祖父の遺産

 人は皆、いつも通りの日々が来ると思って疑わない。だが、別れも出会いも、すべて突然にやってくる。春が夏になり、秋に変わって、冬に流れこむように、一つとして、同じことにならないのだ。


ノートを祖父に預けて、トラバントは二階にある自室に向かった。宿題を終えてから、しばらく物思いにふける。窓から、遠くの山がみえる。あの山の向こうに行けるなら、いじめてくる村の子どもたちから離れることができるかも、と考えた。でも、『青い月』がいつのぼるか、祖父にも分からないように、トラバントにも、どうやれば山の向こうに行けるのか分からなかった。祖父同様にため息をついて、階段をおりる。そろそろ、隣の老婆が、ご飯を運んできてくれる時間だ。それまでに、食卓を綺麗にしておこうと階下に降りた。

 「おじいちゃん、もうご飯の時間になるよ。僕、こっちを片付けるからー」

早く食卓に来てね、と言おうとして、トラバントは口をつぐんだ。籐椅子に座る祖父の様子が、いつもと違うのだ。籐椅子に座っている姿はいつも通りなのに、まるで、置物のように動かない。

 「おじいちゃん…?」

そっと近づいて祖父の手に触れると、あまりの冷たさに、思わず手を離してしまった。

「ど…うして…?」

 トラバントは、誰かの「死」を目の当たりにしたのは初めてだった。けれど、それが「死」であることは、すぐに理解できた。かつて見たことのないほど、冷たく固く白くなった皮膚、動かない体、微笑みかけない唇…。

体の奥の方まで、サーッと血の気が引いていくのを感じた。

「死んじゃった、の…?」

何度ゆすっても、声をかけても、祖父が目を開けることはなかった。

 ついに、ぺたんと、トラバントは籐椅子の横に座り込んでしまった。唯一の心の支えだった祖父。いつも笑っていた祖父。いつも味方でいてくれた祖父は、もういないのだ。思わず、涙がこぼれた。それは、後から後から溢れてきて止まらない。幾粒もが祖父の手に落ちていったが、その熱い涙でさえ、祖父をこの世に呼び戻すことはできなかった。

 ひとしきり泣いたあと、ふと、涙の粒が、足元まで伝ったのに気づいた。目で追うと、足元には、二冊のノートが落ちている。一冊目は、祖父が書いていた青い薔薇のための記録。二冊目は、今日、トラバントが買って来たばかりのノート。まだ、「青い月」のことしか書かれていない。

「おじいちゃん、青い薔薇を見ないままで死んじゃったんだ…」

 改めてその事実に気づき、泣いていると、扉を叩く音が聞こえた。隣の老婆が、夕食のスープを持って訪ねてきた。トラバントは、胸が痛くなった。村の人たちにも、祖父が死んでしまったことを伝えなくてはならないのだ。祖父は、もう亡くなったのだと、改めて悟るのだった。


 葬式は、しめやかに行われた。家族だけで弔うつもりでいたが、村人たちからの献花が絶えなかった。祖父は、庭師をやめて村に帰って来たあと、村人たちの庭まで美しく整えることを趣味としていたのだ。

「トラバント、元気だったかい?」

足の悪い母親が、トラバントの手をさすりながら、優しく語りかけてきた。トラバントはこの母が好きだった。祖父に似て、穏やかで、あたたかい性格の母。本当は、ずっと母と暮らしたかったくらいだ。

「元気に決まっている。ろくに勉強もしないで、まったく、ろくでもない子だ」

そう言ったのは、父親だった。トラバントはうつむく。だが、言い返さなかった。祖父と違って、周りを否定しかしない父親。母のいる家に、帰れない原因…。一度たりともトラバントをなでたことのない手は、大きくて固くて、トラバントはいつも怖かった。

だが、そんなことより、今のトラバントには、祖父のことのほうが大事だった。


 祖父の棺の中は、村の人からの献花でいっぱいだった。

「ここに青い薔薇があれば、おじいちゃんは、どれだけ嬉しかっただろう…」

そう呟くと、トラバントは、また涙ぐむのだった。大きな山が遠くから、トラバントを冷たく見下ろしているようだった。


 葬式を終えたあとも、トラバントは父のいる家には戻らなかった。足の悪い母のことは気になったが、父といたら、自分の心が壊れてしまうことは目に見えていた。

祖父のお気に入りの籐椅子に腰をかけて、ふと、祖父の落としたノートを見る。祖父が書いた方のノートには、暗号のようなものが沢山あった。トラバントには、無論、解読することはできなかった。

「おじいちゃん、悔しいだろうな。青い薔薇が見られなくて…」

また涙があふれてくるのを感じて、トラバントは強く目をこすった。泣いてばかりじゃ駄目だと思いつつ、祖父にさあ一緒に寝よう、と無意識に声をかけようとしていた。

「あ…」

そうして、また気づく。声をかけるべき祖父がもういないことに。

トラバントの体から、一気に力が抜けていくようだった。

「これから、どうやって生きていったらいいんだろう。おじいちゃんもいない。学校にも行けない。僕には、何にもないんだ…」

そう呟くと、体全身が、どこか暗い穴に引きずり込まれていくようだった。二度と出てこられない、真っ暗な穴の中に。


 「そうだ…青い薔薇を作ろう」

トラバントは、ふと、二冊のノートを見て、呟いた。

「人間は、希望がなくちゃ生きていけない。僕にとっての希望は、何にもないけれど…。おじいちゃんの夢を叶えることは、できるかもしれない」

 その一方で、トラバントは理解していた。青い薔薇を作るのは、とても難しいことを。あの有名な庭師だった祖父ですら実現できなかったことなのに、自分に出来るのだろうかと迷いもした。それでも、やるしかない。だって、今のトラバントには、生きる理由になるものが、他になかったのだから。

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