2.狼憑
東京市西北部、農地がなだらかに続く静かな町。
夜空に瞬く銀の星を曙光がたちまちかき消してしまう時刻に至るまであともう少し、という時分。
畑仕事に使う荷車を出そうと納屋を開けた少年は、表の薪が散らばる物音を耳にして走り出た。人影を見て父かと声をかけるが、獣じみた唸り声と体躯に、違うと目を瞠る。
そのときにはすでに遅かった。振りかざされる爪、かぼそい悲鳴。
立て続けに帝都の住民が凶暴な半獣人間との遭遇によって殺された事件は、たちまち帝都中に広まり、ここ何か月かの間、新聞も雑誌もこぞって興奮ぎみに現場の惨たらしい様を書き立てていた。
泥棒強盗放火に殺人と何が起きてもおかしくはない状況の帝都であり、巷間を騒がせる事件にいちいち目を留める匡守ではなかったが、獣面人に狼男の関与が市内でしきりに取沙汰されるに至って看過もできなくなった。
地下牢の幾彌のしわざではとすら、思っているふしのある父親の話を聞いても、保宅はまさかと言って信じなかった。保宅の目に映る叔父は親切心に充ちた考え深い性質の人である。たとえ叔父の肉体の半分に潜む狼が暴れ出したのだとしても、それは錠のかかった鉄格子と狼の霊力を抑える何重もの護符が止めるはずだった。
幾彌に事件について聞かせることはとてもできなかった。自分の潔白が主張できても、狼男の凶行と聞けば気に病む叔父である。
仄白く透きとおった球体は、どれを目で追っても何かにぶつかるやすぐに弾けて壊れた。
まだ狼憑としての能力を発現していなかったころ、この屋敷の庭先で生まれて初めてしゃぼん玉で遊んだ日の光景が、幾彌の記憶に残っていた。少女のようなあどけなさが面ざしに残る乳母が幼い幾彌に吹き方を見せてくれたのだ。
伏ヶ原邸の下働きをしていた東北生まれの乳母は、子守のしかたのほかは何も知らない田舎娘であり、狼憑の幾彌を特別視せずにかわいがってくれたものだった。
壁にもたれて座る幾彌の手にする玩具。
把っ手の引き金を押すたび一定の間隔で回る金属環から次々としゃぼん玉が噴き出るそれは街の店には売っていないものである。檻で暮らす合い間に祭具と文房具を分解して組み立てた。しゃぼん玉を見詰める幾彌の表情は沈んでいた。
呼び出された邸で兄を待つ間に廊下に出ていたら洩れ聞こえたラジオの内容を耳にしてしまった。
このところ帝都の住民が怖れる正体不明の半獣の凶行。
ぼくは違う、と即座に否定したものの、自分では抑えきれない獣の部分が知らないうちに残忍な行為を繰り返しているのでは、という黒い染みのようなちっぽけな嫌な気分が拭えなかった。何より人狼の引き起こした事件と聞けば、この館では自分を思い出さない者はいないだろう。
どうしてもこの足枷から放たれる日は来ないというのか———……
伏ヶ原匡守は不機嫌な顔つきで机上の書状を読み返した。私立学校の学長として任にあるはずの本家当主から届いた、急な一族会議の開催を告げる報せ。
書状には、耀桂園の土地と建物を学園に無償にて使用させよ、妙な宗教を以て兄に取り入る幾彌の身柄をこちらに引きわたせ、などという本家が言い出したにしては強引すぎる要求が並べられていた。
何者かが本家を通じてしきりに匡守の権力をねらった威嚇をしてきているようだ。この時期弟を欲しがる点からすれば、人獣事件に関与する者が被験体として幾彌の身を差し出させたがっているのでは、と匡守は踏んだ。
会議出席の返事を出す一方、匡守は部下に本家当主の最近の行動を調べさせた。その矢先、邸宅の召使が覆面の男に暴行される目に遭い、匡守への言伝てを知らせてきた。
「貴様の家にイヌがいるのはわかっている」
伏ヶ原匡守は俄然焦った。
わが一族の狼憑の力に偽物だなどという評判が立ってはならない。
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