朝顔と地縛霊

「まつくまかな」

朝顔と地縛霊

 夏の日差しは容赦なく築三年の家を照らす。同じ背丈の住宅が並んで陰になるような高い家もなく、家には朝顔のカーテンがあった。リビングの窓の足元に置かれたふたつのコンテナから、ベランダの柵下の間に糸を張りかけていて、緑のつるがくるくると這い上がっている。少ない葉っぱの内側から眺めると、檻のようにも見えた。玲於奈が花の影が散る窓際に寝転んでいた。梅雨過ぎて直ぐに咲いた赤い花の陰が、薄い腰と肋骨の間に落ち、白いシャツに染みを作る。魘されている。

 私はそっと頭の傍らに屈み込む。汗で張り付いた厚い前髪が、しゃっくりのような動きで揺れておちる。今年十七になる、幼い顔一杯に苦い皺を寄せている。そうさせているのが私自身であり、今の私には何もできない事もわかっていたから、せめてぬるい風が朝顔の葉を揺らす事を願った。玲於奈の母譲りの細やかなまつげから、するする流れるものを拭うこともできずに、私はただ立ち尽くして彼女の顔を見つめていた。

「パ、パ」

なんだい。

声は、届いただろうか。

 玲於奈はまた、悪夢の深いところへ帰っていったようだ。近頃余り夜に眠れていないようすをずっと見ていたから、私はただ心配をして娘を見守る。私に似て真っ直ぐな性質の黒髪が、フローリングの床に咲いている。

 私はこんな結末になるまで、ずっと仕事にかまけてあちこちへ転勤をしていた。娘が十七にもなり、若い頃の渚にこうも似てきている事すらも意識していなかった。生まれたての、未だおぼろげに神様にも似た丸い頬の記憶しか無く、事件前のプレゼントだっておもちゃのような透き通った桃色のマニキュアを選んでいたほどだ。

 玲於奈が起きたようで、軽く寝返りをうち、白いシャツの胸元から小瓶を落とした。チープな品物だったから、かるい音を立てて転がり、玲於奈は目も開けないまま、のろのろと腕だけで探す。朝顔の葉の隙間から差し込む日光に、透明な指先がひかった。

 妻の渚が私のための夕食を取り分けながら「どう、眠れた?」玲於奈に聞いている。どうやら学校を早引きしていたらしい。玲於奈は黙って首を横に振った。もう、三月も会話を聞いていない。出せないのだろう。渚に何かを言おうとすると、カエルの鳴き声のように音が潰れ、ずうずうと息が濁った。病院には通っているらしい。ご飯前に甘い乳酸菌飲料をパックごとがぶのみをし、あまつさえ溢れたものを乱暴に手の甲で拭って「あ゛、あー、ゔ」発声練習などをした。年頃の乙女がすることじゃないと思いながら、私は出された料理に手を合わせる。

 私はきっと、今年の私の誕生日のことを、ずっと、永遠に覚えているのだろうから、できれば玲於奈には忘れてほしかった。

あんなにも几帳面だった渚が食器を積み上げたまま、玲於奈の肩を抱いている。余りテレビは見ず、映画を流す事が多かったはずが、あの日からだらだらとニュース番組がかかっている。

「捕まらないね」渚がつぶやいて一旦玲於奈の肩から退き、ぬるくなったアイスコーヒーを一口飲んだ。玲於奈がリモコンを取り上げ、チャンネルをざくざく変える。色あざやかな番組が、音楽が通り過ぎて、玲於奈が立ち上がる。

「れお、寝るの? お薬は」

玲於奈はまた横に首を振り、リビングを出ると、若いリズムで階段を登っていった。渚が「あなたのお母さんのせいだからね」と私を睨みつけて言った。「薬なんかにたよるとあなたが泣く、だなんて」言いながら、目頭を両手の指先で押さえた。玲於奈と同じマニキュアが、炊事のぶんだけ剥げて傷つき、私の胸に迫る。言い訳もできず、私は項垂れた。

「……わかってる。全部、犯人が悪いんだって」

渚はテーブルのティッシュを二枚つまみ出し、ちんと鼻をかんで丸めて、投げた。


 私は誰も居なくなったリビングとひとつづきのダイニングを見る。新聞は広がったまま、その上にレトルトの外箱が転がり、混沌としていた。カーテンを閉め忘れていたけれど、窓ガラスには混沌とした室内と、夜と、野放図な庭とが重なるばかり。どこにも私は映っていなかった。初め私はその事実に気づかず、ひたすら玲於奈と渚の帰りを待っていた。東向きのリビングでマニキュアを握りしめて、駅前のケーキショップの白い箱が見事な茜色になるほどの夕焼け空を見ていた。

 消し忘れたテレビが深夜ローカルのニュースを流して、現在に戻った私は確かに見覚えのある名前を見つけて動転する。ボリュームをあげようとして、手がテーブルすらもすり抜けた。肉体は焼かれて墓の下なのだから当然の結果にしても、自分が焼かれた時すらあやふやとは。開けっ放しになった廊下へのドアを見る。今の所、十五戦十五敗。

 どうやら昨夜も負けたようだ。廊下へ踏み出したはずの意識が、リビングとダイニングの境目で倒れていた。アイランドキッチンの足に染みになった手形とぴたりと手を合わせていて、無いはずの心臓がゆっくりと止まる記憶に、無いはずの顔を青ざめる。リビングの斜め上に当たる玲於奈の部屋から、叫び声が聞こえた。死んでから四月、私がリビングから出ようとする度にこの声を聞いていて、駆けつけたい衝動をじっとこらえる。「れお、大丈夫だよ、れお……」渚が乱暴に玲於奈の部屋を開いた音に、心底ほっとした。

 二人が起きてくる。私は謝る声すら出ない。出せない。ただ、ぼうっとした瞳をした娘の背を撫でた。渚が温かいスープを作って、玲於奈の前に置く。「学校は行くの?」玲於奈は気丈にもうなずいた。「もうじきに、夏休みだものね」渚は少し引きつりながら微笑んだ。私は渚に声をかけようとして、できず。

 犯人が見つかったと言う知らせは、二人共どうやら外で知ったらしい。玲於奈は学校で、渚も仕事先で。夢枕にも立つ技術がない私は、ただ新聞を隅々まで読む二人の横顔を見ていた。「載ってないねえ」渚はのんびりを装った声を出し、玲於奈は目尻を引きつらせている。

「玲於奈。大丈夫、大丈夫」

渚はくるくると新聞を丸めて凝った自分の肩を叩き「玲於奈のお陰でお母さんもどうにか働けているし、なるようになるよ」おどけている。目の下にはどす黒いクマがあり、笑う口元にも今ある全力が込められていて、私ははらはらする。

「だから、ね。引っ越そう。玲於奈もこの家に居るから辛いんじゃないかな」

玲於奈は首を横に振る。「そっか。パパも居るしね」渚は私を透かして、茜色の残光を見た。夜が来る。私の意識も次第にはっきりとして、ぽつりぽつりと会話をする二人を見ていた。

「じゃあ、れお。間取って旅行しよう。旅行。一ヶ月がしんどいなら、一週間でも良いから」

玲於奈はリビングを見て少し考え込んだ。渚は「パパは出張だよ。だから、二人で。パパは行っておいでって」やっぱり、引きつりながら嘘をついた。私はひたすらに頷いてみせる。誰にも見えはしないだろうけれど。

「覚えている? 小学校四年の時にハワイに行ったこと」

 覚えている。遠浅の海の色を。玲於奈もこくりと頷いた。

「流石に今から人気スポットは無理だし、大阪のおばあちゃんの家に顔を出して、和歌山行こう。パンダもいるし」


 彼女たちは旅立った。散らかった家に地縛霊を残して。私はたまたま積み上げた一番上に乗っている袋麺の裏面を見た。小麦粉、食塩、チキンエキス……。彼女たちを生かしてくれるのなら、インスタントでも即興の旅行でも、何でも良かった。私も赴任先で食べたはずの味を思い出し、同じ食卓で食べたような気になりながら、日に焼けた彼女たちを思う。笑っていて欲しい。

 私はフローリングの間にある拭いきれなかった染みを見下ろす。玲於奈がやっていたように、横たわってみる。朝顔の赤い花の裏は、去年と変わらず鮮やかだった。

 想像する。妻の実家に迎え入れられる玲於奈を。未だに若手の漫才師を追う義母は、どんな顔をして迎えただろうか。私の両親は電車で三駅ほどの距離ではあったが、誰にでも当たりがやわらかい代わりに頼りきれず。義母から渚が受け継いだ荒々しい運転も一緒に思い出して、事故ってくれるなと祈る。


 もしかしたらもう彼女たちは関西から戻ってこないかも知れないと考えていたけれど、二週間後に玄関の鍵が回る音がした。

「ただいまー。ほらほら、れお、パンダパパに見せてあげよう」

なにより玲於奈が「……ただ、いま」恐る恐るながら、声が戻ってきていた。私も喜び、出迎えようとして、リビングと廊下の境目で立ち止まる。行けないのだ、この先に。「お腹空いたねー。お昼作るから、れおはお土産持ってパパに報告しておいで」渚が土産物らしいシロップ漬けの梅干しを玲於奈に持たせ、玲於奈は直ぐに新しい仏壇に供えた。「おばあちゃん、しばらく来るって」掠れた声で言った。

いつ? 

「明後日から……」

玲於奈は困った顔をした。義母は関西らしい人でずけずけものを言ったから、玲於奈は少々苦手と言ったところ。悪い人じゃないよ、と背中を叩いてやると「お薬飲まされた」への字口をした。「ちゃんと飲むか、見てる、って……」それから、そわそわと辺りを見回した。

「お父さん、居るの?」

玲於奈は渚に聞いた。「おばあちゃんは居る、言うたから、居るんじゃない?」渚は冷凍野菜を炒めて、袋麺を茹でる。私は野菜の匂いにじわりとあたたまるような思いだ。


 義母は家に着くなり「あんた、こんな、可哀想に!」ボストンバッグを玄関に放り込むと、自動潅水器を剥ぎ取るようにして朝顔を構った。黄色くなった下葉を剥いで、乾いて鋭くなった緑に触れて。「家は散らかっても人間死なんけど」渚を叱り飛ばし「だから自動にしてたのに……取ったの?」呆れられている。

「自動て。こんなんびたびたにするしかできへんやないの」

「乾くよりいいでしょう?」

「そら、確かに……」

義母が笑うと、渚もまるで子供のような顔で笑った。「ごめんな。汚いけど、上がって」微妙に関西の音階を声に戻して、家に招いた。

「れおちゃーん、来たで!」義母がリビングに入ってくる。邪魔にならないよう、隅っこに立っていた私にきっちりと目を合わせ、目礼をした。私は戸惑いながら頭らしきものを下げる。義母は一瞬だけ口元を歪め、それから何時もの威勢のいい笑みを整えた。

「れおちゃん、寝とんの?」

「どうだろう? 特例で期末テストを夏休み中にずらしてもらっているから……」

 階段から軽い足音がする。「おばあちゃん、いらっしゃい」玲於奈が挨拶に降りてきた。「ごめんなあ、勉強中やったか」義母の勢いに飲まれて、玲於奈は一瞬、笑おうとした。けれど、直ぐに歪んだ。「いいよ。どうせ何もできないんだから」目線が仏壇に移ると、義母はボストンバッグをひっつかみ「よっしゃ。ほな、着替えたらばあちゃんと庭仕事しよか。雑草むきむきやないか」着替えに出ていった。「そんな、急がなくても」コーヒーを淹れた渚が声をかける。

「しゃあない、うちは老い先短いんや!」

 家が響くほどの大声で、私が去ってから眠るようだった家を揺さぶり、義母は「れおちゃん、なにぼっとしとん。長袖長ズボンに軍手無いなら、貸すから着替えてき」玲於奈の背中をばしんと叩いた。まごまごしていた玲於奈も飛び上がって、二回の部屋まで駆け戻る。

 私は朝顔越しに見ていたが、私があれだけ苦心していた、煮えるような真昼の庭でも、三人がかりとなると狭かった。あっという間に整え、義母は「一人抜けただけでもありがたみわかるなあ……」一人で大笑いをしながら、伸びたスギナを二つに折ってゴミ袋へ。

「良かった。母の日の生きてた」玲於奈が、黒くなったミニバラの葉を恐る恐るむしり、義母が持つゴミ袋へ。「うん」渚はつば広の麦わら帽子を一瞬おおきく前へ傾けた。つい去年、通信網を介して私と玲於奈とで選んだ花だっだ。


 続いて、義母は分別の細かさに文句をつけながらリビングに積み上がった新聞を括りあげ、ころがったペットボトルや瓶、缶を集めて洗い、手紙をざっと束ね、内容物で汚れた机や床をさっさと清めてしまう。終わる頃には、夏の長い陽射しが傾いていた。

渚も私の位牌を拭い「ごめんね、こんなに、汚れていたなんて」こらえきれず、泣いた。

「出張出張いうて、帰ってこおへんかったら生きとる内から幽霊と一緒や」

義母の言葉に、私はもう縮こまるしかできずに居て「お母さん」渚が鼻声でたしなめる声を聞く。「亭主元気で留守がええ、て言うけど、子供はちゃうもん。なあ」義母は悪びれずに玲於奈の顔を覗き込んだ。玲於奈は薬のせいだろう、曖昧な無表情を崩さずに「おばあちゃん、パパは未だここに居るって」声も淡々としている。

「おるで、そこに」義母は確かに、私を指さした。玲於奈もこちらを見て、あちこちへ視線を泳がせる。

「れおちゃんには見えへんか。そらそうやな、若いもん。ババァになって棺桶に腰まで入ったら見えるようになるんちゃう?」

玲於奈は絶望した顔をした。渚が義母をなじるように「それやったら、私も見えるはずやん」義母の小太りの肩を叩いた。

「修行が足らん。片足入ったぐらいでババア言うたら、あかんわ」

義母は動じず、ビールの缶を勢いよく開いた。「うちから見たら、あんたらはみーんな、青春まっさかりや……」喉を鳴らして飲み込んで「こんな汚れた家に置いとくんは、あんまり、もったいないやろ。しげくんもそない思ってる」私の名前を持ち出した。

「お母さんだって、お父さんの時には雑誌も片付けられなかったのに、こんな時だけしげくんを持ち出さんといて」

 渚が子供のように泣き出して、玲於奈は祖母を睨みつけた。俺が思わず腕を伸ばして渚に触れると、義母の手が重なった。ふと私に、泣きじゃくる渚の体温が伝わって、ぽつんと火が灯るような暖かさに、私は震えた。


 義母は夏休みの残り半分を家で過ごすようだ。玲於奈が薬を飲んで部屋へ帰るのを見守り、義母は遅れて酒を取り出した渚と並んでソファに座った。

「うち、病気でも恨んだのに、あんた、辛いな」

「犯人捕まったって聞いたんだけど……」

「束ねた手紙、もっぺんさらってみよか。寝言書いてきとるかも」

 二人は手紙を仕分けし「どうしよ、これ」渚は不安な顔をした。確かに聞いた名前から二通届いている。「煮るなり、焼くなり好きにし」義母は大あくび。「二通とも、このまま返したろ」渚は赤いペンを持ち出した。

「れおちゃん宛はれおちゃんに聞いてからや」

「でも」

「でももあるか。れおちゃん、裁判行く言うてるんやろ」

「行かせたく、ない。ほんまは。あの子……なんで居合わせたのか」

「せやけど起こってしもたもんはしゃあないやん。仇を討つにはそれしかないし」

「仇なんて。私は、れおが普通の人生を送ってくれたら、それで」

 義母は渚のビールを取り上げ「あんた、すっかりこっちの人になってしもて」つまらなさそうに呟いた。嫌味をたっぷり含んだ声に、渚は「なに、それ」唇を尖らせた。

「青っぱな垂れとる時には、普通なんて人それぞれだ、とか言ってうちから金むしっとったやん」

渚は慌てて鼻をかみ「それは」抗議をしようと肩を膨らませ「確かに、そうだけど」次にぺたんとしぼんだ。

 私は二階を見上げた。恐らく薬で深く眠っている玲於奈。彼女を痛めつける記憶なら、私の存在ごと消してくれていいと願っているけれど。私がそわそわと目線を泳がせるのを、義母が渚の肩を抱き、冷めた目で見ている。

 翌朝、玲於奈は迷いなく手紙を開けた。通り一遍の謝罪の文章を読み、封筒に戻して「謝ってるけど、謝られた気がしない」。義母が弾かれたように笑い「誰に似たんか、のぼーっとした子やとばっかりおもとったわ」渚に手紙を返そうとする玲於奈を止めた。

「持っとき。何かで私なんか、とか考えた時に読み返したら元気でるんちゃう? 知らんけど」


 嵐のように義母が去ると、二人は生活というものを思い出したようで、散らかる速度には追いつかないなりに片付け始めた。

彼女たちの毎日によって積み上がったものが優先で、そのうち洗い物の奥に私のマグカップや箸を見つけると、二人は思い出話を初めた。

「忘れるのが一番の復讐だって言うけど」玲於奈は私のマグカップにレモネードを満たし「先生?」渚は玲於奈を見て目を細めた。

「うん……できるわけない」

「れお、返事書いたの?」

「ううん。ペン持ったら書けなくて……目の前が真っ暗になった」

渚はアイスコーヒーの氷を鳴らし「私が殺してこようかあ。初犯じゃ刑期も短いし」まるで買い物にでも行くような軽い物言いだった。

「ママ」と玲於奈はたしなめてから「お母さん」と呼び方を改めた。渚の方が驚いて、だらしなく座っていた背中を伸ばす。

「お父さん、って呼んだら、どんな顔をしたんだろう」

「案外拗ねて落ち込んだかもね。あの人、貴女の事をまだまだ子供だって思っていたから」

 玲於奈が憂鬱そうに頬杖をつき、ポケットからマニキュアを取り出して、テーブルの上に転がした。ガラス材のテーブルに桃色の陰が浮かんで、渚が取り上げる。「もうれおの年なら、こういう色なら大人のものでもいいのにね」今度は渚のてのひらの上でころころと周り「そんなの、わかんないんじゃないかな。本当は学校では禁止だし」玲於奈は眉根を寄せた。

 私はと言うと、ただただ驚いていた。もう、緑色のつぼみから花の色が見えてくる年頃だという事実に。

「ごめん。二学期は取っていく」

「そう。この調子ならパパの水筒が発掘できるかもよ」

「レモネードを入れて。いつも庭仕事の後に飲んでたよね。クエン酸は疲れに効くって」

「れお、覚えてない? 幼稚園の時にれもんを絞るのにこってたの」

玲於奈は「やだ」とうつ伏せてしまった。焼き魚から、レモネードまで、小さな手でぎゅっと絞った、爽やかな柑橘の香り。

「覚えてたなら、変態だよ」次に顔を上げた時には、渋い顔をしていた。「こら」渚が笑って叱ると「……そうだよ」と泣き笑いになり「一昨日、ぶりの塩焼きの時に絞ったけど、喜んでたのかな」笑みは直ぐに消えたけれど「喜んだだろうね」渚が太鼓判を押すと「そっか」気のない顔を作っていた。


 私は静まったリビングを見回して仏壇に供えたレモネードの音を聞き、開けっ放しの廊下を見る。ごくりと喉を鳴らし、勇気を振り絞って飛び出した。見慣れた廊下に出て、慌てて上の階を伺うも、悲鳴は聞こえなかった。そうっと階段を上り、私と渚の寝室のドアに手をついて、勢いでするりとすり抜けて入った。ベッドに渚が丸まっている。開けっ放しのクローゼットに、私のスーツがずらりと一式整えてあった。

渚。

「……げ、くん」

夢の中でわんわん泣いていて、私はただ、奥から溢れるありがとうを伝えて頭を撫でた。渚はすうと涙を止めて寝入り、私も静かに離れて玲於奈の元へ。ぬいぐるみが増えた室内、ベッドの中には居なかった。

 玲於奈はリビングに居た。私の仏壇の前に座って、遺影をぼうっと眺めている。「全然返信くれないから、それでやっと居ないんだって」頭を掻いて「普段居なかったから」指先を払った。そこにはもうマニキュアはなかった。「くれたメッセージ、もう全部読んじゃったよ」私は何も言えずに、蒸れたリビングでうつむく娘にそっと触れる。玲於奈も暑かったのだろう。供え物のぬるくて気が抜けたレモネードを一気に飲み干すと、リビングの窓を開けに立った。

 そろそろ、日が昇るようだ。濃い紫色に緩んだ夜が、朝顔の影と玲於奈の白い顔を窓ガラスに映した。髪と大きな黒い瞳は闇にとけ、街灯がぽつりとその中に灯っている。玲於奈は窓の鍵を開け、網戸を残してひらく。重なったガラスの奥に、確かに私が居た。

「あ」

玲於奈は目を見開いた。一瞬後には朝焼けの光がまばゆく溢れ、窓ガラスは整った庭を映すのみになる。玲於奈はぱっと笑い「私、生きるよ。お父さんがきちんと見えるようになるまで」ガラス窓に向かって言った。私はやっぱり、そっと黒髪を撫でる。「だから、そこに居て」私がガラスから消えた事を確認した玲於奈はしゃがみ込み、泣いた。

「れお、起きてたの」渚がそっと玲於奈の肩を支え「ん、お父さん、が」玲於奈は窓ガラスに手をついた。渚は「そうか、れおのところにも、来たのか」充血した目で笑った。

「そう言えば、れおにお父さんとお母さんが知り合ったきっかけって教えたっけ」

渚は玲於奈を窓ガラスから離して、明るい声を出した。それでいいと、私も思う。


 朝顔が枯れる。私はこの頃には家に縛られることもなく、玲於奈の授業や、渚の仕事、五年にも満たない懲役を言い渡した裁判の内容を見守る事ができるようになっていて、ある日、短くなった陽射しの中で、懸命に庭を構う玲於奈を見ていた。朝顔の種を丁寧に集め、私がしたように乾燥させて来年の花にするようだ。冬が来れば、直ぐに私の命日が来る。

 だから、真っ赤な夕暮れの公園で「残念だったね」真面目だけが取り柄のような少年が、玲於奈を慰めているようすも「うん、ありがとう」裁判を機に髪を短く整えた娘がほんのりと照れた仕草をすることも飲み込んた。飲み込んだが、泣かせた時にはたたってやると、渚が聞いたら呆れるような事と、手をつなぐ二人を見せられて、なぜ幽霊にはまぶたがないのかを真剣に悩み、私は成仏を棚に上げるのだった。

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朝顔と地縛霊 「まつくまかな」 @kumanaka2023

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