第6話 世界の果てで③
「きゃっ!?」
足を滑らせたエラお嬢様へ手を伸ばす。
だが彼女は更に一歩を踏み出すことで姿勢を整えようとして、結果的に身を乗り出した私の胸元へ飛び込む形となった。
「………………」
「………………」
鳥の声も疎らな森の中、温暖と言えば聞こえはいいが、動くだけで汗の噴き出る気温の中で、張り付いた服の向こう側にお嬢様の肌を感じる。
私の肩口を掴んでいた手がくしゃりと服を握り込まれ、心臓を掴まれたような苦しさを覚えた。なのに、決して不快ではない、むしろずっとこうして居たいと思える様な甘さを伴った感覚に背筋が震えた。
それを、ゆっくりと引き剥がしていく。
まだ肌に残る彼女の感触を振り払うように服を正し、咳ばらいをした。
「あ……ははは。ごめんなさい、足が滑ってしまって」
「いえ。御無事で何よりです」
お嬢様も乱れた前髪を整え、流れる汗を拭い取る。
今日のお嬢様は実に活動的な格好をしていた。いつもは垂らしているだけの灰色の髪を結い上げ、上は短い袖の簡素な服が一枚、下もスカートではなくズボン。足首を保護する革の長靴は膝下にまで及び、腰元には縄や水筒、短剣などの基本的な装備を身に付けている。
私も概ね同じようなものだ。
ここは蛇や厄介な虫も少なく、危険な獣も寄り付かないという。
メェヌを止まらないしゃっくり状態にしていたあの雷が原因だろうか。自然に生きる獣は人間より精霊を感じ取り易いというからな。
「気を付けていきましょう。もうそれほど時間は掛からない筈です」
現在私達は、二人で死の荒野との境目に向かっている。
メェヌはキャンプの留守番。傭兵達は水源の捜索。昨日中頃にある台地で遠巻きに全容は見たのだが、一先ずは溶岩地帯へ降りる経路を確保したいというのもあり、こうして調査に来ている訳だ。
もう一人くらい、そう、護衛で付いてきて貰うべきだっただろうか。
『あーはいはい、そういうのはいいんで、二人で楽しんで来てください』
メェヌが鬱陶しそうに言うので仕方なく現地を任せてきたのだが、状況的に手を取ってエスコートする時など、どうしても顔が熱くなる。
いや、傭兵などは男ばかりだし、お嬢様に触れさせるつもりは無く、となると結局私がやることになるので同じなのだが。
『調査は二日掛けでしょう? まあ、お嬢様に星の数でも数えさせてあげればいいんじゃないでしょうか』
意味不明なことまで言われ、二人で送り出された以上、不足なくやって見せるしかない。
「だ、大丈夫? 平気なの? 飛び降りちゃって、私、後で戻れるかしら」
「この程度の段差なら、登る時は私が足場になりますよ。大丈夫です、受け止めますから飛び降りて下さい」
道中はそれなりに過酷で、時には歩いて通るだけではいけない場所も多い。
「いくわっ。お願いね、カーリ!」
一番の問題は、この抗い難い触れ合いで。
「…………」
「…………んっ」
受け止めた上で、つい腕に力が篭ってしまう。
エラお嬢様もエラお嬢様で、飛び降りた興奮からか、私の首元にしがみ付きながら熱い吐息を漏らす。
獣は出ない。
蛇や厄介な虫も居ない。
道中はあくまで、荒れた道に慣れていないお嬢様を連れ歩くには手が掛かる程度。
ただどうしても、離れるのに時間が掛かってしまうのだった。
※ ※ ※
どうにか陽が暮れる前に断崖へ辿り着くことが出来た。
昨日見た光景ではあるが、近付くとまた迫力も増すもので、木々の隙間から見え隠れし始めてから、ずっと視線が釘付けになっていた。
巨大な火山だ。
それが三つ、この荒野の先を塞ぐみたいに並んでいる。
噴火口は、今日は黒煙を吐いてはいないらしい。
ただ黒い雲が一帯を覆っていて、溶岩地帯は酷く暗い雰囲気がある。
それを見降ろすこの断崖、下っていった先には何十年も前にあったという大噴火の名残りが痛々しいほど刻まれている。
「森の半分以上が呑み込まれたのよね」
「えぇ。地震によって大地が隆起して、それによって溶岩流が押し留められましたが、残された側は見ての通りです」
炭化した木々が未だに佇んでいる様は、墓か何かに思えてくる。
緑はなく、黒一色。
当然ながら獣の姿も見当たらない。
「火山は定期的な噴火を振り返していて、流石にここまで流れてくることは滅多にないでしょうが、作業をさせるなら、効率的に崖を行き来できる場所が無いといけません」
不慣れな森の中をおよそ半日。
村から出れば一日の距離と考えていい。
水源のあるキャンプ地を無視したとして、安定的に拠点を築くには限界と言える距離。
行きはともかく、帰りはただ歩かせるだけなので効率も悪い。
しかも夜を通して往復させる訳にもいかないとなれば、一人が補給出来るのは二日に一度か。
「まずは断崖に沿って歩いてみましょう。足元には気を付けて、崩れるかもしれませんので」
自然と手を取り、二人で歩き出す。
森は断崖まで続いていて、まだまだ足場は悪い。
だが、正確な位置こそ掴めていないが、昨日台地からみた限りでは、この先に開けている場所がある。
しかも、思わぬ形で前任者の功績があるかもしれないのだ。
「あれって」
「はい。おそらく、前の者が設置させたものでしょう」
比較的平らな、開けた草原。
その端に杭が打たれ、縄が吊るされている。
もう必要はなさそうだが念の為、手を繋いだまま私達はそこへ辿り着いた。
「おっと、気を付けて下さい」
早速私を支えとしたままエラお嬢様が崖下を覗き込む。
ふむ、やはりこのままで居るべきか。
戻って来た時、悪ふざけをした彼女が楽しそうに笑っていて、自然とこちらの胸元へ飛び込んで来た。
「ふふっ」
弾む胸を誤魔化して、位置を入れ替える。
流石にエラお嬢様に支えて頂くことはせず、自分で踏ん張って覗き込んだ。
「ここだけ断崖というより坂のようになっているみたいですね」
杭にも触れてみたが、支えはしっかりしている。
ただ、放置されていただけあって、縄は使い物にならなそうだ。
「でも、見て。幾つか建物があるわ」
「本当だ……ちゃんと作業をしていた者はいるんですね」
指揮を執る貴族本人は村でくだを巻いていたらしいが、指示された配下は別か。
建物といっても掘っ立て小屋に近く、道具類もまとめて打ち捨てられている。驚いたのは、その周りにはわずかながら緑が見て取れたことだ。
「下を見てみたいな……」
呟きに対して、お嬢様が腰元の縄を取り出した。
登攀用のもので、一つでは長さも不十分だろうが、私のものと合わせればなんとか足りるか?
杭の安全性を再度確認した上で、片側を結び付けて下へ放る。
「……微妙に足りていませんが、駆け下りていけなくはなさそうです。お嬢様」
「私が行ったら、足手纏いになるかしら」
「――――まずは私が行って確認しますね」
応じると、少し不安げにしていたエラお嬢様が笑って頷いてくれた。
※ ※ ※
崖下の坂道を、板を尻に敷いて滑り落ちていくお嬢様が居る。
もう三度目だ。
調査をそっちのけで初めてしまった、脅威の痛快大興奮娯楽。
人は滑り降りるだけで何故こうも楽しめるのだろうかと深い吐息が漏れる。
因みに私はもう五度やった。
早い、凄い、勢いがある。
これはあれだ。
そう。
滑り坂、とでも名付けよう。
事の発端は崖下りの終了間際に足を滑らせたお嬢様が滑落した時だ。
大慌てで駆け寄る私、固まって震えていたお嬢様。
最初は怯えてしまったのかと心配したのだが、
『こ、怖かったけどっ、なんだかとても楽しかったわっ』
カーリもやってみて! などと言われて試してみたのだが実に興奮した。
『あそこっ、あそこ登れるようになってるわ! 前の人もここで遊んでいたのよっ!』
どうやら本当にそうだったらしく、滑り降りる様の、縄を結び付けられた板が近くに転がっていた。更に程好い足場へ続く、木の棒を打ち込んだ階段まで設置されていたのだから間違い無い。
「ふむ、こういうのは観光資源になるだろうか」
やろうと思えばどこでも作れそうな構造だ。
ここだけ断崖というよりは急斜面になっている為、慣れた者であれば歩いて崖上までいけそうではある。なんなら、降りる時は一気に滑り降りても良い。物資を運んでいるならぶちまける危険があるので論外だが、人が行き来するだけなら一考には値するだろうか。
「ねえカーリっ、一緒に滑りましょう? とっても楽しいわっ」
「いえ、しかし一緒にというのは……」
「もう一枚大きなのを見付けたの。それだったら二人並んで滑れるわよ。ねえ、駄目かしら?」
当然滑った。
飛び出すまでは触れる身体に緊張し切っていたのだが、やはりあの、何とも言えぬ加速感を身体が覚えると叫び出したくなるような衝動が沸き起こる。
抗い難い感覚。人は斯くも速さを求める生き物だったのだろうか。
「さて、そろそろ調査を再開しましょうか」
都合三回ほど楽しんでから、いい加減頭の中のメェヌが『役立たずですね』と嫌味を言ってきていたので自省した。
今後、やろうと思えば何度でも出来る。
いっそメェヌも連れて来てやれば一番夢中になりそうだ。
「えぇ。今の私達は気力十分、元気いっぱいですものねっ」
楽しかった。またやろう。うむ、実に良い活力だ。特に最後、二人で一緒の板に乗って滑り降りるだけで楽しさが跳ね上がった気がする。
「こういった遊具を設置する程度には安定した生活が送れていたということでしょうか。そうなると、やはり近くに水源がある可能性も出てきます」
僅かに緑の生い茂る、黒い大地を踏んでいく。
かつて溶岩の押し寄せた森の残骸は、今やすっかり岩石に覆われていた。
建てられている家や倉庫らしきものも、地面の上に乗せているだけ。
幾つか覗いてみたが、基本は村の様式と変わらなかった。
一部、寝床らしき場所に板が張られているだけで、他は村で作られている布らしきものが、過去の名残りと共に朽ちているばかり。
「おっ、水瓶がありますね。底が抜けてもいないようですし、これは有り難く使わせて貰いましょう」
私の腰ほどにもなる大きな水瓶は良い収穫だった。
崩れた屋根のせいか、瓶の底には僅かな水が残されている。
「…………水があるということは、ここは雨が降るのね」
「そういえばそうですね」
家屋から出て、二人して火山を見やる。
高い高い山頂付近には変わらず黒煙が漂っているが、それはゆっくりとこちらへ流れて来ていた。だけではない。
「あっ……」
「急ぎ野営の準備をしましょう」
話していた矢先に、だ。
黒い雨が、死の荒野を濡らしながらこちらへ迫ってきていた。
「私も手伝うわっ」
「では薪になりそうなものを集めて下さいっ。長雨になるのなら、今夜はここで過ごすことになるでしょうからっ」
「分かったわ!」
温暖とはいえ、夜は少し冷える。
未知の場所でも、灯りがあるだけで不安は和らぐものだ。
私達は手分けして周囲を漁り、夜を越す準備を整えていった。
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