のせいか、澄んでいる空気が美味しかった。
玄関前で軽くストレッチをして、体を伸ばす。
ジャンプしたり、足踏みをしたり。
環境が違うだけで、こんなにも体が軽くなるだなんて思いもしなかった。
「よし、行くかっ!」
◇ ◇ ◇
約三十分。軽く汗を流して、帰りは歩いて帰路に着いた。
少しだけ休もうと道端にあったベンチに腰を下ろした。
そんな時だった。
まだ早朝だと言うのにポケットに入れていたスマホにメッセージの通知が入った。
誰だろうと不思議に思いながら、画面をタップしてみると――、
『――おい光流! 今すぐ東京に戻って来い! ルーシーが取られちまうぞ!』
アーサーさんから緊急性があるようなメッセージが届いていた。
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