第10話 イヅノと過ごす夜
がさごそ、がさっ。
冷凍庫からビニール袋を取り出して、すっかり霜の張ったものをパンパンと叩く。マジックで書かれた数字は、こいつを狩猟した日付を表している。もちろん魔物の肉なんかじゃないぞ。
「ん、大丈夫そうだ。イヅノ、苦手な肉はあるか?」
「さあ、試さないとどうにも。ちなみにそれは何という動物の肉です?」
これはねぇ、淡白さで有名な鹿肉だよ。
家には普通の冷蔵庫もあるけれど、大量に長期保存しなければいけないものは、この天面をがぱっと開く大型の冷凍庫を使っている。でないと一頭仕留めただけですぐパンパンになっちゃう。俺みたいに猟をする奴にとってはぜひとも欲しい品だがその半面、なかなか消化できずに余らせてしまうこともある。
「じゃあステーキでも焼くか。ちなみにイヅノちゃんはお酒が飲める?」
「果実酒ならたしなむ程度に」
「ふーん、ならワインでいいか。ちょうどいいのがストックしてあるし」
専用のラックには数本の瓶が置かれている。もちろん夜を楽しく過ごすためのアイテムだけど、こういう料理にも欠かせない。だいぶ僻地だし、買い足すのも難しいからあんまり飲まないけどさ。
ちなみにこのやりとりは朝にしたもので、カチカチのお肉を解凍するための時間を置き、俺たちは再びキッチンに戻ってきた。
俺の料理はかなり適当で、その場にあるものを思いつきで使うし、調味料も「なんとなく」という塩梅だったりする。今夜も適当でいいかと考えつつ、余っていたじゃが芋とほうれん草、そしてバターなどを手にする。
ちらりと見た窓の向こうは真っ暗だ。
田舎の夜はすごく暗いし、このあたりは住民がそもそも少ない。無駄に電気を浪費するのもいただけないから、このままの暗さで別に構わないと思っている。どうせコンビニに行くこともないのだ。
ただし、電気ガス水道については、引き続き整備し続けて欲しい。そして俺の願い通り、これからずっと先までインフラを整え続けてくれると思う。なぜなら俺たち狩猟者が去ってしまうと大いに困る者がいるからだ。まあ、引っ越すつもりはないけどさ。爺さんの山からは離れられんよ。
んで、適当にソテーしたあと、カンカンに焼いたフライパンに鹿肉を載せる。とたんにジャーッとけたたましい音がして、辺りに美味そうな香りが漂い始めた。
「んーっ、いい匂いですね」
「にんにくをローストした油だからな。好み次第だけど、今日はパンぐらいがちょうどいいと思うぞ」
ややだらしない表情を浮かべるイヅノは、すでに入浴を済ませたあとだ。
ああ、昨夜に引き続き、なぜか今夜の風呂も一緒に入ったぞ。脱衣所の電気だけを点けて、見えないようになるべく暗くしたけどな。
いや、まあ、実は夜目が効くし、わりと見えている……ことは黙っておこう。やはりデリカシーは守るべきだろうし、秘密は俺の胸にそっとしまっておくべきだ。でないと今度からは別々の入浴にさせられちゃう。
どうしても料理が気になるらしく、すぐ隣からイヅノが覗き込んでくる。
顔立ちは知性の高いお嬢様という風に見えるが、それはあくまで「顔で得している」っていうだけで、内面はややアホ寄りだ。実際に、すうはあと何度も深呼吸しているし、鼻もぴくぴく動いている。
「あのさ、向こうで待ってたら?」
「分かりませんか、あなた。私はきちんと料理されたものを食べたくて待ちきれないのです。心の底から」
ね? 言動がアホでしょ? でっかい胸に手を当てる仕草はお嬢様という感じなのにね。
お風呂上がりのせいか褐色の肌はだいぶ血色が良くて、腰まである長い黒髪にも光沢がある。手触りが良さそうだし、心ここにあらずという感じで料理に集中しきっている。隙だらけのせいか、ついつい手を伸ばしたくなるのだが、ぐっとこらえる立派な俺。
どうしました? と言いたげにくりんとした瞳で見つめてくるイヅノは、たぶん己の魅力に気づいていない。たとえパジャマで全身を覆っていても、内側にある健康的な肉体美がにじみ出ていることに。
あと、なんか知らんけど距離が近い。パジャマのボタンが飛びそうなほど発育した胸がマジで近くって、ちょっと俺が動いただけで当たりかねない。
いや、いいんじゃないか? ちょっとくらい当たっても「悪い」と言えば済むんじゃないか?
うまいこと料理に集中しているフリをして、このけしからん胸にタッチしても平気なのではなかろうか。そうだそうだ。単なる事故なのだから怒られはしまい……なんてアホなことを考えるほど気になっちゃうな、このでっかい胸が。
いかんいかん、料理に集中しよう。でないと鹿さんが泣いちゃう。
「よっ」
大した意味はないけど、ちょっとだけ香りをつけるためにアルコール度数が高めのワインを振りかける。ぼおおッと火がついた様子に驚いたらしく、イヅノは軽い悲鳴を上げつつ俺の背に抱きついてきた。
うおお、めっちゃ当たってる、めっちゃ当たってる。背中にドのつく質量がブチかまされた。
くっそ、生きていて良かったなあああ。なぜか幼少期から大人になるまでの日々が脳裏を巡ったが、これは違うで、工藤。走馬灯や。
「うし、こんなもんか。皿を持ってきてくれ」
振り向いてそう伝えると、彼女は「やった」と言い、視界いっぱいに愛らしい笑みを浮かべてくる。
これの破壊力がまた冗談かよって思うくらい凄まじくってさ、普段は黒髪美女というクールさを漂わせているくせに、たるんだ表情もすごくいいなって思っちゃう。はー、結婚したい。
ちなみに本日のメニューは、鹿肉のステーキである。
注意が必要なのは、普通の肉に比べて硬くなりやすいことだろう。初めて料理した人は、そのあまりの歯ごたえにびっくりして咀嚼をやめてしまうこともままある。
そのため切れ込みを入れたり、バンバンと肉を叩いたりしたあと、酒とかバジルみたいな香辛料と揉み合わせて、しばし寝かせる必要があるんだなぁ、これが。
とにかくスーパーで売られている肉とはぜんぜん違うんだ。調理のしやすさという意味で。
あとは焼きすぎないように気をつけることと、気分によってソースを変えること。鷹の爪を入れてもいい。でないと飽きちゃうんだ。割と淡泊な味だしさ。
そのため、今夜はわさび醤油をチョイスした。カリッとした歯ごたえのにんにくも良いアクセントになるだろう。
さて、気になるお味は……。
野蛮なオークらしからぬナイフさばきで器用に切り分けるや、ぱくんとイヅノの口に放り込まれる。もっぐもっぐと咀嚼するたびに、イヅノの顔つきはたるんでいった。
「ン~……♡ いい獣肉の味がちゃんと出ています。火を使うという人間独自の調理法はたまりませんね。ああ、バナナの皮に包んで蒸したのを思い出しちゃいました」
「へえー、そっちのほうがびっくりだな。オーク族って料理するの?」
「しませんよ。ちょうど人族が調理してたのです。ふふ、馬鹿ですね。あんなに美味しいものを放って逃げてしまうだなんて。きっと泣いて悔しがったことでしょう」
あー、ですよねー。
やっぱり野蛮なオークらしくて安心したよ、ある意味で。
くぴ、と赤ワインをひとくち飲み、閉じられていたイヅノの瞳が開かれる。そして頬杖をつきながら俺を見つめてきた。
「決めました、誠一郎。私はここで働きます」
「どうした、急に」
「どうもこうもありません。人の技術を習うべきだと思ったのです。料理も仕事も、そして山での狩りも。せっかくこういう身体になったのですから」
あー、と生返事しつつ俺もワインをひとくち飲む。
イヅノはれっきとした魔物であるものの、彼女いわく俺を強い雄だと認めたことで大きく変化してしまったたらしい。どんな相手でも繁殖できるという特性によるものらしいが、そんなことはネットにひとつも載っていなかった。事例として挙がっていてもおかしくないんだがな。
「いいぜ。どうせ人手が足りないんだし、生活費だって大してかからない。問題は食費くらいかな。そのぶん働いてくれたら文句は言わない」
そう俺が答えるのが分かっていたかのように、イヅノは瞳が線になるまで細めて笑みを浮かべる。
そこそこ美味いワインも上機嫌になるのを後押ししたのか、熱っぽい呼気と共に「楽しみです」とだけつぶやいていた。
残すことなくきっちりたいらげたイヅノは、んーっと大きな伸びをするや立ち上がる。
やっぱりおっぱいがでかいなーと考えている俺に「寝ましょう」と囁いてきた。思わせぶりなその表情にドキッとしたけれど、邪な気持ちなどおくびにも出さず俺はうなずいたぜ。男らしくな。
かすかな気配により俺は目を覚ます。
今日は風が強いのだろうか。雨戸がガタガタ鳴っており、うなるような音が外から響く。
月明りも差し込まないけれど、俺は夜目がかなり効く。そっと隣に目をやると、上半身を起こすイヅノの姿があった。
布団をどかしたまま、じっと身動きしない。そんな様子をおかしいと感じるけれど、彼女はれっきとしたオーク族だ。寝首を掻かれても驚かない。
さて、どう出るだろうか。
怪力オークといえど、正直なところ俺の敵じゃない。だってモンスター階級でいうところの底辺っぽい感じだしさ。相手が竜とかだったら別だけど、こん棒を持って「ウガー」なんて鳴くやつに負けるわけないじゃん。
きょろ、きょろり。
イヅノはなにかを探すように左右を見る。
そして目当てのものが見つかったのか、ぐりんっと俺に顔を向けてきた。
うんうん、いまのはちょっと怖かったね。軽くだよ? ビビるほどじゃないけど、心臓が軽くドキドキしたね。
とっさに目をつぶったから分からないけどさ、なんか距離が近い気がする。女の子のいい匂いが漂うし、彼女の呼吸音まで聞こえるんだ。もしかして、じーっと見られてる?
待つことしばし。
妙に胸がドキドキするのを気取られないようにしなきゃ。
寝込みを襲われる(意味深)わけじゃないと思うし、変な期待は厳禁だからね。
「し、失礼しまーす」
彼女はなぜかそんなことを言う。
そして黒髪がかすかに触れてきたと思ったら、ねちゅ、という感触が口を覆ってきた。
人肌の温かさと、くすぐったさを覚える彼女の息づかい。
10秒にも満たなかったかもしれないし、もしかしたら1分くらい過ぎていたのかもしれない。
ともあれ気づいたら温もりは遠ざかり、すぐ隣から衣擦れの音がした。
どうやら就寝したらしい規則正しい呼吸を聞きつつも、胸の鼓動はなかなか収まらない。
ねえ、いまのどういう意味?
チューされた? 俺が? なんで?
気のせいかもしれないけど花のような香りが漂っているし、とてもじゃないけど童貞野郎(俺)は眠れないんですが?
もしかして、もしかしてだけど期待しちゃっていい? なにがとは言わないけど、非モテ族から卒業できるってことでいいかな?
くっそ、目がギンギンに冴えてしまったー! どうすんだよ、これ。ぜんぜん眠れないし、寝返りも打てないじゃん!
などと苦悩の一夜を俺は過ごすのだった。
はぁーあ、オークの娘は意味わからんなぁ。
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