「スタート」
佐倉井 月子
第1話 「恋しちゃったんだ~♪」
人間として生を受けて、早17年。
霊感と女の勘以外の第六感はこの世に存在しないと思っていたのに。私は、もう一つの第六感をじてしまった。
この世に存在するはずが無いと鼻で笑っていた「一目惚れ」は、最も尊い第六感であると、勝手に震える心を誇らしく感じながら実感している。
今、思い出してもあの時と同じ感情が蘇るほど、彼との出会いは、一瞬にして私の世界を変えた。
「8時23分に着く電車で登校。マフラーは黒とグレーのチェックと」
スマホのメモに、恋する彼の情報を書き込んでいると、右の肩が急に重くなった。
「朝から熱心な藤本、おはよう~」
「何度言ったら理解できるんですか?挨拶する時は、パーソナルスペースを超えないでください」
気配も無く近づき、私の肩に顎を乗せているのは、同級生の城崎。
「もう、『おはよう』には『おはよう』って返すんだって、何度言ったら理解できるの?それに、私のパーソナルスペースは守られてるから、問題無し」
「私は守られていないので、問題です」
「そう言えば、恋する彼。天気のいい日は中庭でお昼たべるらしいよ」
「なぬ?それは行動確認しなければなりません。今日は天気も良さそうなので」
「うんうん。じゃ、またね~」
城崎は私のクラスメイト達ににこやかに挨拶をしながら、泳ぐように自分の教室へと消えて行った。
高校入学早々から私の周りをうろつき、人よりも広めであると自覚している私のパーソナルスペースを無視する同級生は、城崎。特別容姿がいいわけでは無いが、誰とでもにこやかに話をして、人の間を泳ぐように立ち振る舞っている姿は、現代における妖怪の一つ、コミ力お化けに違いない。
その証拠に、友達という存在がおらず、中学から一人で居ることが当たり前の私に、挨拶や授業などの必要最小限の会話以外に、話しかけてくるのは、幼馴染で腐れ縁の芦屋以外に城崎しかいない。しかも、同じクラスになった事も無ければ、通学路が同じという訳でも無いのに、入学して1週間ほどした休日の朝、週末のルーティンである昼までの睡眠を実行している最中、まだ9時を過ぎた頃に尋ねて来て、初対面の母を篭絡し、私の部屋まで上がって来たのだ。
「不法侵入!」と叫ぶ私に母は呆れるように言い捨てた。
「コミ障のあんたには、これくらいズカズカ来てくれる城崎ちゃんみたいな子が必要です」
おのれ城崎、母にどんな呪いをかけたのだ!と渾身の怒りを込めて睨んだが、私の視線をひらりとかわすと、にこやかに笑いながら、私に抱きついて「おはよう」と挨拶した。以来城崎は、スキンシップ激し目に挨拶するようになった。
私がパーソナルスペースを侵されて不快に感じなかったのは、恋する彼、だた一人だ。あれは、何度思い出しても、胸が切なく締め付けられ、頬が熱くなる出会いだった。
二学期の恒例行事として、マラソン大会が行われる。女子は5㎞、男子は8㎞の距離を走る。学校の外周を回るコースには、教員の他に体育委員が各ポイントに配置されマラソン大会の安全面を支えている。コミ力と計算能力は低いが、運動神経はそれほど悪くない私は、スタートから誰にかき乱される事無く、順調に真ん中辺りの順位で走っていたのだが、後1㎞ほどの所で、急に足がつって動けなくなった。
「大丈夫ですか?痛いけど、一瞬だから、我慢して」
彼は私の足を掴むと、手際よく伸ばした。
「痛い痛い!痛い!一瞬じゃない、まだ痛い!」
「もうちょっと、我慢して。はい、深く息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。はい、これで、歩けるようにはなったけど無理はしないで、棄権した方がいいと思うよ」
「ホントだ。まだ痛いけど、歩ける。ありがとうございました」
お礼を言い終わって顔を上げた時に初めて、彼の顔を見た。
ミントのタブレットのような爽やかな笑顔は、曇天の空の下なのにも関わらず、キラキラと輝いていて、私の目と心を釘付けにした。
「おーい、藤本。歩けるようになったんでしょ。肩かしてあげるからゴールまで行くよ。おい、藤本?」
いつの間にか城崎が私の隣にいて、恋の矢に心臓を撃ち抜かれて固まっている私に話しかけていた。
パチン!
目の前で手を叩かれて初めて城崎の存在に気が付いた私は、普段なら絶対に断っているのにその時はされるがまま、城崎の肩に腕を回し手を借りながら、恋しい彼が手当してくれた足を引きずりながらゴールした。
その日以来、私の世界に、今まで聞こえなかった声や今まで見えていなかった人が入り込んできた。
それが恋の幻覚と幻聴だと理解したのは、もう少し後の事。
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