第23話 温泉イベントは唐突に
どぷ、ざざあーっ。
熱い湯にじっくりと肩まで浸かってゆくと、古びた檜の上をたくさんの湯が流れ落ちていった。
もうもうと湯気を上げるそれが、凍てつくような冬の寒気さえ押し戻してくれるものだから、さっきまで雪遊びしていた俺にとってはまさに至福の瞬間だ。思わず「ふぅーっ」とため息が漏れてしまう。続けて「たまらん」と湯気の溜まる天井に向けて漏らした。
室内に用意されたこの風呂湯には、こんこんと湧き出る天然の温泉がいつもある。そのぶん掃除などの手間はかかるけど、この瞬間を味わうためならば多少はがんばれるというものだ。
あくまで庶民的な娯楽であったそれは、イヅノが素足でぺたぺたと入室してきたことで大きく変わった気がした。
格子状に組まれた窓から差し込む日によって、褐色の肌が明るく照らされる。タオルを手にしているが女性的な曲線を隠すそぶりはまるでなく、ツンと上向きのそれには若々しさと瑞々しさというイヅノの魅力が詰まっていた。
髪結いのためのゴム紐を咥えた唇で、ニッと笑いかけてくる。俺という異性の目を受けてもやはり彼女は肌を隠すことなく、すぐ隣の縁に腰掛けて、それからゆっくりとつま先から湯に浸からせていった。
熱っ、と彼女は呻く。さっきまで雪遊びしていたこともあり、身体の芯まで冷えていることだろう。
肌がジンジンしているのか、熱いと幾度か呻きつつもゴム紐で長い黒髪を結わいてゆく。脇の下を陽に照らしながらあどけなく笑いかけてくるその様は、以前にはない無防備さが感じられた。
精巧な人形のように整ったふたえの瞳は、不意に細められてゆく。そして、じっくりと肩まで湯に浸かってゆくときには「あああ゛~~っ!」という嬉しい悲鳴を上げることになった。
「熱ッ、熱ッ、んんんん゛ぅーーっ!」
他のお客さんがいたら迷惑だったろうけど、今日ばかりはというか、ここのところずっと俺の貸し切りだ。それは避難区域に指定されたせいなのだが、お礼もかねて利用する日はこうしてきちんと掃除している。
温泉風呂は室内にあり、そこの小さな窓からたっぷりの蒸気が流れ出てゆく。差し込む陽で、格子状の模様が宙に描かれていた。
う゛~~っと唸りつつ彼女は手足を伸ばしてゆく。湯に半ばまで乳房を沈めて、ようやく熱に慣れてきたらしく湯気立つような息をほうと吐いていた。
「ああッ、いいですね! この酸っぱい匂いは少しばかり気になりますが、熱くて肌に染みる私好みの湯です」
首から下は大人顔負けの色気があるというのに、その表情はまるっきりの子供だ。にぱっという擬音があってもおかしくない。その無防備さにむずむずとするものは男としてあるが、どうにか冷静でいようと己自身に訴えた。
「イヅノは熱いのが好きだよな。俺はもうちょいぬるいのがいい。んで、ぼけっと過ごしたい」
「あら、あなたは少し冷え性のようですし、なるべく温かいものを身体に入れたほうがいいと思いますよ。冷たいビールよりも白湯やお茶を勧めます」
ざぼりと湯を鳴らして、彼女はもう少しこちらに近寄りながらそう言う。
髪を上にまとめているものだから、普段よりもほっそりとした首筋が協調されている。そして当たり前のように、バスタオルで身体を隠すそぶりさえないのは実に彼女らしいと思えた。
「普通は逆じゃない? 女性のほうが冷え性になりやすいと思うけど」
「? 私より冷たいのは確かですね。手をにぎるといつもひんやりしていますし」
そう言い、彼女はにごり湯のなかで手をぎゅっと握ってきた。ほっそりとした女性的な指だし、彼女の肩まで触れてくるから気が気じゃないな。その、胸がめっちゃ近いという意味で。
「ああ、そう言われてみるとイヅノのほうが温かいかも」
そう口にすると、イヅノは目を線にさせてにこりと笑いかけてきた。
彼女はどこか子供っぽい。16歳という年齢のせいで、まだまだ遊び足りないのかもしれない。知らないあいだに手をつないできたり、ときどき俺の布団にもぐりこんできたりするから困ってしまう。
目をつぶり、じっとするイヅノは湯を楽しんでいるようだ。
あちこち腐っていたり、虫までいたりする温泉地だけど彼女はまったく気にしない。ある意味で野性味があるというか、一緒に過ごしやすい相手だなと思うよ。
のぼせかけたのか、イヅノはざぼりと湯から立ち上がる。そしてたくさんの湯を裸体に流しながら温泉の縁に腰掛けた。
逆光のなか、もうもうと湯気をあげるイヅノの裸体は健康美に満ち溢れていて、俺はなんだかとても綺麗なものを見ているような気分だったよ。
「このあいだ、人里に出たときはびっくりしました」
「え? ああ、買い出しのときか」
「はい。あまりにもたくさんの人や物があって、理解がぜんぜん追いつかなかったんです」
「まあな。それが普通だろうし、気にしなくていいと思うぞ」
ふう、とイヅノは熱っぽい息を吐く。呼気に押された湯気がゆらめいて、窓からの陽に照らされた。
「でも、そこで私は落ち着くことができました。たくさん人がいても、誠一郎さんがちゃんとそばにいてくれるって気づいたからですよ」
おう、背中がむずがゆい。
人前でも気にせずイヅノの手を握ったけどさ、あれは大して気遣ったわけじゃないんだぞ。放っておけないでしょ、普通に考えてさ。
そう思い、黙っていると、狭い浴室に彼女の含み笑いがクスリと響く。
「そういうところ、ちゃんと気づくようになりましたよ」
「え、どういうところ?」
「すごく優しいことをです」
とんでもなく綺麗な笑みが視界いっぱいに広がる。いつの間にか彼女の手は俺の肩に乗せられていて、あっと思ったときにはもう瑞々しい果実のような唇が押し当てられていた。
「ほら、私のほうがちょっとだけ温かい」
そんな笑顔を見せられて、俺はのぼせそうだった。
分かっていはいたが彼女は魅力的で、見えない引力があるように目が吸い寄せられてしまうのだ。
横座りに腰かけてきて、肩に腕を乗せてきたときもそうだ。俺はぜんぜん目を逸らすことができない。にっこりと細められたこいつの目元がとても綺麗なんだ。
そしてイヅノは小窓に目をやり、もうもうとした湯気の向こうにある雪景色を眺めた。
「私、初めて冬が好きになりました」
「俺も好きだよ、ずっと前からだけどさ」
またクスクス笑われてしまったが、機嫌が良さそうなので水は差さないでおいた。
まったくもう。このあとは風呂掃除するから、ぶーぶー文句を言わないようにね! あと、純情な俺をからかって遊ばないこと! 分かりましたね?
そんな俺の気持ちなどまったく分かっていないらしく、イヅノは「楽しい!」とでも考えていそうだった。
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