3.耀桂園

帝都では、人獣の群れによる治安の壊乱が、住民の日常に被害を及ぼしているこの連続事件について、伍號事案という名称の下で秘密裏に捜査に着手していた。

警察による都下各所での巡回強化、目撃証言に基づく半人狼の行方の追跡。そればかりではなく狼憑の血筋との調査結果が出ている耀桂園所有の伏ヶ原一族の身辺を送り込んだ諜報要員に朝晩間断なく張らせてすらいた。

帝国陸軍参謀本部直属調査隊、特任隊員、暗号名白桜。耀桂園の書店に、警察官と組んで潜入し、失業中の息子の妻と身分を偽って保宅に近づいた女間諜である。


いつにない連日の呼び出しに理由を問う間もなく、幾彌は見張りの者たちによって匡守の執政の間に連れ出されていた。

本家と分家の主だった者が一堂に会する一族会議の開催。

匡守の明かした本家当主からの書状の内容は幾彌を驚かせるに充分なものだった。

照ル藤季満の取り立てにより分家出身の匡守が都下有数の名士という異例の出世を遂げてから、それに憤懣やる方ない本家とは同族とはいえ不仲である。

兄である匡守は、本家当主から届いた申し出を、己の地位と耀桂園の利益をねらった脅しと感じてひどくまごついていた。

匡守はあたかもこの事態が幾彌のせいででもあるかのように詰った。あのできごとのせいでいまだに本家の恨みが消えないのだ。

地下牢暮らしの原因となった人狼幾彌の一族殺しのことである。どうするのだ、と匡守は幾彌に判断を迫った。

元はといえば本家とお前との軋轢に端を発する問題なのだから、自分の政務に少しも影響の出ぬよう事を収めてくれねば困る。だいぶ威圧的にこう言い放った。

狼の霊力を使わないまでも、幾彌は兄が何か重要なことを隠したままで自分にすべての厄介事を押し付けたがっているのを察した。人獣事件で一族に悪い評判が立つ前に自分を——凶暴な人狼である自分を消し去りたいという腹か。

しかしもっとも重要なのは、兄の名声を傷付けずに本家に要求を取り下げさせることだ。だとすれば、元より家の邪魔者に過ぎない自分がすべてを背負うことにするのが———……


日差しに暖められた大気へと一つ、また一つ。

しゃぼんは幾彌の手中の不思議な機械から湧き立ち浮かびあがっては、空中でかそけく砕け散ってゆく。

石畳の広場から見わたす並木の舗道の先に、耀桂園名物の遊覧船乗り場の桟橋が伸びて静かに午後の日に照らされていた。

背後で若い娘の歓声がしたのが聞こえても、遊びに来た恋人どうしが戯れあっているのだろうと振り向きもしなかったが、大道芸人さんもういちどと言われて、どうやらさっきまでの姿を見られてしまったのに気づいた。

振袖に肩掛けの装いでめかしこんだ年若い女が石畳の上に立っていた。

ぼくは、と言いかけて、すぐ自己紹介などという途方もないことに挑むのをやめた。タダノ此ノ近所ノ者デス。

返事はあぁ、という一人合点の声だった。小間物屋の保宅さんってもしかしてあなたの甥御さんかしら。言い当てられてうなずくしかなかった。相手はすっかり幾彌を伏ヶ原家の病人と思い込んでこちらの体調を気遣った。

幾彌と女は並んで歩道を歩いた。玩具を袂にしまった幾彌は懐手の格好だ。

まだいちどもあれには乗ったことがない、と手漕ぎボートを見て言う女に、ずいぶんたくさんの水鳥がいますよ、とわざわざいらない案内をしてやった。

入場列で混み合う乗船場付近が見える場所に来てから、借りてみますかと尋ねると女は考え込むそぶりになった。でも、お体にさわるとよくないわ、と返事があった。

幾彌は笑って、お近くでしたらいつでもお気軽に、と答えた。

息を切らした保宅が幾彌を呼びながら並木のほうから駆けよってきた。書店の奥さん、と女に気付いて叔父の出歩きの見守りに礼を述べる。それでようやく星座の本をすすめた書店のご新造がその人だとわかった。

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