超・早朝決戦 〜「始まり」についての一考察〜

あるかん

一ノ瀬愛衣花と「始まり」

 玄関を開いて外に飛び出すと、凍りつくような空気に包まれ思わず目を瞬かせた。眠気も一気に吹っ飛んでいく。

 通路から首を伸ばして空を見てみると、東の方は微かに白み始めていた。


 思い切り深呼吸をしてみる。冷たい新鮮な空気で胸がいっぱいになるのを感じる。

 上に向かって思い切り息を吐き出すと、白く濃い湯気がもうもうと空へ立ち昇っていった。

 寒さは相変わらず身を刺すような鋭さだったが、だいぶ爽快な気分だ……おっと、危うく外に出た目的を忘れるところだった。


 私はマフラーをしっかり巻き直すと、アパートの階段を降りた。アパートの駐輪場に目をやると、住人が停めている自転車に並んで私の相棒ママチャリが佇んでいるのが目に入る。一瞬、後ろ髪を引かれる思いがあったが、手袋を片方無くした今の私に相棒のハンドルを握る術は無かった。なあに、しばらく歩けば身体も温まってくるだろう。

 覚悟を決め、私は未だ眠れる街へと繰り出した。


 冬の空気は澄んでるだなんて、スカした奴の言うことだと思ってたけど、こうして静かな街を歩いていると確かに遠くの新聞配達のバイクの音や鳥の囀りなんかもよく聞こえてくる気がする。

 大学へと続くいつものこの道もなんだか少し幻想的な気がしてくる……なんて、単純な自分に苦笑しながら1人道を行く。


 大学前の交差点に差し掛かる。日中は歩車分離式で、寝坊した時なんかはヤキモキしてしまうこの信号も今はパッパッとテンポ良く切り替わっている。

 学部棟の4階を見ると、いくつか電気が点いている部屋があった。卒論間近の先輩達が奮闘しているのだろう。

 私も2年後にはああなる運命なのだろうか、などとぼんやり考えながら、いつもなら直進する交差点を左に曲がって進んだ。

 

 家を出ておよそ20分、歩いているうちに温かくなるという当初の見立てがいかに浅はか極まるものであったかということを実感し始めた。

 今日ほど夜明けを待ち遠しく思ったことがあっただろうか。空は大分明るくなり始めていたが、日の出にはまだまだ時間がかかりそうだ。


 住宅街の間を流れる小川に掛かった橋を渡れば目的地まではもうすぐ。

 渡る際、なんとなく橋下に目をやると、所々氷が張った水面を数羽の鴨がのんびり泳いだり、ふかふかの羽毛に首を埋めてうたた寝したりしていた。


 「うっそ、信じられない!絶対寒いでしょー!」


 なんの意味もない文言をわざと声に出して言ってみる。

 1人で急に変なことを喚き散らすなんて、街の変わり者扱いされても文句は言えないが今ならその心配もない。早朝散歩の特権だ。

 実際、あの鴨たちは寒くないのだろうか?

 どんなに水が冷たくてもあの羽毛に包まれてればあったかいのだろうか?確かに、羽毛布団ってあったかいしなあ……あれ、でも水かきの部分は剥き出しだよな……?やっぱり寒いんじゃ……


 なんてことを考えながら歩いてるうちに、ようやく着いた。24時間営業のドラッグストア。

 この街に住み始めてもうすぐ2年経つが、ここに来るのは何気に初めてかもしれない。入店すると寝ぼけ眼の店員さんと目が合った。気怠げな「いらっしゃいませ」がこの時間帯では却って心地良い。

 レジ近くの棚は今はすっからかん。よく見るとおにぎりやお弁当のコーナーだ。へー、なんだかコンビニみたい……おっと、いけないいけない。つい関係ないものに目を取られてしまった。なんのためにわざわざここまで来たのかというと……おや?隣にあるのは……あったか〜い飲み物だ!あ、これ自販機以外で売ってるの初めて見たかも!……


***


 店員さんの気の抜けた挨拶を背に受けながら店を出る。つい色々買いすぎてしまった……だって、お菓子や紅茶のパックもいつものスーパーで買うより全然安い。こんなことになるならエコバッグを持ってくれば良かったな。

 歩きながらレジ袋に手を突っ込む。金属の擦れ合う音をさせつつ、スチール缶を取り出した。それを手に取った瞬間、指先から温もりがじんわりと伝わってきて思わず頬が緩む。

 缶のオニオンコンソメスープ。まさか駅のホームの自販機以外で君と出会う日が来るとは。


 缶をゆっくりと数回上下逆さまにしてからプルタブを倒し、慎重に口をつける。玉ねぎの甘みとコンソメのコク深い味わいが広がり、冷え切っていた身体が芯から温められていくのを感じる。

 早朝の新鮮な空気を感じながら温かいスープで暖をとる。キャンプにハマる人の気持ちが少し分かったかもしれない。

 いや、キャンプというよりはむしろサウナかも?

 スープをもう一口飲んでから、思い切り深呼吸してみる。温められた身体に冷たい空気が流れ込んでくると、頭がスーっと冴えてくるのを感じた。

 なるほど、これが「ととのう」ってことなのか……


なんてことを考えながら歩いていると、前から上下ジャージ姿で走ってくる男性の姿が見えた。うちの大学の運動部だろうか。こんな朝っぱらからご苦労なことだ。

 手に持っていた缶を隠して、道の端に寄る。多分顔も名前も知らない相手だが、缶スープを飲みながらふらふら歩いてるのを見られるのは何となく恥ずかしい気がした。

 

 「……あれっ、一ノ瀬?」


 軽く会釈してすれ違おうとした矢先、なんと、声をかけられてしまった。しかも私の名前を知っているなんて、まさか知り合い?思わず顔をあげる。

 驚いた表情を浮かべつつ、呼吸を整えているその細長い顔にはどことなく見覚えがある……


 「え……あ、佐々木か!」

 「おう、久しぶり……でもないか、この前の同窓会で会ったばっかりだし」


 なんと、謎のジャージランニング男の正体は同じ大学に通う佐々木だった。

 佐々木とは学部こそ違うものの、同じ中学の同級生ということもあり、会えば話すし1年次の共通科目の課題では助けてもらったりもしていた。

 今彼が言った通り、佐々木とはほんの1週間ほど前に地元の成人式後の同窓会で会ったばかりだった。すぐに気付けなかったのは申し訳ない気もするが、顔を真っ赤にしながら洒落たスーツに酒を溢してヘラヘラしていた男と、今の上下ジャージ姿で街を走っている今の男が同一人物だとすぐに気付ける人はそう多くはいないだろう。


 「たしかに、でもこっちで会うのは珍しいねー。え、てかこんな時間に何してんの?」

 「何って、見ての通りランニングだよ」

 「あーそっか、陸上続けてるんだっけ?朝早くからご苦労様だねー」

 「何だよそれ……それより、一ノ瀬こそこんな朝から何してんだよ?」

 「え!?何って……散歩のついでにちょっと買い物?なんか早起きしちゃったからさ」

 「ふーん……あ、そういえば来月の緑中の飲み会行く?グループでアンケート取ってたやつ」

 「あー、あれね……どうしようかなあ、そんなにしょっちゅう実家戻るのもなあ……バイトのシフトによるけど、多分行かないかも」

 「ああ……そっか……」


 私のそっけない返事に、佐々木は露骨にしょんぼりしたような顔をする。もし尻尾が生えてたらぺたんと垂れ下がってるに違いない。

 いくら背が高くなっても、こういうところは昔から変わらない。

 そんな様子を見てると、私もつい悪戯心が芽生えてしまう。


 「あれ、そんなに私に来て欲しかった?まあ、佐々木がどうしても来て欲しいって言うなら言ってあげてもいいけど?」

 「な、別にそんなこと言ってないだろ?俺はただ、1人でも多く来てくれた方が賑やかで楽しいだろうなって思っただけで……!」

 「ふふ、何それ……あ、そうだ。さっき飲み物買ったから一個あげるよ。水分補給大事でしょ?」

 「マジ?サンキュー……って熱ッ!? お前これ、おしるこじゃん!おしるこは水分補給にならないだろ……」

 「そう?でも糖分は補給できるでしょ? じゃ、ランニング頑張って。またねー」

 「お、おう……またな」


 佐々木は眉を下げて不思議な表情を浮かべていたが、踵を返すとおしるこ片手に再び走り出していった。

 

 缶のスープを最後まで温かく美味しく飲める人はこの世にいるのだろうか。もしいるとしたらその人はとてもせっかちで、口の中は火傷でデロデロに違いない。

 そんなことを考えながら冷めたコンソメスープを飲み干す。ちょうどよく自販機の前を通りかかったので、空き缶をダストボックスに捨ててまた歩き出した。

 徐々に身体が冷え始め、佐々木におしるこをあげてしまったことを半ば後悔し始めた矢先、唐突に太陽が住宅街の屋根の隙間から顔を覗かせた。歩いていた道が一気に明るくなり、思わず目を細める。


 1日の始まりだ。


 学校の入学式、運動会の開会式、1年の始まりである元旦の初日の出。

 何かがスタートする時というのは、とかく盛大に執り行われがちだと思っていたが、実際のところこの世界には何の前触れも無く、誰にも気付かれずひっそりと始まるもののほうが多いのではないだろうか。

 きっと今この瞬間にも、世界のどこかでまだ見ぬ何かが始まりの産声をあげている。

 ということは、何かを「始める」のだって同じなんじゃないか。何かきっかけやタイミングを探しがちだけど、本当はそんなもの必要なくて、「やりたいから」「なんとなく」始めてみる。そんなシンプルな感じでもいいんじゃないか。

 そう思ううちになんだか何だってできる気がしてきて、気付けば私は走りだしていた。


***


 走ってきた勢いそのままに「メゾンマロニエ」の階段を一気に駆け上がり、203号室の玄関の前で停止する。久しぶりに走ったせいで、膝は震えてるし横腹は刺すように痛い。それでもなんだか清々しい気分だった。

 呼吸を整えてから、鍵を回して力強く扉を開いた。


 __何かが始まる時というのは大抵はなんの前触れもなく訪れるのだろう。思い返せば、昨晩の邂逅もまさに突然だった。

 

 玄関で靴を脱ぎ捨てて、電気のスイッチを押す。真っ暗な部屋に明かりが灯る。

 ベッドの上に積まれた衣類や床に散らばった参考書たちが夜通し繰り広げられた戦いの激しさを雄弁に語っていた。

 当然、部屋は私が出かける前の状態そのままで、不審な点は一つもない。


 だが、私は確かにやつの気配を感じていた。黒く蠢くやつの気配を。

 間違いない。まだ間違いなくここにいる。


 はやる鼓動を抑えつつ、私はレジ袋から慎重に「ソレ」を取り出すと、表面のフィルムを剥いで拳銃を持つように両手で構えた。


 さあ、私と貴様G、生き残るのはどっちか。最後の決戦を始めよう。

 

 

 

 

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