「スタート」を押すな!

永嶋良一

第1話 遊園地

 お化け屋敷を出ると眼の前に時計台があった。午後7時を指している。私の横に立っている幸次が笑いだした。


 「あれがお化け屋敷だって? 全然怖くなかったよ。あんなの子どもだましじゃないか」


 私はふくれっ面を見せた。


 「でも、私は怖かったよ。ほら、あの古井戸のそばに行ったら・・井戸の中から女の人が急に飛び出したじゃない。私、思わず悲鳴を上げちゃった」


 幸次が優しく私の肩に手を回した。


 「ああ、そうだったな。でも、僕はあのとき、由香が上げた悲鳴の方が怖かったよ」


 「でも幸次が私を抱いて、女の人から遠ざけてくれたよね。私、うれしかったよ」


 私は幸次の胸に頬をくっつけた。そのまま二人で夜の遊園地の人込みの中を歩いた。歩きながら、幸次が私の顎に手を当てて・・私の顔を上に向けた。幸次と眼があった。私は幸次の眼を見つめた。


 私の顎の下の幸次の手に力が入った。幸次の顔が近づいてきて・・私たちは唇を合わせた。


 私と幸次はS大の大学生。同じ三年生だ。でも学部は違う。私は文学部で、幸次は経済学部だ。私たちは一年の時にダンス同好会で知り合って、それ以来、お付き合いをするようになった。


 今日はこうして大学が終わった後で、夜のT遊園地に出かけてデートをしているのだ。年明けで遊園地は閑散としていると思ったのだが、どうして、どうして結構な人出だった。


 私たちが唇を放して、横を見ると・・親子連れの男の子が、私たちを見て目を白黒させていた。小学生ぐらいの男の子だ。


 小さな子にはちょっと刺激が強かったかな・・


 私は心の中でペロリと舌を出した。幸次も照れ臭そうに笑った。


 そのとき、前方の人込みを分けながら、ピエロがこちらにやってくるのが見えた。黄色の地に赤や青の水玉模様が付いたパジャマのような派手な服を着ている。顔にはたっぷりと化粧を施し、鼻の頭には赤いたまを付けていた。テレビでよく見るピエロの恰好だ。


 ピエロが私たちの前で立ち止まった。ポケットから小さな平べったい箱のようなものを取り出して、幸次に差し出した。ピエロがくぐもった声を出した。男の声だった。若いか年配かは判断がつかなかった。


 「これをどうぞ」


 幸次が思わず手を出して、その箱を受け取った。幸次の口から面食らったような声が出た。


 「はぁ?」


 ピエロが幸次を見た。口の端にかすかに笑みを浮かべている。


 「あなた、さっき、お化け屋敷がつまらなかったって言ってたでしょ」


 「・・・」


 「そのお詫びに・・これは怖い体験ができる装置なんです」


 幸次が上ずった声を出した。


 「こ、怖い体験ですか?」


 そのとき、近くのメリーゴーランドで音楽が鳴って、明かりが点滅を始めた。点滅と共にメリーゴーランドが回転しだした。ピエロと私たちは、その光の点滅に覆われた。私は幸次の手元を覗き込んだ。光の点滅の中に黒いスマホのような装置が見え隠れしていた。


 その装置の表面には『スタート』と書かれた大きなボタンがあった。それ以外には何もついていない。


 ピエロの声がした。


 「この『スタート』というボタンを押すと、怖い体験が始まります。・・で、その恐怖に耐えられなくなったら、もう一度この『スタート』を押してください。すると『終了』か『継続』か、この機械が自動的に選択をします。『終了』が選択されると怖い体験はそこで終了します。でも『継続』が選択されると、さらに怖い体験に突入します。『終了』と『継続』はそれぞれ1/2の確率になります。・・そうして『終了』が選択されるまで怖い体験は続きます」


 そう言うと、ピエロは私たちに背を向けて、人込みの中に消えてしまった。


 まるで夢でも見ていたかのような、あっという間の出来事だった。


 でも夢ではなかった。幸次の手の中には黒い箱が握られている。


 「なぁに、今の人? 何だか気味が悪いわ」


 「これ、きっと遊園地のサービスなんだよ」


 幸次が黒い箱を見ながら明るく言った。幸次の顔をメリーゴーランドの点滅が照らしている。


 サービス? でも、こんなサービスなんて聞いたことがないわ。


 私は首を振った。


 「あの人、『スタート』というボタンを押すと怖い体験が始まるって言ってたわね。そんなの嫌よ。ねえ、その箱、捨ててよ」


 幸次が私の顔を覗き込んだ。点滅する光の中で、眼がいたずらっぽく光っているのが分かった。


 「僕はまた由香の怖がる顔が見たいな。大丈夫だよ。僕がついているから、何があっても由香を守ってあげるよ」


 そう言うと、私が止める間もなく・・幸次は『スタート』を押した。


 

 


 

 


 

 

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