206話 ラウちゃんのお願い
「くどぉ〜」
昼休み。いつもの皆と部室で昼食を終えて教室に戻ろうとしている時だった。
部室棟から校舎までの間に設置されている外のトイレに行くと言って皆を先に行かせたのだが、その帰り道で声が聞こえた。
それは無気力で、本当に人の名前を呼ぶ気があるのかと思うほど弱々しい声だった。
どこだ?
俺は頭を左右に振って、名前を呼んだ人物を探す。
「こっちだ〜」
後ろを振り返る。
「うおっ!?」
そこには複数の蛇口が並んでいる水道を壁にして腰を下ろしている人物がいた。
そしてその人物とは――、
「――樋口さん!?」
ラウラ・ヴェロニカ・ダ・シルヴァ・樋口。
俺の右隣の席の生徒だった。
彼女はTシャツの上にジャージを着てはいたがちゃんと羽織れていない。
中途半端にジャージが脱げており、ぐったりとした様子だった。
「こんなところでどうしたの?」
俺は無気力な樋口さんに声をかけた。
「ごはん……みず……」
「え?」
もしかしてご飯と水がほしいということなのか?
樋口さんを見ると手には何も持ってはいなかった。
そもそもなぜこんなところにいるのかよくわからないのだが、ともかくつらそうな表情に見えた。
「ええと、さっきお弁当は食べちゃったし、今持ってるものは……あ」
そういえば、部室の机の上に置いてあった包装されているクッキーを一枚ポケットに入れていた。
あとで食べようと思っていたのだが、しょうがない。
「クッキーしかないんだけど、いい?」
「いい」
短い言葉で返事をした。
「はい、これ」
「んん〜〜」
「え?」
樋口さんにクッキーを渡そうとするも、手を地面に下ろしたままクッキーを受け取ろうとしなかった。
そして、なぜか口を小さく開けていた。
「いれて」
「ええっ!?」
「はやく……しぬ……」
「わ、わかったよ」
赤ちゃんのような樋口さんの言動に俺はしょうがなく従った。
袋からクッキーを取り出し、彼女の口元へと近づける。
日本人寄りの顔をしているルーシーとは違い、外国人寄りの顔をしている樋口さん。
誰かがドイツ人ぽいとは言っていたが、誰も彼女の両親の国籍などは知らない。
近づくとよくわかるくっきりとした目鼻立ち。彼女の口は小さく、クッキーを入れる手が少し震えた。
そんな時だった――、
「んあっ」
「うわぁっ!? ちょっとぉ!?」
彼女の口元にクッキーを近づけると、いきなり大きく口を開け、俺の指ごとクッキーをまるごと口に含んだ。
「んむんむ……」
「えっ、えええっ!?」
そのまま俺の指とクッキーを一緒に咀嚼しはじめた。
彼女の舌と歯があたり、ぬめりと痛みを同時に感じた。
俺は即座に樋口さんの口の中から指を手前に引いた。
すると彼女の唾液がたらっと俺の指を通じて糸を引いた。
「うわぁ……」
俺の親指と人差し指がべっちょりと唾液にまみれていた。
「みず……」
クッキーを呑み込んだ樋口さんが、次に求めたのは水だ。
これは最初も言っていたが……。
「立てないの? 目の前に水道があるよ?」
「みず……」
本当に赤ちゃんかな?
「一応水筒の水はあるけど……」
「それでいい……」
俺は嘆息しながら、持ってきていた水筒を取り出す。
今の彼女を見ると、立ち上がって水道の蛇口に口を近づけて飲むことができないと判断した。
だから、俺の水筒に入っている水を彼女に飲ませるしかなかった。
水筒の蓋を開けて、その蓋部分に冷たい水をトクトクと注ぎ込む。
そうして、先ほどと同じように彼女の口に水が入った蓋を近づけた。
「んむんむんむ……」
喉仏がない細長い首がごくごくと動き、彼女の喉を潤していく。
そして、口から少しこぼれたお茶が首筋を通って少し緩いTシャツの中に流れていった。
「生き返ったぁ……」
樋口さんは、半開きだった目を少し開けてそう呟いた。
「もう少ししたら五時間目始まるよ? 教室戻らなきゃ」
「連れてって……」
「生き返ったって言ったよねぇ!?」
これはどうしようもない。
介護が必要なレベルではないだろうか。
「……ほら、肩貸すから戻るよ」
「頼む……」
クッキーとお茶では完全回復とはいかなかったようだ。
俺は樋口さんの脇の下に腕を入れ、肩を組むようにした持ち上げた。
それだけでわかった。
身長はかなり高いのにあの焔村さんよりも体重が軽かった。
普段から食べ物を食べていないのではないかというくらいの軽さだった。
…………
樋口さんの肩を持って教室までゆっくりと戻る途中、せっかくなので会話してみた。
「なんであそこにいたの?」
「ご飯、持って来るの忘れた……」
「あ、あぁ……」
でも、それだけではあの場所にいた理由がわからなかった。
「売店とか食堂は? あそこなら買えたよね?」
「人が多すぎて諦めた……」
確かに。
俺はまだ行ったことはないが、千彩都がそんなことを言っていた。
この学校の生徒数を考えると混雑することは想像できた。
「でも、なんで校舎から離れた水道のところに?」
「あそこの水は他の場所より美味しい……らしい。ご飯の分も美味しい水で……」
ちょっと謎理論だったが、その美味しいという水道の水の場所を求めてここまできたということか。
それなら、誰かに声をかけて一緒に行けばよかったのに。
でも、普段から見ていても彼女はクラスの中でも一番動きが遅い。
移動教室でも必ず誰かに言われるまで動かないのだ。
中間テストはまだだが、授業でもよく寝ているし、留年もありえるのではないかと心配になる。
「そっか……今度は誰かに頼りなよ。クラスの人は優しい人が多いから。あの委員長とかさ」
「あ〜。じゃあくど〜たのむ」
「お、俺!? 俺はこれでも結構忙しくしてるというか、介護はできないというか……」
確かに隣の席ではあるけど、さすがにずっとは面倒見きれない。
「そうじゃない。頼るってのは別のこと……」
「ん?」
介護の話ではなかったようだ。
なら、なんの話だろうか。
「宝条……朝比奈……藤間……若林……焔村……」
「え……え?」
突然五人の名前を呟いた樋口さん。
そもそも人の名前を覚えていたということにも驚きだが……。
「夏コミのためのコスプレ……」
「コス、プレ……?」
ちょっと待てよ。
これって、五人に声をかけてコスプレさせるようにってことか?
「『魔乳天使と微乳悪魔のリリィハート』……」
「なんて?」
突然、樋口さんの口から謎の単語が発せられた。
「君、あの子たちと仲良さそう。交渉して。魔乳三人と微乳三人。もちろん私は微乳側。あと五人足りない……」
確かに仲は良いけど、全員ではない。焔村さんだって今の段階ではなんと言ったら良いかわからない関係だ。
でも……もしかして俺を凝視していたのはこのためだったのだろうか。
「話はわかるけど、魔乳と微乳って!?」
ただ俺は今、聞き捨てならないキーワードに心を奪われていた。
「あ〜、この作品は天使と悪魔が戦う話なんだけど、百合作品だから可愛い女の子しか登場しなくて。普段は学生をして、戦闘時は変身して……。戦いはおっぱいの大きさで魔力が決まるんだけど、微乳の悪魔は胸が小さいからいつも負けるの。でもある時、禁忌の魔道具を使って天使の魔乳を吸い取って、どんどん悪魔の胸が大きくなるんだけど……つまりおっぱいを取り合う話なの」
「どんな作品なんだよ……」
オタクのように喋りが早くなったが、とりあえず樋口さんが言っている作品はえっちな作品だと理解できた。
そんな作品のコスプレをさせるのに、男の俺が交渉しろと? 相当ハードルが高い気がする。
「ちなみにどんなコスプレなの?」
「あ〜、これ」
すると樋口さんがジャージのポケットからスマホを取り出してネット検索。
その作品の登場人物が変身した姿を見せてくれた。
「ちょちょちょちょ! これ大丈夫!? 動いたら見えない!?」
「風に煽られたら見えるかも」
胸にまつわる作品だからか、その衣装も胸が強調されたものだった。
ブラなんてものはもちろんしておらず、胸を隠しているのはひらひらとした布で樋口さんが言う通り風が当たればペロッとめくれてしまうようなものだった。
全員が同じ衣装ではないのだが、とにかく全員胸が強調されたデザインだった。
「どう交渉しろっていうんだ……」
「ちょっとこっち……」
「え?」
すると突然、校舎の壁際に移動するように樋口さんが動いた。
「なぁっ!?」
少しだけデジャブが起きたように思えた。
現在俺は、焔村さんにされたように樋口さんに校舎の壁際に追い込まれ壁ドンされていた。
しかし、焔村さんの時とは違う状態になっていた。
『ふにょ』
樋口さんが俺の右手を取り、そのまま自分の胸を鷲掴みさせていたのだ。
彼女が先ほど言った通り、ささやかな膨らみではあったのだが、確かに柔らかさを感じた。
「あの子たちにコスプレさせてくれるなら、私の体を差し出しても良い。胸は小さいけど、よく容姿は褒められる。ちなみに感度は結構良いと思うから安心して。エロ同人でいっぱい勉強してるから歪んだ性癖にも対応可能……」
「な、何言ってるの!?」
「九藤は童貞? うーん。童貞にはまだ早い話だったかな……」
「ひ、樋口さんは処女じゃないのかよ!」
胸を触らせているせいか少しだけ頬が紅潮しはじめた樋口さん。
ただ、いつも通りゆったりとした話し方に戻っていた。
そして、童貞と言われたことに反応してしまい、なぜか聞きたいこととは別のことを聞いてしまった。
「処女だけど九藤みたいな童貞よりは知識量はたくさん……」
「次童貞って言ったらこの話はなかったことにする」
「……もう言わない。ど……九藤」
「今言いかけただろ」
そもそも今話すべきは童貞だとか処女だとかいう話ではなかった。
だから――、
「と、とにかく体を差し出すとかはだめ!」
「じゃあどうしたら交渉してくれる?」
「ちょっとぉ!?」
体を差し出すのはだめと言っているのに、今度は俺の左手を掴み追加で自分の胸へと押し当てた。
「コミケに参加してって言ってるわけじゃない。写真を撮らせてもらうだけ。その写真のロムを販売する……参加してくれるなら嬉しいけど」
「い、いや尚更無理でしょ!」
「メイクするから本人だって絶対わからない……」
「うーん」
「なんでも言うこと聞く。お願い……」
これでも樋口さんの目は真剣だった。
俺がバンドをやっているように、彼女の場合はそれがコスプレなのかもしれない。
「ならさ、授業中も起きて勉強できる?」
「それは無理」
「拒否が早いっ」
できれば、留年は回避させてあげたい。
なら、ちゃんと勉強させる必要がある。
「もうパーツも作り始めてるから学校は寝る時間。身体測定の時にあの子たちの体も調べたし……」
なんだが不穏な話も混じっていたが、彼女がいつも学校で寝ている理由が判明した。
「えっ……そういうこと? 家でコスプレの衣装作ってたから学校で寝てたの?」
「うん。六人分は今からやらないと間に合わない」
とんでもない熱を感じた。
しかもコスプレ衣装は全て自分で作っているということになる。
俺は真剣で努力している人には弱い。
「…………わかった。どこかで交渉してみるよ」
「ほんとか、九藤。嬉しい。君に話して良かった……やっぱり私の処女もらっておくか?」
「それは遠慮する!」
「宝条がいるもんな。早く処女を奪ってやれ」
「そ、それは余計なお世話だ!」
ルーシーとはそもそもそんな段階ではない。
キスだって……付き合ってすらいないのに。
「――――」
もしかすると俺は大変な依頼を受けてしまったのかもしれない。
特に深月と焔村さんについてはかなりハードルが高いように思える。
あんな卑猥な衣装を着てくれるとは思えない。
俺の力だけでは交渉は不可能だろう。
協力者と何かの見返りを提示しないと難しいかもしれない。
「――ラウちゃん」
「ん?」
「仲良い人、そう呼ぶ」
「ラウちゃん……」
「ん。よろしく」
このあと俺はラウちゃんこと樋口さんと連絡先を交換した。
授業ギリギリになったが、教室に戻ることができた。
とりあえず一安心したが俺の仕事は五人を集めること。
夏コミは八月中旬。写真撮影は七月上旬には終わらせたいらしい。
なので、それまでに五人全員の交渉を成功させないといけない。
「あ……指洗ってないじゃん……」
五時間目を告げるチャイムが鳴ってしまい、授業が終わるまで俺は指を洗うことができなかった。
時間が経過したことで、ラウちゃんの唾液付きの指はカピカピになっていた。
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