第14話 オーク族の本能

 さて、と。どうしたもんかな。

 あれから無事に下山を済ませて、イヅノを布団に寝かせてやったまではいい。問題は、たらたらと流れ続ける汗の量、そして燃えるような高い体温であることだ。


 とめどなく流れる汗をタオルでぬぐってやるうちに、俺はだんだん心配になってきた。もしも容体が悪化したとしても、この辺りに病院などないし、そもそもオーク族を診てくれる医者などいない。車を町まで飛ばしても数時間はかかるだろう。


「大丈夫か、イヅノ……」


 俺の声が聞こえたのだろうか。ゆっくりとまぶたが開かれてゆき、彼女の赤い瞳に見つめられる。まだ焦点は定まっていないが、イヅノの唇が静かに動いた。


「あなた、大丈夫ですよ。これは病気ではなく、オーク族の持つ習性のようなものです。強敵に打ち勝つと、どうしようもないほど血が滾ってしまうのです。残念ながら私は鎮める術を知りません」


 ぶつぶつとうわごとのように彼女は言う。閉じられたまぶたが再び開かれると、その目にはどこか野性味を感じさせる光が灯った。


 がしりと唐突に掴まれる。燃えるように熱い腕だと思っているうち、俺は力任せに引き倒された。


 ふーっ、ふーっ、ふーっ。


 頭上から彼女の息づかいが聞こえる。湿度が高く、女の匂いがする息だ。


「甘い匂いがしますね。いつも思いますが、あなたの匂いはずっと嗅いでいたくなるほどいい匂い……ああ、違います。そんなことを言うつもりはなかったのです」


 首筋に触れてきた彼女の鼻から、幾たびも嗅がれるのを感じた。

 火がついたように熱い身体を押し当てられているせいで、俺まで汗だくになりそうだ。しかしその汗でさえ彼女の激情を誘うらしく、荒々しい息づかいはさらに早まる。


「……すみません。まるで落ち着くことができません。少しのあいだだけ、私の好きなようにします」


 そう言う彼女の頬は紅潮しており、グッとやや乱暴に体重を預けてくる。そうして俺が動けなくなってから、やや動物的だと思える口づけをされた。頬をがっちり掴まれるという、まるでロマンチックではない口づけだ。


 ああ、あの日のようだなと俺は思う。

 彼女と初めて出会い、荒々しい原生的だと思える洞窟で過ごした時間を思い出すのだ。かがり火がゴウゴウと燃えており、野性味のある音楽が奏でられていたように思う。


 あのときと同じように俺は手を伸ばして、彼女のくびれた腰を抱き寄せる。ただそれだけで密着したままの唇から「ウッ」といううめき声が響いて、彼女の全身はわなわなと震えた。


 5分、10分、いやもっと長い。気を失いそうなほど長い時間の口づけとなり、すでに俺の身体は彼女からしたたり落ちる汗でぐっしょりと濡れていた。


 イヅノは人間ではない。それは分かっていたが、普段の彼女は人よりも上品で愛らしかった。

 だから忘れていたのだろう。あまりにも常人とかけはなれた彼女の野生を肌で感じてしまい、唐突に離れた唇と、それを赤い舌でぬぐう様子には軽く気圧される。


 息さえ届くほどすぐ近くにあるイヅノの顔は満たされていた。

 そして同時に俺は気づく。湧きあがる闘争心と殺戮本能を、彼女はどうにか荒々しい方法で鎮めていたのだということに。


 ふう、と彼女は熱っぽい息を吐く。先ほどよりもずっと落ち着いている様子を見て、俺は話しかけることにした。


「もう大丈夫そうか?」

「ええ、落ち着きました。あなたのおかげで身体の熱が一気に失せてゆくのを感じま……クシッ!」


 あ、あ、ごめんなさいと謝りながら彼女は指先で俺の顔についた液体をぬぐってくる。しかし冷えてゆく体温だとままならず、クシッ、クシッと彼女のくしゃみは尚も続いた。




 ばしゃーっと熱い湯が流れ落ちてゆく。いつものように真っ暗であり、月明かりだけが照らす入浴タイムだ。


 先ほどたくさん汗を流したので、タオルで拭くのは諦めて入浴することにしたわけだ。もう夜中だけどさ。

 そのような状況のせいか、向かい合う形で湯船につかるイヅノは、めずらしく恥ずかしそうにしていた。


「はあ、落ち着くことができて良かったです。あのまま続いたらどうしようかと思いましたし、少しだけ怖かったです」

「無事で良かったよ。もしかしたらエッチなことでもしてくれるのかなって期待したけど」


 あまりにダイレクトなことを口にしたせいか、彼女は悲鳴を上げるような表情となり、ばしゃりと湯船から出てきた素足でほっぺを踏みつけられた。


「……なんで踏むの?」

「知りません。オーク族の野蛮な血のせいではありませんか? ああ、いけません。もっとあなたを踏みたい気持ちが沸き上がってきました。えいえい」


 撫でられるくらいの力で踏まれてもさ、あんまり悲しいとは思わないかなぁ。変な趣味を持ったおっさんとかなら大喜びしそうだけど。そう思い、ふっと俺は笑みを浮かべた。


「何がおかしいのですか」

「いや、前よりもイヅノから遠慮されなくなったのが嬉しいだけ。それよりもオーク族の本能について教えてくれるか? 俺は人間だし、夫婦めおとなんだからちゃんと理解しておいたほうがいい」


 そう言うと彼女は目を丸くさせて「夫婦」とつぶやいたあと、ほんのりと頬を赤くした。


「お、オーク族は粗野で原始的です。本能的に勝利と略奪を求めるところがあって、私の意志だけではどうしようもありません。そして日常に戻るときは、先ほどのようなクールダウンが必要になります」


 話しているうちにイヅノは落ち着いたのか、逸らされていた瞳をまっすぐ俺に向けてくる。


「最初の日、あなたに警告しようと思ったのはそれです」

「最初? ああ、そういえば俺に忠告がどうとか言いかけていたな」

「ええ、それです。狂暴であり、本能に突き動かされてしまうことを決して忘れないでください」


 真剣な彼女の表情に「ふむ」と俺はうなずく。

 イヅノにとっては深刻なことだろうし、ここで俺が笑い飛ばしてはいけない。なるべく正面から受け止めてあげるべきだ。


「分かった。気をつけるよ。ただ、どんなことがあっても俺が助けるから、その点は安心していいと思うかな」

「……そ、そういうことを普通に言うから、あなたは困るのです」

「ん、なにか言ったか?」


 ぶくぶくと鼻まで湯船に沈んでしまうイヅノは、なんでもありませんと言うように首を横に振っていた。

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