第30話 お見舞い 月宮さんの場合

 恐れていた事態が起きてしまった。

 週明けの朝。

 ベッドの上で目を覚ました俺は、体温計の数字を見て愕然とした。

 そこには『38度5分』と記されている。


「やっぱりか……」


 昨日の夜、寒気を覚えて不意に覚醒した時に予兆はあった。

 風邪を引く時はいつもそうだった。

 頼むから気のせいであって欲しい――一縷の望みと共に床についたが、案の定、起きると見事に発熱していた。

 しかもまだここから上がりそうな雰囲気。


 とりあえず、学校に休みの連絡を入れる。

 咳はない――が、頭が重くて身体がだるい。

 しまったな、と思う。

 ちょうど風邪薬を切らしていた。冷蔵庫の中身もすっからかんだ。

 これではあまりにも心許ない。


 ……仕方ない。買い出しに行くとするか。


 ベッドから気怠い身体を起こすと、パジャマから私服に着替えようとする。動作の一つ一つが億劫で仕方ない。

 それでもどうにか着替え終わると、家を出ようとする。

 けれど、着替え終わったことで一つ気が緩んだのだろう。

 歩きだそうとした瞬間、目の前の景色が不意に揺らいだ。

 めまいがする。


 あ、マズい――。


 そう思った時にはもう身体の自由が利かなくなっていた。

 自分がどこに立っているのか分からなくなり、上下左右が分からなくなる。

 俺を支えていた糸がぷつりと切れ、その場に崩れ落ちようとする。


 その瞬間。

 横から伸びてきた両手によって、俺の身体が支えられた。


「相地くん、大丈夫!?」

「月宮さん……?」


 ぼやけた視界に映るのは、制服姿の月宮さんの姿。彼女は顔を近づけてくると、俺の額に自分の額をくっつけた。


「すごい熱……38度5分もある」

「なんで正確に分かるんだ……?」


 月宮さんには体温計の機能がついてるのか?


「あ、言っておくけど、誰のでも分かるわけじゃないよ。相地くんだけ」


 その方が怖い。


「こんなに熱があるのに、動いちゃダメだよ」

「でも買い出しにいかないと……」

「それは私が行ってくるから。とにかく、ベッドで寝てて」


 俺は月宮さんに促され、ベッドに戻る。

 月宮さんがなぜここにいるのか、今日は間違いなく玄関の鍵が掛かっていたはずなのにとか色々と疑問はあった。

 でもそれ以前にありがたいという想いが強かった。俺一人だけだったら、あのまま床に倒れていたことだろう。


「相地くん、もう学校に休みの連絡はした?」

「ああ」

「そっか。えらいね。じゃあ、私、買い出しに行ってくるけど。何か欲しいものとか食べられそうなものはある?」

「ポカリとゼリー……」

「分かった。すぐに戻ってくるから。ゆっくりしてて」


 月宮さんはそう言い残すと、買い出しに出ていった。

 ベッドに寝かされ、うつらうつらとしているうちに扉の開く音がした。買い物袋を手に提げた月宮さんが部屋に戻ってくる。


「風邪薬にポカリとゼリー。それとフルーツも買ってきたよ。風邪を引いた時はビタミンを取らないといけないから」

「ありがとう。代金、いくらだった? 払うよ」

「そんなの必要ないよ」

「でも……」

「貸し一つってことで。今度また何かで返して?」


 月宮さんはそう言って微笑みかけてくる。

 ありがたい申し出ではある。でも、貸しを作るのは怖い。いったい何で返させられるのかが分からないから。


「とりあえずはお薬だよね。朝ご飯はもう食べた?」

「いや、まだだけど」

「じゃあ、何か食べちゃおう。空っぽの胃にお薬を飲むのは、あんまりよくないし。食欲はある?」

「多少は。固形物はキツいかもしれない」

「ヨーグルトは?」

「それならどうにか」


 月宮さんは買い物袋の中から四つ入りのヨーグルトを取り出すと、蓋を開け、スプーンと共に差し出してくれる。

 俺はそれを受け取ると、時間をかけて平らげる。

 その後、風邪薬を飲む。

 そしてベッドの傍らに椅子を持ってきて腰を下ろした月宮さんに尋ねた。


「学校に行かなくていいのか……? 遅刻するぞ」

「相地くんのことが心配だから。今日はお休み」

「クラス委員がサボりはまずいだろ」

「クラスの皆には真面目な子だって思われてるかもしれないけど、私、授業をサボることにちょっぴり憧れがあったから」


 月宮さんは微笑む。

 どこか悪戯っ子みたいに愉しそうだった。


「ずっと傍にいたら、俺の風邪が移るかもしれない」

「ふふ。そうなったら嬉しいな。相地くんの身体の中を侵してた菌が、私の中にも入ってきたってことだから」

 

 むしろ積極的に移されたがっていた。

 何を言っても聞いてくれなさそうだ。それに正直、俺としても一人でいるより、傍に誰かがいてくれた方が心強い。

 俺がずっと目を開けたままでいると、月宮さんがやんわりと尋ねてきた。


「どうしたの? 眠れない?」

「いや、そうじゃないんだ」


 俺は首を横に振ると、


「……夢を見るのが怖くて」

 と打ち明けた。


「……夢?」

「熱を出した時に、決まっていつも見る夢があるんだ。それは凄く怖くて、どうしようもなく寂しい気持ちになる」

「それがどんな夢なのか聞いてもいい?」


 俺は頷くと、語り始める。

 前の学校にいた時、俺の腹を刺してきた女子。

 刺されてからというもの、彼女が俺の夢の中に現れる。

 彼女は俺に対する憎悪を剥き出しにしていて、その表情は鬼みたいで、ナイフを俺の腹に向かって突き刺してくる。

 それはずぶりと深く心臓を突き刺して、俺は為す術もなく倒れる。

 流れ出る大量の赤い血。

 全身が冷たくなっていき、視界は暗くなり、一人ぼっちの暗闇に投げ出され、泣きたくなるほどの寂しさに襲われる。


「……だから、今も眠るのが怖い。夢を見るのが怖い」


 語りながら、自分の手が震えてることに気づいた。

 晒しすぎた、と後悔した。

 熱で弱っていたからとは言え、弱い部分を剥き出しにしてしまった。恥ずかしさで全身の血流が煮立つのが分かった。


 その時だった。


 そっ、と。

 俺の震えた手を、月宮さんの両手が包み込んだ。


「私はこうして、ここにいるから」


 月宮さんの瞳が、俺を見つめていた。

 口元に微笑みをたたえながら。

 優しい声色で語りかけてくる。


「夢の中で相地くんが怖い想いをしても、私はずっと相地くんの傍にいるから。だから何も怖がらなくて大丈夫だよ」


 包み込んでくる両手から、温もりが伝わってくる。

 柔らかくて、すべすべな手の平。

 それが震えた俺の手を、胎児を抱くように包み込んでいた。彼女の存在が、熱が、俺は一人じゃないのだと伝えてくる。


「……ああ」


 気づけば、震えは止まっていた。

 次第にまどろみが訪れる。

 俺はそれにゆっくりと身を任せる。


 いつも熱が出たら、必ずと言っていいほど見た悪夢。

 不安で、寂しくて、一人ぼっちの暗闇。

 それを今日は一度も見ることはなかった。

 安らかな眠りにつくことができた。


 まるで過去のトラウマに引きずり込まれていこうとするのを、月宮さんが手を握ることで繋ぎ止めてくれているようだった。


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