50話 静かなる激情

『次は戸根利とねり小学校、式堂遥花しきどうはるかさん。曲は滝廉太郎たきれんたろう荒城こうじょうの月』


 次の奏者がアナウンスで呼ばれ、舞台袖から壇上のピアノに向かって少女が歩いていく。

 少女が一礼をし、ピアノの前に座ると演奏が始まった。


藤間ふじましずは! この天才深月みづき様が今日こそ勝つわ、見てなさいっ!!」


 控室の椅子に座って自分の順番を待つ間、胸まで伸びた長い髪を揺らし、腕を組んで私を見下ろした少女が私に突っかかってきた。


「今日だけは絶対に譲らない……」


 私は静かにそう呟いた。


「え……? 今までそんなこと言ったことなかったのに……ど、どうしちゃったの?」


 少女はいつもとは違う私の言動に驚いたのか、勝手にうろたえた。


「そう思ってるだけ。お互いに頑張ろう」

「い、言われなくてもっ!! いつもは『好きにすれば?』とか『どうぞご勝手に』とか言ってたくせに……」


 確かに今までそんなことを言っていたような、言っていなかったような。全然覚えていない。


 彼女は若林深月わかばやしみづき。私と同い年の小学四年生。全国大会に出るといつも一緒になる女の子。母親同士が仲が良いのもあって、変な縁がある。

 彼女にはコンクールで一度も負けたことはなく、大体が私が一位で彼女が二位。コンクールの度に毎回こうやって突っかかってくるのだ。


「こっちにも事情ってものがあるの」

「ふ、ふんっ。そんなの知らないわよっ! とにかく! 今日こそは私が勝つ!」


 自分で煽ってきたくせに言い返されると耐性がない。ちょっと可愛い性格だ。みんなの前にいる時の私に近い……とは思うけど。


『若林深月さん、そろそろ準備お願いします』


 係員が控室に深月を呼びに来た。その次の次が私だ。


「じゃあ、先に行ってくるわ。舞台袖で私の甘美な演奏に酔いしれていなさい」


 そう言い残して彼女は壇上へと向かっていった。



「ふぅ〜っ」



 私は大きく息を吐いた。

 ここまで頑張って練習してきたのはいつぶりだろうか。

 家では、母に何度も何度も質問を繰り返し、修正点を徹底的に直した。


 やれることはやってきたはず。


 それも全部、あの光流の裏の顔を引き剥がすため。本気で凄いって思わせるため。


 私の演奏を聴いて、そう思わせることができるかはわからない。

 でも、アイツにぶつけてやるんだ――あの日感じた激情を。



 少しすると、係員に呼ばれる前に私も舞台袖に移動する。ちょうど深月が舞台袖から壇上に上がっていった。


 彼女のピアノの音が聴こえてくる。


 やっぱり凄い……。聞く話によれば、彼女は絶対音感があるらしい。でも、私にはない。

 これが天才と天才ではない者の違いだろう。私は努力で何とかしてきたが、彼女は努力以外の何かでも恩恵を受けている。


 でも、負けるわけにはいかない。それくらい練習はしてきた。

 深月には悪いが、これほど本気を出す日はもうないかもしれない。



 しばらくして、深月の演奏が終わった。会場の様子は拍手喝采だった。

 壇上から舞台袖に戻って来る。


 彼女はやりきった顔をしていて、すれ違いざまに私にドヤ顔を見せてきた。


「藤間しずは、後ろの席から見ていてやるわ」


 それだけ言い残して、彼女は去っていった。


 そうして、私の前の順番の人の演奏が始まった。



 …………



『次は赤峰あかみね小学校、藤間しずはさん。曲はスメタナでモルダウ』



 前の奏者の演奏が終わり、ついに私の番が来た。ぎゅっと両手で握りこぶしを作り、そして手を開いて力を抜く。


「よしっ」


 私は舞台袖から壇上に出て、ピアノの場所まで歩き出した。


 会場の席に向かって一礼をし、静かに座る。後は自分のタイミングで始めるだけ。




 ――私は光流へ、静かなる激情をぶつけるように演奏を始めた。




 ◇ ◇ ◇




 コンクールが始まる三十分ほど前。


「あっ、しずはのお母さんだ。挨拶しとこう?」


 千彩都が座席に座るしずはの母を発見。皆でそこに向かった。


「はなさんっ」


 しずはの母の近くまで行くと、千彩都が声をかけた。


「あら、ちーちゃん。今日は来てくれてありがとうね」


 しずはの母は姿勢がとても綺麗で一言でいうとクールビューティーな印象の女性だった。何かオーラのようなものが滲み出ていて芸能人みたいだと思った。今も現役のピアニストとして活動しているくらいだ。それだけの何かがあってもおかしくない。


「はなさん、今日は私としーちゃんのお友達も連れてきてます。光流に開渡に冬矢です」


 俺達三人はしずはの母にそれぞれ頭を下げた。


「皆来てくれてありがとう。素敵な格好ね。それで、どの子がしずはの彼氏なのかしら?」

「はなさんっ! またご冗談をっ!!」

「あら、違ったの? ん〜見た感じ、しずはの好みはこの光流くんって子っぽいけど」


 俺は名前を言われ一瞬ドキッとした。この人はいきなり何を話してるんだ。しずはと違って何かいたずらっぽい性格を感じる。


「しずはに今彼氏はいませんって。はなさんも知ってるでしょ?」

「まぁ……そうね。でも子供って親のいないところですぐ成長するんだから。あ、自己紹介がまだだったわね。私は藤間花理ふじまはなり。しずはの母親よ。改めて今日は来てくれてありがとう。あの子の演奏良かったら聴いていってあげてね」


 先ほどまで見せていた悪戯な笑みを止め、今度は優しい微笑を見せて挨拶してくれた。


「いえ、今日楽しみにしてきました! こちらこそよろしくお願いします」

「しずはは友達なんで応援してます!」

「ちゃんとしずはにパワー送ったので安心してください!」


 冬矢、開渡、俺の順番で再度挨拶した。


「パワーをもらったのなら、あの子も大丈夫ね。今日は今までで一番気合入ってたから、私も楽しみなの。理由は教えてくれなかったけどね」


 そういう花理さんは、目線をぐるっと移動させ、何を思ったのか俺の顔をじっと見つめる。


「ほら、そろそろ始まるわ。あなた達も自分の席に座りなさい」

「それじゃあ、はなさんまたっ!」


 俺達は自分たちの座席に座って、コンクールが始まるのを待った。




 ◇ ◇ ◇




「うわぁ……皆凄いね……」


 純粋な感想だった。演奏が終わる度に俺達は十分な拍手を送った。

 全国レベルということもあり、素人目線でも全員が凄い演奏だと感じた。


「そりゃ全国だからな。でもどうやって順位つけるのかわかんねーなこれ」


 冬矢の言う通りだ。全員が全員凄くて、優劣の付け方が俺達の耳ではわからなかった。


 しかし――、


「今の若林って子やばくなかったか!?」


 それもそうだ。演奏が終わった瞬間、今までの奏者とは違う大きな拍手が彼女の演奏を讃えた。

 

「言葉にできないけど、今までの演奏と全然違ったかも……」


 素人でもわかる差。これがもしかして、勝敗を分けるものなのかもしれないと感じた。


 俺は心の奥で興奮の火種が点いたように、よくわからない熱を体に感じ始めていた。ただ、まだ何か足りない。そんな気はしていた。


 そして、ついにしずはの演奏の順番が回ってきた。


 手から汗が噴出してくる。皆も同じだったようで、特に千彩都なんかは祈るように両手をぎゅっと握り締めていた。

 友達がこんな大舞台に何度も出ているなんて、今思えば途轍もなく凄いことだ。


 舞台袖から歩いてきた俺達がいる席からは小さく見えるしずはが、ピアノの前で一礼。椅子に座った。


 俺が入院している時に病室で見たしずは。家で一緒に遊んだしずは。学校の俺の前の席にいるしずは。どのしずはでもない彼女がそこにはいた。

 ピンとした母親似の綺麗な背筋。その佇まいだけで、既に何かのオーラを纏っているようにも見えた。


 俺はこめかみに汗が滲むのを感じ、ゴクリを息を飲み込んだ。



 ――すると、小鳥のさえずりのように優しい指の弾きからしずはの演奏が始まった。



「ッ!?」



 演奏が始まった瞬間から、会場の空気が変わった。

 座席の背もたれに寄りかかっているのに、なぜか背筋を伸ばして座らなければいけない。そんな気にさせられ、会場の全員が前のめりになったように、しずはの演奏に支配されていった。


 しずはは、滑らかな指の動きから、腕だけではなく全身を使って力強く鍵盤を押し込む。その流麗な姿にゾクッとこちらの体までが反応してしまう。


 彼女の髪の触覚部分がふわりと舞い、その隙間から見えた横顔。それは今まで真面目な表情で演奏してきた奏者たちとは違い、なぜか笑っているように見えた。


 後半に行くに連れて、どんどん力強くなる演奏。ピアノから俺達がいる座席はこんなにも遠いのに、ダイレクトに心臓に何かを訴えかけてくるような音の波状攻撃。何度も何度もそれが心臓に響いて、何かしらの想いが音として届けられる。


 そして力強かった音は優しく、滑らかに落ち着いていき――最後には『ジャン! ジャンッ!!』と力強い音で締めくくられた。


 演奏を終えたしずはがゆっくりと立ち上がり、一礼した。



「――――ッ!!!!」



 一瞬の静寂のあと、今日一番の拍手――これでもかというほどの大喝采が会場を埋め尽くした。


「すごいっ……すごいよしーちゃん……っ」


 横をちらりと見ると、千彩都がハンカチで目下と鼻を押さえて泣いていた。


「すげぇ……」

「ヤバイ。俺全身鳥肌が立ってる……」

「うん……」


 冬矢と開渡は手が千切れそうなほど拍手を送っており、それは俺も同じだった。


 礼をして頭を上げたしずは。そのやりきったはずの表情――、




 ――しかし、俺が想像したものとは違い、なぜかしずはは悔しそうな顔をしていたように見えた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る