第2話


 学校や職場なら、出会ったその日に連絡先を交換するのは茶飯事だ。けれど、街中で会った人と、これからも連絡を取りたいと思ったのは、初めてだった。

 どこから出てきたのかもわからない勇気が、「ID教えてもらえませんか?」と声にしていた。刹那、小さく驚いた男は、再びニカッと笑うと、「もちろん」

 人と付き合ったことはある。けれど、今はふりぃ。男の人とやり取りをして、後ろめたくなることはない。

 だから、だろうか。ラーメンと花壇を共にした男・拓弥とのやりとりは、ごく自然に日常に溶け込んでいった。通知がぴょこんと顔を出すと、美咲の顔に赤みがさす。

 ――これは、恋だ。

 ありがとう、花苗。ありがとう、花苗に急用を与えてくれたシンジさん。

 恋というトキメキは、日常に煌めきを与えてくれる。


 休みの日が合う時は、デートをした。テイクアウトした飲み物片手に散歩をするなど、派手さのないデートは、美咲にとっては心地よかった。

 フレンチに行こうとか、高級車に乗ってドライブしようなんて言われたら、体がカチコチに凍ってしまう。リラックスできる外出ほど、リフレッシュさせてくれるものはない。

 そんな日々を過ごし、半年が過ぎた頃。デート途中、母とばったりとあってしまい、拓弥を紹介することとなった。

「私の、彼氏」

「こんにちは。千種ちぐさ拓弥と申します」

 親に好きな人を紹介したのは、初めてのことだった。


 その日、家に帰ると美咲は、母から「おかえり」よりも先にキャンディを渡された。包みの両端が少し不恰好にねじられている。市販品、ではなさそうだ。

 もうお菓子で機嫌を取れる歳ではない。だから、どのような理由で、と考えた。おそらく理由なんてない、ただの気まぐれだ。普段から一風変わったお菓子を作る人だし、キャンディ作りに挑戦してみたら、それっぽくできたから食べてほしい、とかそんな感じ。お母さんすごいねって褒めてほしいのかも。いいや、もしかすれば、彼氏ができたお祝い、の可能性も無きにしも非ず。

「ありがとう」

 礼を言い、その場でキャンディを舐めた。一秒でも早く感想を伝えるべきだと考えたからだ。

 ころりと転がしながら、気づく。甘みの中に、何かが潜んでいる。けれど、甘みの仮面が、何かの姿をはっきりと認識させてくれない。


 その日、美咲は、拓弥からの連絡をすべて、未読スルーした。


 翌日、美咲は「ごめんごめん。なんかめっちゃ疲れてたみたいで、めっちゃ寝ちゃってた」と嘘をついた。

 嘘の出来が良くないことには、かろうじて気づいていたけれど、より良い嘘を考える余裕はなかった。

 ――大丈夫?

 案じられて、「へーきへーき! いっぱい寝たらスッキリした」と返すも、実際は一睡もしていない。

 あのキャンディを舐めた後、なぜだか沸々と嫌悪の感情が湧いてきたのだ。

 拓弥なんか消えちゃえ、と思考回路がヘンテコな声をあげていたのだ。

 それは、数時間の出来事だった。

 ピークがあった。ピークを過ぎると、それは緩やかにおさまっていく。まるで、薬の効果が切れるみたいに。

 きっかけは、母から貰ったキャンディであるという確信があった。ゆえに、母の思考を理解しようと、夜の間ずぅっと、思考回路がショートするほどに真実を探す空想をし続けていたのである。


 その日、母はまた、キャンディをくれた。

 美咲はそれが、なにかネガティヴな効果をもたらすものだと気づいているから、食べたいとは思わなかった。あとでこっそり捨ててしまおう。キャンディを手に自室へ戻ろうとする。と、「食べないの? 食べてよ。今」

 母の言葉はキンと冷たく、鋭利だった。

 あの時と同じものだと思うから、この一粒を口に放り込むことが心底怖い。しかし、あの時と同じものではないと思い込めば――。

 逆らえず、震える手で包みをはがし、甘みで偽装された何かを口に放り込んだ。

 

 ――大丈夫? 美咲?

 ――あの人はダメよ。あの人は、あの人の一族は、私たちの力をダメにしようとするから。


 拓弥は美咲を案じ、より一層優しく接する。それが美咲を、より一層刺激する。

 彼との出会いに、悪意は存在しないと思う。

 本当に、偶然の、運命の、出会い。

 しかし、本来出会ってはならない二人だった。

 出会えばたちまち、不幸になるから。

 なんてことをしてくれたの、花苗。なんてことをしてくれたの、花苗に急用を与えたシンジ。

 美咲は自分の心が音を立ててグシャグシャに崩れていくのを、どうにもできず、ただ見ている。

 キャンディを、舐めなくちゃ。――今。

 デートの途中だというのに、キャンディを手に放心した。

 話しかけても返事がないからと、拓弥は美咲の顔を覗き込む。

「どーしたの?」

 目の前に、微笑む男の顔がある。一族の、秘密の力をダメにするらしい一族の。

「ん、なんでもない」

「そればっかり」

 珍しく、拓弥の声に怒りが混じった。

「それ、ちょーだい」

「え、ちょ……」

 数秒前まで美咲の手の中にあった、ほのかにあたたかくなったキャンディが、拓弥の口の中に飛び込んだ。コロコロと、転がる。

 溶けていく。時が、関係が、解けていく。

 拓弥の口から出てくるはずのない汚い言葉が、美咲の耳を埋めた。

 連絡は、もう来ない。

 連絡を、もうしない。

 ――あなたは間違ったことをしていないのよ。よく頑張ったわね。偉い、偉い。

 母に頭を撫でられたのは、何年振りだろう。冷たい手のひらに脳を刺激されるたび、美咲の目からはあたたかい涙が溢れた。



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