第2話 「恋だろ」

 恋しい彼は、陸上部に所属する長距離選手で、もうすぐ駅伝の県大会があるらしく、今はその練習に全力を注いでいるらしい。

 部活や生徒会などに所属していない私は、授業が終わると真っ直ぐ帰るのが当たり前だったが、恋をして以来、恋しい彼を一目見ようと陸上部の練習を観察してから帰るようになったため、いつもより1本遅い電車で帰宅するようになった。

 グランドで準備運動をしながらチームメイトと談笑する姿はそこだけスポットライトが当たっているかのようにキラキラしていて、センター分けにした前髪をなびかせて走る姿は春の風よりも爽やかで、額に流れる汗は朝露のように太陽の光を集めて輝いている。

 毎日学校で見ているだけでは我慢できなくなり、練習する姿や廊下で談笑する笑顔をスマホのカメラで撮影しようかと何度か手が伸びたが、その度に私の中の常識がむくむくと存在を主張し「肖像権の侵害」を訴えるので思い止まるの繰り返しであった。

 そのせいか、一緒になるはずが無い通学電車の中や、いるはずが無い近所の商店街で恋しい彼の姿を見かけるという幻覚を何度も見て。学校の廊下や授業中の教室で「大丈夫ですか」と少し高めの恋いしい彼の声が聞こえるという幻聴が聞こえるようになった。私はその度に胸が震えて頬が熱くなるのだが、人違いや聞き間違いだと分かると、凪いだ海のように心は静まり、真冬の校庭にある鉄棒のように頬は冷たくなった。

 感情が一瞬のうちに、真冬の晴天の日の寒暖差のように上下するのは、かなり体力を使うのだと実感しながら、部活の始まりを教室の窓から観察していると、幼馴染の芦屋が私の隣に並んで面倒くさそうに話しかけて来た。

 「藤本にもようやく人間らしい感情が生まれたらしいが、行動が怪しすぎるから近いうちに通報されるぞ」

 「はぁ?いきなり何を言うかと思えば、恋を知った私を僻んでいるのか?精神年齢がまだまだお子様の芦屋には縁の無い事だけに、これにおいては相手にもならんぞ」

 私よりも少しだけ背が高く、私よりも少しだけ成績が良く、私よりも少しだけ社交性がある芦屋は、生まれた時から隣に住んでいる、幼馴染という名のライバルだ。

 「俺は藤本と違って一目惚れなどどいう直観で、恋に落ちるなんてことねーんだよ。俺が恋をする人は、俺の理想を満たしている人じゃなきゃなんねーからな」

 「ふん。その理想がお子様だというのだよ。芦屋の理想を満たせる女子が今まで居たか?いないだろう。これから現れるのか?現れるわけないだろう。なぜなら、芦屋の理想は2次元過ぎて、今私たちが生きている世界には存在しない」

 「俺の理想を知らねーのに、断言するな。藤本こそ、理想に上げていた人物像とかけ離れ過ぎているのに、一目惚れとは、足がつった時に脳みそまでつったんじゃねーのか?」

 「理想と現実は違うのだよ、芦屋。君もそろそろ、それを認めたまえ。現にほら、私は現実(リアル)が充実し始めている」

 「どうして恋をすると現実が充実するのか、聞かせてもらおうか」

 芦屋は私と同じように陸上部が準備体操をする姿を眺めながら、説明を求めた。

 「仕方ない、そこまで懇願するのなら、教えて進ぜよう」

 私は一目惚れをしてから変化した日常を恭しく語った。

 「まず、朝の目覚めが違う。今日も学校で恋しい彼をこの目に焼き付けられると思うと、アラームよりも早く目が覚める。そして、身だしなみに気を使うようになる。今までも十分整えていたが、寝癖が付いていないようにしっかりを髪をとかすし、制服のリボンが曲がっていないか確認するようになった。それよりも何より、恋しい彼の事を知りたいという欲求が体の底から湧き上がり、今までにない行動をさせるのだ。現にほら、帰る電車を1本遅らせているだろう」

 「なるほど。今までは、アラームを10本以上かけなければ起きられず、櫛を通しただけでは直らない寝癖はそのままで、リボンをつけ忘れて登校することもしばしばだった藤本には、いい兆候だ。しかし、今まで真っすぐ前しか見ていなかったのに、急にキョロキョロとしたり、ブツブツと独り言を言ったかと思えば、だらしない笑顔を漏らす。なのに、急に氷のように冷たい表情に戻り、スマホを握りしめるなんて姿、狂気にしか見えねぇ。そんな藤本の視線を一身に受けている恋しい彼は最近、心身の不調を訴えており、駅伝のメンバーに入れるかどうかのタイムしか出ないそうだ」

 「何?恋しい彼の不調は、私のせいだと言いたいのか?」

 確かにここ最近、やたらと後ろを振り向いたり、周りを確かめたりするようになったし、昨日なんて、友達に声を掛けられただけで腰を抜かすほど驚いたりしていた。おまけに、あんなにキラキラした笑顔で爽快に走っていたのに、今日は苦悩の表情で息も絶え絶えだ。

 「証拠はこれだ。恋しい彼のインスタのストーリーズに上がっている投稿は、それを示唆するものじゃないか?」

 芦屋が見せたスマホには、「呪われてる?」という文字とピントの合っていない自撮り写真が写っており、背景の校舎に身を隠すように制服を着た女子がほんの少しだけ映っていた。顔はハッキリ映っていなかったので、個人は特定できないが、何となく、その姿は、自分に似ていた。

 「確かに私に見えなくも無いが。仮に私だとしても、断じて呪ってはいない。むしろ、祈っていると言っても過言では無い」

 駅伝のメンバーに選ばれる事を、陰ながら毎日神社でお願いしているが、呪ってなどいない。

 「恋って、してる方はお花畑だけど、されてる方は森の中なんだよね」

 左肩に重みを感じたと思ったら、城崎だった。

 「森の中?」

 「そう。何処から獣が出て来るのか分からない。出てきたところで、仕留めたい獲物か、逃げたい獣かで対応は違う。恋しい彼は、気配は感じるだけの一番張り詰めた緊張感の中にいるのよ。だから、藤本が告白して姿を現せば、誤解も解けるんじゃないかしら?上手くいけば、付き合えるかもしれないし」

 「告白?付き合う?そんな事、藤本がするわけ無いだろ。こいつが恋に落ちること自体が奇跡なんだぞ。それ以上の展開があるはず無い」

 芦屋は心底可笑しそうに笑いながら、城崎の提案を却下した。

 「あら、恋をするという奇跡が起こったんだもの、恋人ができるという奇跡も起きるかもしれないじゃない。それに藤本なら、その軌跡を呼び起こすんじゃないかしら」

 「奇跡、奇跡と失礼な。それなら、本当の奇跡を見せてやる!その節穴のようなお目目を見開いてよーく見ておけ!」

 私は何故か二人に乗せられて、教室を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

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