09 フィディアル神官
穏やかな風が吹いた。
〈峠〉のふもとは、大雪でも降ればなかなか悲惨な状況になるが、この冬は寒すぎず暖かすぎず、ほどよく冬らしい気候を見せていた。
神殿への参拝を済ませたハルディール・イアス・シリンドルは、雲ひとつないこの日の青空を見上げ、にこりと微笑みを浮かべた。
「いい日だ」
齢わずか十五で王位に就いた少年王は言った。
本来ならば、彼がその座に就くまで、早くともあと十五年はかかっただろう。だが前神殿長であったヨアフォード・シリンドレンが国の乗っ取りを企み、前王と王妃、つまりハルディールの両親を殺害した。
反逆者は神の騎士に成敗されたということになっているが、ただタイオスがヨアフォードを退治したと、そう単純な話でもなかった。
それはほかでもない、この〈峠〉の上に建つ神殿のなかで起きたことだった。
もうずいぶん昔のことのような気がする。だが、まだ一年も経っていない。
十五歳の少年に「一年」は長かったが、それでも、あれからの日々は飛ぶように過ぎていった。
だと言うのに、あの日はずいぶんと遠い気がする。
不思議だった。
ハルディールは青い空と遠く感じる記憶から視線と思考を戻すと、再び笑みを浮かべた。
「どうやら〈峠〉も客人を歓迎しているようです、ラシャ殿」
やわらかい金の髪を風になびかせながら、少年王は青い瞳で隣を見た。
「それはまた、有難いことであります」
返事をしたのは、二十代の半ばから後半と見える男だった。肩の上で切り揃えた明るい茶色の髪に薄い色の瞳を持ち、穏やかそうな顔つきをしている。その身分は、傍目にもすぐ知れた。シリンドルでこそ見慣れぬものであったが、少し大きな街であればたいていは目にすることができる。
白地の長い衣装。金茶色の糸で成された刺繍は、〈創造神〉フィディアルの印章を描いていた。
神界七大神が一神、フィディアル。ラ・ザイン、メジーディス、ムーン・ルー、ピルア・ルー、ヘルサラク、ナズクーファと名を連ねる神々のなかで、最も力を持つとされる神だ。
遠い神話の時代を別とすれば、神々は相争うことなどしない。よって、たとえば力較べのようなものでフィディアルが「強い」という解釈は正しくなかった。そうした意味で「強い」のであれば、むしろ戦士の神ラ・ザインであるかもしれない。
フィディアルに力があるとされるのは、やはり「創り出す」神であるからだ。ほかの神々は維持し、高めるもの。ナズクーファに限っては「壊す」神である。
単純に、フィディアルが活躍する神話が多く、信者が得やすいということもある。となれば寄付寄進、そうしたものはフィディアル神殿に集まり、俗世間的にも「力を得る」ことになるのである。
複数の神殿がある街では、神殿同士で保護し合うこともあったが、なかにはとても信者には聞かせられぬような生臭い軋轢もあるとか、ないとか。
神殿、神官、神の使徒と言っても所詮は人の子だ。欲望を断ち切れぬ者もいる。
それはたとえば、ヨアフォードのように、であったろうか。
もっとも、シンリーン・ラシャと名乗ってシリンドルを訪れた若きフィディアル神官は、清廉であるように見えた。彼は自らを修行の身と言い、神界七大神や冥界の主神らとは異なる、自然神や土地神と言われる神々について調べることで徳を積んでおり、その一環で〈峠〉の神について知りたいとシリンドルへやってきたのだと語った。
もしもラシャが〈峠〉の神を「忌むべき異教」とでも判断していたら、それは騒ぎになったことだろう。
このシリンドルでは、〈峠〉の神が全てを司っている。王家の成り立ちから、人々の心の支えから、何から何まで〈峠〉の神シリンディンだ。八大神殿の神官には気に入らない、ということも有り得た。
だが幸いにして、そうではなかった。ラシャは〈峠〉の神に敬意を払い、神話や伝承を知りたいのだと丁重に申し入れた。となればハルディールに拒絶する理由は特になく、少年王は自ら〈峠〉の上にある神殿までラシャを案内したところだった。
「しかし、こちらは寂しいのですね」
ラシャは呟いた。
「麓の神殿には、参拝する者も多いようですのに」
「日常の祈りのためにここまで毎日登るのは困難だと、先人が麓に建てたのです。以前は婚礼や葬儀などの儀式もこちらで行っていたと聞きますが、私の祖父の代にはもう、余程の大きな願掛けでもなければ、ここを訪れる者は減っていたとのことです」
「ですが、王家の儀式はこちらで」
「ええ。より、〈峠〉の神に近い場所ですから」
「ふうむ。信心と日常の融合……妥協でしょうか」
ラシャは呟いたが、ハルディールの表情が曇ったのを見て、慌てたように手を振った。
「いえ、どうか誤解なさらないでください、陛下。妥協というのは必ずしも悪徳ではございません。麓に神殿を作ることで〈峠〉の神への信仰が廃れなかったと考えれば、それは先人の英断と言えましょう」
フィディアル神官はそんなふうに言った。シリンドル国王は曖昧な笑みを返した。
結局シリンドルはいま、「そうでもしなければ面倒臭さが勝って、神への信仰は廃れたに違いない」と言われたのだ。
だがラシャに悪気はない。そう思ってハルディールは何も言わなかった。
「――いまの言い方は、解せない」
しかし、彼以外の人物が言った。
「たとえ麓に神殿がなくとも、シリンドルの民が信仰を忘れるようなことはなかっただろう」
「……ああ、ああ、失敬」
ラシャは再び慌てた。
「そうですね。失礼な言い方をしました。申し訳ありません」
神官は謝罪の仕草をした。
「〈シリンディンの騎士〉殿」
「ルー=フィン・シリンドラス」
銀髪の騎士は、そう名乗った。
「他教の神官よ。〈峠〉の神への冒涜は許さない」
「ルー=フィン」
ハルディールはたしなめた。
「慎め。ラシャ殿は客人だ」
「……失礼いたしました、陛下、神官殿」
王の言葉に騎士はわずかに頭を下げた。
「さあ、もう下りよう。あまり長く館を不在にしては、アンエスカに怒られる」
ハルディールは笑い、ラシャとルー=フィンの間に降りかけたぎこちない空気を一掃した。
「アンエスカ殿というのは、騎士団長殿でしたか?」
「ええ、そうです」
ラシャの問いにハルディールはうなずいた。
「我がシリンドルの誇る〈シリンディン騎士団〉の長であり、同時に、私の大事な助言者でもあります」
「ですが」
神官は少し戸惑った顔をした。
「王陛下を……叱る、と?」
「ご覧の通り、私は若輩もよいところですから」
謙遜でも何でもない。シャーリス・アンエスカの助けがなければ、ハルディールはたとえヨアフォードから国を取り戻したところで右も左も判らず、もしかしたらヨアフォードの息子ヨアティアに再び反逆されることだってあったかもしれない。
処刑を怖れて逃亡したヨアティア・シリンドレンは、ルー=フィンがその死を見届けた。少なくともハルディールはそう聞き、証拠らしい証拠がなくとも、それを信じていた。
ルー=フィンがそのような嘘をつく人間ではないと、そのこともまた信じていたからだ。
反乱の際はヨアフォードに使える凄腕の剣士として彼らを脅かした銀髪の若者は、しかし、彼なりにシリンドルのためを思っていただけだ。恩人ヨアフォードに尽くすことで、国がよくなると。
また彼は、前国王を親の仇とも信じていた。
事実は――いまだ、判らない。
ヨアフォードは、王家を揺るがす告白を遺した。
それは、ルー=フィンが前王の妾腹であるということ。つまりはハルディールの腹違いの兄であるということ。ハルディールよりも王位継承の資格があると。
ハルディールは事実を明らかにすることを望んだが、ほかの誰も、望まなかった。混乱から立ち直るところであるシリンドルに敢えて混乱の種を植え付けることはないとアンエスカは言い、ルー=フィンも知りたくないと言った。
その言葉はそれぞれ、彼らが「事実」を怖れているためとも言えただろう。
だが判らないのだ。本当のところは。事実を知る者はみな冥界へ行き、彼らは憶測しかできないのだから。
年若い王には白黒をつけたい気持ちがあったが、彼らの言うことも理解できた。
これまで通り、前王の嫡男はハルディールのみ、ルー=フィンは彼の従兄であると、彼らはその道を採った。
「そう、私はアンエスカやルー=フィンといった騎士たち、そして姉である巫女姫エルレールに支えられながら、どうにかやっているんですよ」
「ご立派です」
ラシャは、少年が「どうにかやっている」ことにか、はたまたやはり謙遜と取ってか、そんなふうに言った。
「麓へ下りましたら、ボウリス神殿長にご紹介しましょう。神話や伝承は、私ももちろん学びましたが、彼の方が詳しいですから」
「有難うございます」
「できることなら〈シリンディンの白鷲〉もご紹介したかったですが、生憎、彼はシリンドル国民ではないので」
タイオスはどうしているだろうか、とハルディールは北西の方を見やった。
(何度「またきて下さい」と綴っても、なしのつぶてだ)
(彼はきっと、〈白鷲〉としての自分の役割は終わった、と考えているんだろうな)
(ただ、友としてきてくれるだけでいいのに)
ハルディールは音沙汰のない戦士を懐かしんだ。
(久しぶりに便りを書こうか。そろそろうるさいと思われるかもしれないけれど)
(また、きてほしいと書こう)
戦士のしかめ面を想像して少し笑ったハルディールは、彼の隣でルー=フィンが険しい顔をしていたことに、気づかなかった。
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