伏ヶ原家の狼憑

水主どどめ

1. 伏ヶ原家

伏ヶ原家はもと街道沿いの宿駅で綿と生糸を商っていたが、明治の御一新を経て後、輸入した皮革を原料に鞄と靴を製造する事業を興して財を為した。大正の代には議員を輩出するなど名家の地位を確立したが、中でも伏ヶ原商会三代目社長伏ヶ原匡守は、才気に富み大いに事業の成功を収めた。帝都城北に買い入れた広大な土地で、匡守は豪壮な邸宅と庭園を築いたが、大震災の翌年に土地の住民にその大半を開放した。

この帝都随一の景勝と行楽の地を名づけて耀桂園という。


帝都の発展におおくの策謀を凝らし、財閥所有地の地価上昇に大いなる貢献を為したことで伏ヶ原匡守は照ル藤財閥出身の実業家で、百貨店王として知られた照ル藤季満の信任が篤かった。しかし、そんな匡守の進言に弟の修行者が陰ながら知恵を貸していることを知る者は少ない。


ゆらゆらと地下室の格子の影を揺らして洋燈の光が近づいてきた。

修行者の住まう座敷は伏ヶ原家の邸宅の地下にあって、頑丈な檻と何重もの護符によって厳重に封印を施してあった。

狼憑の一族の血を祖先からもっとも濃く引いたという伏ヶ原幾彌は、いまでも大神降ろしの業を行える伏ヶ原家で数少ない人間であり、狼の霊力で予知や念話を行なった。

幾彌が体内に降ろした大神を意思の力で抑えきれるようになるまでは永年の年月がかかっている。少年のころ、伏ヶ原一族の諍いのさなか狼憑になり、訪問中の本家で敵味方かまわず凶暴に襲いかかり惨劇を引き起こしたことがある。それ以来長きにわたりこの地下室に押し込められて暮らしている。

十年前、匡守が耀桂園を開業した翌年、幾彌は神霊道なる大神崇拝の流派を立ち上げ、祭司を名乗った。とはいえ幾彌の霊力の実際を知る者は少なく、世間の目からは神経衰弱ゆえの監禁程度にしか映っていないのだった。


幾彌はいつものように檻の中の椅子でじっとしていたが、錠前を外す気配に扉のほうへ顔を上げた。そこにいたのは匡守の息子保宅。今年春に高校を卒業したばかりである。

父の跡継ぎとしてよい条件の就職を望める立場にありながら、幼いころから体が弱く、めざしていた帝大受験も見送らざるを得なかったことで、保宅ははやばやと町内の小間物屋の奉公に追いやられていた。だが、この温和な気性の甥は、幾彌が言葉を交わすことのできるわずかな者の一人であり、保宅が時折運んでくる伝聞や風説、書物や果物が地下暮らしの唯一の楽しみになっていた。


幾彌がこの日差し入れられた星座の伝説についての書物を座って繰るあいだ、甥っ子は奉公先の隣の書店の老店主の元に失業中の息子が妻女を伴って帰ってきたこと、さっそく店番をしている嫁が美人で街の評判になっていること、などを話して聞かせた。

どうやら保宅がただの差し入れにしては分厚い書物を持ってきたのも、その店番のすすめが断りきれなかったせいであるらしい。


そんな書店の店先でのささいなやりとりでさえ幾彌には遠い世界のできごとだった。大震災の翌年に開園した耀桂園に、匡守は映画館や料亭、公衆浴場やつつじ園、運動場や遊覧船乗り場を作らせて、常にたくさんの客で賑わせていた。ここを訪れることは帝都の臣民にとって格好の羽伸ばしになっていたが、この娯楽の場をこぞって無遠慮に踏み荒らしはしても、その真下で地下の囚われ人が園の人気の陰になっていようとは思ってもみなかった。


挿絵に描かれた神話の英雄を見て、思いついた星座の名を挙げると幾彌は足枷の鎖を引いて壁際の机のほうへ歩いていった。

——幾彌のようすをよく見ておけ。父である匡守の昨日の言葉を思い出す。父親の執政室には帝都近辺を騒がせている事件を伝える報告書が積まれていた。住民が突然襲われる事件があいついでおり、目撃談から獣面男出没の噂が広まっているのだという。

保宅は叔父の横顔をそっと盗み見たが、椅子に腰かけ手にした星座盤を眺める幾彌にふだんと違った点はなかった。


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