第2話 高嶺の花

 新生活が始まってから二ヶ月の月日が経過した。

 最初こそどうなるか不安だったが、何だかんだつつがなく過ごせていた。友人と呼べるような存在も何人かはできた。

 クラスから浮くこともなく、今のところは順調と言えた。

 

 キーンコーンカーンコーン。

 休み時間の到来を告げるチャイムが鳴り響くと、黒板に走らせていたチョークの規則的なコツコツという音が止む。


「じゃあ、今日はここまで」


 世界史担当の先生がそう言うと、まどろんでいた意識がようやく戻ってくる。

 起立、礼を手短に終えた後、先生が教室の扉を開けて廊下に出ていくのと同時に、教室全治に解放された感が満ち満ちた。


「相地くん、おはよう。気持ちよさそうに船をこいでたね」


 あくびと伸びをしていると、俺の席の傍らに女子生徒がやってきた。

 上品な微笑みを顔にたたえた彼女は月宮詩歌(つきみやしいか)。

 このクラスの委員長だ。

 澄んだ冬の夜を閉じ込めたかのような艶やかな長い黒髪に、神様がえこひいきしたとしか思えないほどの整った顔立ち。

 スタイルも抜群に良く、振る舞いの一つ一つが洗練されている。

 文武両道、才色兼備の高嶺の花。

 校内を歩けばすれ違った生徒の十人中十人は彼女に視線を留め、周りの人間を全てモブに変えてしまうほどの圧倒的な華を持つ。

 月宮さんと俺は月とすっぽん、本来なら交わるはずのない人種。そんな彼女がなぜ俺のようなモブに話しかけてくるのか。


「せっかく先生が授業してくれてるのに、寝るのはよくないと思うなあ。それに相地くんは私と同じクラス委員なんだから。皆の模範にならないと」


 人差し指を立てながら、やんわりと諭すように注意する月宮さん。

 そう――俺は彼女と同じ学級委員なのだった。

 女子のクラス委員が月宮さんで、男子のクラス委員が俺。

 一応断っておくと、俺はそういった役職に自ら名乗りを上げる性格じゃない。むしろ責任を負う立場は避けたい方だ。

 先にクラス委員に内定した月宮さんが、男子の学級委員に俺を推薦した。


『相地くんに学校に慣れて貰うためにも、その方がいいと思うの。クラス委員になれば皆と関わる機会も多いだろうし』


 新参者の俺を気遣ってのことらしい。

 月宮さんのクラスにおける発言力は絶大だ。彼女が黒と言えば黒、白と言えば白になるほどに皆から全幅の信頼を置かれている。

 仮に彼女が『心を強くするために、明日から全員授業は空気椅子で受けよう?』と滅茶苦茶なことを言ってもたぶん通る。それくらいに凄い。


「関町先生の授業は睡眠誘導だから」と俺は言い訳をする。


 世界史担当の関町先生は眠たい授業をすることで有名だ。

 間延びした声。教科書を読むだけの単調な内容。チョークを黒板に走らせる時のメトロノームのように規則正しい音。

 その全てが調和して最高の睡眠に誘おうとする。

 体育の授業終わりの疲れた身体に抗う術はない。実際、クラスの半数以上、七割くらいは睡魔の餌食になってしまっていた。


「むしろなんで月宮さんは起きていられるのか謎だ。さっきの体育の持久走でぶっちぎりのトップをひた走った後なのに」

 後続を大きく引き離しての独走だった。

「ふふ。疲れてても、集中してたら眠くなんてならないよ?」

「積んでるエンジンが違うな。他の生徒が軽自動車だとしたら、月宮さんは大型トラックだ。まるで比べものにならない」

「うーん。大型トラックに例えられると、女子としては素直に喜べないなあ」と頬に指をあてがい困ったように言う月宮さん。

「どうせなら、もっとかわいい車にたとえて欲しい」

「じゃあ、街頭で高収入求人情報サイトの宣伝をしてるトラックとか」

「より嬉しくなくなっちゃうんだけど」

 月宮さんは苦笑いをした後、相地くんはあれをかわいいと捉えてるんだ、と俺の価値観に対しての苦言も呈していた。


「私が大型トラックだとしたら、相地くんは?」

「俺は自転車」

「そもそもエンジン積んでないんだね?」

 月宮さんは呆れたように笑う。

「だからあんなに授業中に船を漕いじゃうんだね。あくびだけで十五回、四十五分のうち四十分はまぶたが降りてたし」

「そんなに寝てたのか……」

「そんなに寝てたよ?」

「五分起きてたことを評価して欲しい」

「自分に甘すぎない?」

「というか月宮さん、俺のこと気にしすぎでは」

「えっ?」


 月宮さんは虚を突かれたように目を丸めた。


「そ、そうかな?」

「だって、四十五分のうち、四十分寝てたってことを観測するには、授業中ずっと俺の方を見てないといけないだろ」

「別にずっと見てはいないよ? たまたま視界に入っただけ……」

「でも月宮さんの席、窓際の席の俺の右隣だよな。黒板見ようと思ったら、俺のことは見えないはずだけど」

「わ、私、視野が広いから。黒板も相地くんも同時に見ることができるの。本気を出せば三百度くらいは見渡せるよ?」

「そんな草食動物みたいな」

 前世、シマウマ?

 まあでも、さすがにずっと俺の方を見ていたわけじゃないだろう。わざわざそんなことをする理由がないだろうし。

 月宮さんは取りなすように何かを差し出してきた。


「はい。これ」

「ノート?」

「さっきの授業、ずっと寝てたからまともに取ってないでしょ? 今日のところ、テストに出そうだったから」

「いいのか?」

「クラス委員が赤点取ったら、私も恥ずかしいから」

「ありがとう。助かるよ」と俺は頭を下げた。


 ノートを開くと、板書の内容がとても分かりやすくまとめられていた。

 重要部分には色とりどりのマーカーが引かれ、月宮さんが描いたであろう可愛いウサギのキャラクターが注釈を入れてくれている。

 まるで最初から人に見せることを想定しているかのようだ。


「……隣じゃなくて、後ろの席だったらよかったのに」

 月宮さんはぽつりと呟いた。

「そうすれば、居眠りしてる相地くんを起こしてあげられるのにな」

「その言葉はありがたいんだけど、どうしてコンパスを握ってるんだ? まさか背中に針を刺して起こすつもりか?」

「しつけをするためには、痛みを伴わないといけないから」


 ふふふ、と満面の笑みを浮かべる月宮さん。

 もちろん冗談だろうけど。


 彼女――月宮詩歌は転入してきて仲良くなったうちの一人だ。

 俺は昔から病んでいる女子を吸い寄せる体質だった。けれど、月宮さんに至ってはまるでその心配をする必要はない。

 文武両道、才色兼備の高嶺の花。誰にでも優しく、穏やかで、気性を荒げているところを一度も見たことがない。

 月宮さん以上にまともな人間はいないだろう。


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