第4話 旅館

 気が付くと、私たちは知らないところにいた。古びた建物の前だ。


 私たちはハーハーと荒い息を吐いた。急いで周囲を見ると、私たちの周りには誰もいなかった。女は消えていた。事故を起こした幸次の車も見えなかった。空を見ると、満月が出ている。さっきは月もない夜だったのに・・


 月明かりの中に、周囲の闇の中を木々が取り囲んでいるのが見えた。ここも山の中のようだ。幸次の声が聞こえた。


 「助かったようだね」


 幸次が私の身体を強く抱いてくれた。私は幸次の腕の中で身体を震わせた。


 「幸次。怖かったよぉ」


 「もう大丈夫だよ。由香が『スタート』を押したんで、怖い体験はもう終了したんだ。で、僕たちはどこかへ移動したようだが・・ここはどこなんだろう?」


 幸次が眼の前の建物を見上げた。古い大きな日本家屋だ。すると、建物の玄関に明かりが灯った。玄関から薄い光が漏れて・・横に看板のようなものが掛けてあるのが見えた。看板には縦に『何々旅館』と書かれている。『何々』のところは字がかすれていて読めなかった。


 「ねえ。ここ旅館じゃない?」


 「そうみたいだな。良かった。車がないから、今夜はここに泊めてもらおう」


 「車はどうするの?」


 「ここから警察に電話するよ。スマホや荷物を車の中に置いてきてしまった」


 「あっ、私もスマホや荷物は全部車の中よ。持って出たのはこの箱だけ」


 私は手の中の黒い箱を見た。ずっと握ったままだったのだ。私はフーと息をつくと、その箱をスカートのポケットに仕舞った。


 すると、玄関の戸に人影が写って、戸がガラガラと開いた。夜の闇の中に明るい光があふれた。光の中に紫の着物を着た中年の女性がいた。整った顔立ちだ。若いときはさぞかし美人だったろうと思われた。女性が私たちに声を掛けた。


 「どちら様ですか?」


 幸次が口を開いた。


 「ここは旅館ですか?」


 「ええ。そうです。私が女将ですが」


 「良かった。今夜、泊めていただけませんか? 実は車が事故を起こして・・」


 幸次が手短かに事情を話した。だが、あの女のことは女将には話さなかった。話しても信じてもらえないと思ったのだろう。


 女将は快く私たちを中に入れてくれた。女将が私たちに言った。


 「お車のことは、私から今夜中に警察に電話しておきましょう。もう遅いから、明日、事故現場に行ってみられたらどうですか? ここは山の中なので、お車の中に荷物を残していても盗られることはありませんよ」


 私たちは女将に任せることにして、お部屋に案内してもらった。十畳ほどある立派な日本間だった。中央に黒檀こくだんの和机が一つと座椅子が二つあって、奥の床の間には鎧武者の掛け軸が掛けてあった。


 「後で係りの者がお布団を敷きに来ますね」


 お茶を出した女将がそう言ってお部屋を出て行った。私たちは座椅子に向き合って座った。幸次がお茶を飲みながら安堵の声を出した。


 「やれやれ、大変な目に合ったね」


 「ホントね。私、あんなに怖かったこと、初めてよ」


 私の身体から一気に緊張が溶けていった。もう安心だ・・


 そこへ、お部屋の外から声が掛かった。


 「お布団を敷きに参りました」


 幸次が「はい、お願いします」と答えると、ドアが開いて、萌黄もえぎ色の着物を着た仲居さんが6人入ってきた。


 私は疑問を感じた。


 6人? 多いわね・・


 先頭の仲居さんが「机を片付けます」と言うので、私たちは座椅子から立ち上がった。仲居さんたちが黒檀こくだんの和机の周りに立った。


 そのときだ。仲居さんが3人ずつに分かれて、私と幸次を取り囲んだ。私の背後に2人の仲居さんが立って、後ろから私を羽交はがめにした。


 えっ・・


 抵抗しようとしたが、腕を背中にねじ上げられて動けなかった。すると、私の前にいた仲居さんが白い布を取り出した。その布を私の鼻と口に強く押し付けた。ツンと鼻につく薬の匂いがした。私は気が遠くなった。

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