第2話 自動車

 それから、私たちはメリーゴーランドに乗ったり、遊園地の中のレストランでお食事をしたりしたのだが・・しかし、怖いことは何も起こらなかった。


 もう夜の9時になっていた。この遊園地は夜11時までやっているが・・9時になると、多くの人が出口に向かって歩いている。私たちも出口に向かった。歩きながら、幸次が私に言った。


 「ほうら、由香。何にも起こらなかっただろう」


 私は幸次の腕に自分の腕をからませながら答えた。


 「本当ね。何も起きなくて良かったわ」


 「僕は逆だよ。何か怖いことが起こるかもって、期待してたのにな」

 

 「もう、幸次ったら。そんな怖いこと言わないでよ。これはお仕置きよ」


 私は幸次の腕を軽くつねった。幸次が大げさな声を立てた。


 「いたたた・・分かった、分かった。もう言わないよ。許してよ、由香」


 私たちは楽しく笑いながら遊園地を出た。今日は幸次の車で来ている。駐車場まで歩いて、いつものように私を助手席に乗せると、幸次が車をスタートさせた。


 スタート?


 私はあの箱のことを思い出した。


 「ねえ幸次。あの箱、まだ持ってるの?」


 幸次が運転しながら答えた。


 「ああ、まだ僕の胸ポケットの中に入っているよ」


 私は幸次の胸ポケットに手を入れて、あの黒い箱を取り出した。車内は暗かったが、『スタート』という文字は読めた。私はその文字を繁々と眺めた。思わず声が出た。


 「怖いって、どんなことだったのかしら?」


 私は何げなく視線を窓の外に移した。T遊園地は郊外の山の中にある。そのため、車は今、遊園地を出て山の中の道路を走っている。今夜は月もない。窓の外は真っ暗な闇が続いていた。


 が・・・車の外の闇の中に・・・何か白いものが見えた。


 えっ? 何?


 私は顔を窓に近づけた。


 真っ暗な闇の中に、白い着物を着た女が浮かび上がっていた。・・そして、その女は長い黒髪をなびかせながら、車と同じ速度で走っていた。着物の裾が割れて、女の白い足がものすごいスピードで回転しているのが見えた。裸足だった。


 えっ?


 私は女を凝視した。車の速度は40キロを超えているだろう。しかし、車の横には、車と同じ速度で白い着物を着た女が走っているのだ。


 そんなバカな・・・


 女の長い黒髪が風になびいて、真っ白な顔に掛かっては外れることを繰り返している。女が走りながら顔をこちらに向けて私を見た。血の気のない顔だった。女がニッと笑った。


 私はこの世のものではないと直感した。


 恐怖に私の体が震えた。私は悲鳴を上げた。


 「キャー」


 その声に幸次も横を見た。幸次の短い悲鳴が飛んだ。


 「うわぁ」


 幸次が慌ててブレーキを踏み込んだ。


 キキキーッと音がして・・車が急停車した。私の身体が大きく前に飛び出して、シートベルトに引っかかった。次の瞬間、身体がシートベルトで座席に押し戻された。幸い私たちの車の前後に他の車はいなかったようだ。


 私が恐る恐る横を見ると・・女の姿はなかった。窓の外は真っ暗な闇だ。


 幸次も窓の外を見つめていた。私たちは安堵の息を吐いた。私の口から思わず声が出た。


 「あ、あれは・・何だったの?」


 幸次の乾いた声が聞こえた。


 「お、女がいたよね?」


 「ええ。間違いないわ」


 そのとき、車の天井でドンと大きな音がして、車が揺れた。私の口から声にならない悲鳴が飛んだ。


 「ヒッ」


 何かがフロントガラスに覆いかぶさった。女だ。白い着物を着た女が、天井から逆向きにフロントガラスに覆いかぶさっていた。女の長い髪が逆さになって、フロントガラスの下に垂れ下がっていた。逆さの女が眼を見開いて私たちを見ている。口が開いた。真っ赤な舌が見えた。その舌が伸びて・・フロントガラスを舐め始めた。女の舌からよだれが滴って、フロントガラスに何本も筋を作った。女が逆さの状態でこぶしを振り上げた。こぶしでフロントガラスを叩いた。ドンと音がして・・フロントガラスにクモの巣のような白いヒビが入った。女がニヤリと笑った。

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