第3話 静寂の夜

 上階のバルコニーでメェヌが布団に包まって眠っていた。

 陽光は穏やか、潮風も頬を撫でる程度で、潮騒は随分と遠い。

 昼寝には良い環境だ。

 干された洗濯物が揺らめく中、心地よさそうに眠り続けるメェヌ。昨夜遅くまで保存食などの加工をしてくれていたことを考えれば、仕事中の居眠りを咎めたりは出来ない。

 すっかり人の居なくなった屋敷の中、家人は僅か三人とはいえ、生きていれば色々と要り様も出てくる。

 そこを縦横無尽に駆け回っているメェヌには頭が下がる。


「んん……むにゃぉ…………」


 猫みたいな寝言を溢し、身を丸めるメェヌ。

 短く切り揃えた前髪が布団との間でくしゃりと乱れ、意外に長い睫毛が僅かに震えていた。

 かと思えば仰向けに転がって布団に抱き寄せ、にゃふふと笑いだす。


 いきなり動くから起きたのかと思ったが違ったらしい。

 ふむ、それにしても大きく育ったものだ。

 兄貴分として邪な感情など欠片も浮かばないが、仰向けになって尚、こうも盛り上がりをみせるとは、実に感慨深いものがある。


「それにしても気持ちよさそうに寝ているものだ。ん……?」


 メェヌが包まっている布団に、幾つかの縫い跡があるのを見付けた。

 黒い糸、否、髪だ。

 糸を容易く入手できない者にとって、最も安価で最も手近な代用品。針そのものは屋敷にあったものを誤魔化して持ち出せば良いからと、その昔に針仕事を覚えたばかりのメェヌが言っていたのを思い出す。


「懐かしいな。あの頃は髪が長かった」


 お兄ちゃんは仕方ない人ですね、なんて言って、使っていた布団のほつれを縫ってくれたものだ。


「……というより、コレがそうか」


 縫い方の拙さや形に覚えがある。

 夜遅く眠る時に、そして目覚めた時に、可愛い妹分のしてくれた補修を目にしてきたのだ、そうそう忘れるものではない。


「さて、お嬢様にはいい加減寝台で寝て下さいと叱られてしまったのだが」


 相も変わらず執務室に籠もって、意識が落ちれば机に突っ伏して、目覚めれば作業に戻る日々だった。寝ても覚めても作業場所に居られるというのは非常に効率が良いのだが、主命とあれば仕方ない。

 あれで中々難しいものなのだ。

 寝落ちする瞬間に書類を退かし、手にしていたなら腕を左右に開いて掲げる。無意識に出来るようになるまでは随分と苦労した。


「懐かしき使用人部屋へ行ってみれば寝台は剥き出し、メェヌが洗濯をしていたと聞いたのでもしやと探してみれば、使用中ときた」


 おそらくだが、メェヌなりに気を利かせて干してくれたのだろう。

 時間が噛み合わなかったのは仕方ない。

 とはいえ一度集中を切らしたのと、ここの陽気、なにより妹分の心地良さげな寝顔を見ていると眠気も加速するというもの。


「少し退いてくれんか、メェヌ」

「にゃーあぁ……」

「嫌か。しかしそれは俺の布団だ。所有権を主張する」

「にゃ……」


 言っていたら渋々半分を開けてくれた。

 もしかして起きて…………いや、再会してからの態度を考えれば絶対に違うな。


「ふむ。ありがとう、メェヌ。では」


 そろそろ眠気も限界だ。

 多少はみ出すのは許容して、久しぶりに添い寝といこう。

 何より眠い。考えるのも億劫だ。日差しもぽかぽか、風も静かで心地良い。なんでもいいからこの陽気に身を任せたい。


「にゃあ」


 身を寄せてきた妹分を腕に抱き、意識はストンと落ちていった。


    ※   ※   ※


 寝て起きてもまだ昼だった。

 生来の寝起きの悪さから、目覚めつつも中々起き上がれないでいた私へしがみ付いてくるメェヌ。

 体格の違いもあってか、それとも丸まり易いからか、こちらの腹辺りに頬擦りし、服を噛んでくる。洗えば済む話なのだが、少々涎が沁みていて参っている。参っているが、意識が眠気の中にある私はそのままメェヌを抱いて髪を梳いていた。

 なんとも懐かしい感覚だ。


「ふふ」


 一人過去へ意識をやっていたら、鈴が転がるような笑い声が背後から聞こえてきた。


「あれ……エラお嬢様?」

「えぇ。いい寝床を見付けたみたいで良かったわ。おはよう」

「おはようございます」


 普段であれば寝ころんだまま応じるなどありえないのだが、なんら咎められないことと、この手放し難い心地良さには抗えず、ややも寝ぼけたまま応じてしまう。

 一応背を向けたままはいけないな、と身を返したら、そのままメェヌが付いてきて覆いかぶさった。


「ふふっ、本当に仲が良いのね」


 お嬢様は私達のすぐ傍らに腰掛けていた。

 膝の上には本があり、けれどあまりページは進んでいない。


「まだ眠っていていいわよ。二人共、とっても頑張ってくれているんだから、こういう日のお昼寝くらいは当然の権利よ」

「すみません、お嬢様」

「はぁーい。ふふ、メェヌの言っていた通り、寝起きは弱いのね。弱点発見っ」


 ふに、と鼻を摘ままれてしまった。

 塞がれるほどではないので呼吸は可能。可能なら、問題無いのではないか?


 尚もころころ笑い続けるお嬢様の灰色の髪を、故郷の潮風が少しだけ強く撫で付けた。陽を浴びて、どこか透けて見える美しい髪。遠くを見詰める瞳が記憶にあるより大人びていて、横顔には儚さの上にも凛々しさが乗っている。


 お嬢様。


「いけない子達」


 笑って言われてしまうから、何事かと頭を捻ったが、身体が動いたせいでメェヌから抗議を受け、妙な姿勢のまま固まってしまう。


「そのお布団、私が使ってたものよ? ご主人様のものを勝手に使うだなんて」

「いいえ、このお布団は私のです」

「あら、そこにある、メェヌの髪で縫った跡には覚えがあるのよ。半年前、家の人が皆居なくなってしまってから、メェヌの使っていたものを私が貰ったのよ」

「そうなんですか、すみません」


 なんてことだ、私は私の布団ではなく、お嬢様の布団を無断で使ってしまっていたらしい。

 でもまだ少し眠いし、日差しが心地良いので、このままで居たいと思うのです。


「いいのよ、二人の姿が微笑ましいから、もう少し見ていたいくらい。できれば私も一緒に混ざりたいわね」

「それは、その……恥ずかしいです」

「ふふ、そうねぇ。私もカーリと一緒だったら、ドキドキしてしまって眠れないと思うわ」


 鼻を摘まんでいた指が離れ、それがさらりと頬を撫でていく。

 意識のざわつく感触だった。

 決して不快ではない、けれど封じておくべき感覚。


 あぁ。


 まどろみの中に差し込まれた異物が覚醒を促した。

 段々と自分のやっていることの拙さを理解していく。


 お嬢様が。

 そこに居る。


「っ、失礼しました!」


 起き上がろうとして、メェヌが覆い被さっていたのを忘れていた。

 つんのめって、結果的にすぐ傍らの、お嬢様の膝へ飛び込んでしまう。

「すっ、すみません!?」

 がばりと身を離そうとするのだが、メェヌが邪魔で一歩遅れた。


「あ、あははははは……ええと、いいのよ?」


 頭を撫でられる感触があり、やんわりと膝元へ押し付けられる。

 こ、これは……っ!?


「今日は二人を労おうと思うの。それに、こういうのなら私も……」

「ど、どうかご容赦下さい……」


 あまりの失態、あまりの状態に頭が沸騰しそうだった。

 今私は、エラお嬢様の膝に突っ伏す形で頭を撫でられている。

 まるで赤子か幼児ではないか。


「あら、残念」


 全精力を用いて身を離し、メェヌを脇へ転がして座り込む。

 どっと汗が噴き出た。


 面白がっていますがね、貴女の顔も結構赤くなっているのですよ、エラお嬢様。


 肌が白い分、僅かに差す程度でも目立つのです。

 などと指摘できる筈もなく。


「ふふ、真っ赤よ、カーリ」


 貴女もです!


「どうかこの事はお忘れください」

「いやよ。カーリの方から膝へ抱き付いてきたんだもの」

「誇張されています。メェヌが邪魔をしたから…………しかし全く起きませんね、この猫」


 誤魔化し半分で話を向けるが、実際に良く眠っている。

 寝る子は育つというのに、胸ばかり大きくなって、身長は然程伸びていないとは。


「痛いぞ」


 掴まれた脇腹に爪が立っている。

 仕事柄さして伸びていないのだが、痛いものは痛い。

 こいつめ、呑気に大あくびなんてしおって。


「そういえば、この布団の件なのですが」

「……え、なあに?」


 共にメェヌを覗き込んでいたお嬢様が、姿勢を戻して首を傾げる。


「どういった経緯でお嬢様の手に?」

「ええと……、元はメェヌが使っていたものよ。二人だけになって、私が寂しいからってメェヌの部屋へ押し掛けたの。その……私の布団は、家の者が王都へ発つ前に、駄目にされてしまっていたし」


 破り捨てられたか、汚物でも掛けられたか、なんて想像が出来てしまうくらいにはかつての環境は酷かった。

 置いて去った罪悪感を覚えつつも、まずはと言葉を待つ。


「最初はカーリの部屋から布団を貰ってきて、それを使おうとしていたんだけど、メェヌが駄目ですって。あぁカーリの部屋は、あのまま誰も使わなかったから、ずっと放置されていたのよ」


 まあ、当然の判断ではある。

 状態は別としても、男子の用いた布団を、貴人の、それも淑女に使わせるなど。


「だからメェヌが自分の使っていたものと、カーリの部屋のものを取り換えるって言いだして……そういえば、どうしてかその時物凄く悩んでいたわね? 言ってから何かに気付いたような、隠し事があるような、そんな感じだったけど」


 ふむ。


「私がメェヌのものを使うなら問題無いのでしょう? って言ったら、全くこちらを見ないまま布団を差し出されて、とても強く謝られてしまったわ」


 ふむふむ。

 つまりだ。


「下手人を引っ立てましょう」


 さっきからこちらの腰元にしがみ付いて、目覚めたのに寝たふりを続ける顔真っ赤な妹分の首根っこを、兄は容赦無く掴み上げた。


    ※   ※   ※


 羞恥を誤魔化そうとして笑うのに失敗すると、斯様に人の顔は愉快なものになるらしい。

 完全に目を逸らしてこちらを見ようとしないメェヌが、耳まで真っ赤にして口をわなわなと震わせている。


「つまり私が居なくなった後、私の布団と自分のものが入れ替わっていて、仕方なく使用していた。そう言い張るんだな?」


「だ、誰かが取り違えたんじゃないでしょうか」


「いや使用人の備品など自己管理が原則だ。私の部屋が放置されていたように、理由が無ければ他者の布団など触らない」


 分かり易い誤魔化しなんぞして、もっと素直に話せば良いだろう。

 お兄ちゃんが居なくなって寂しかったの、なんて言ってくれたなら、私とてこんな無慈悲な法廷を続けたりはしない。

 いや、もうちょっとだけ、楽しみたくはあるのだが。


「キッ……!!」


 こちらの内心を見透かしたのか、鋭く睨み付けてくるが顔は真っ赤である。

 怖さより愛らしさが勝る。

 全く、そろそろ兄離れしてくれんと心配になるぞ?


「顔!!」

「ははは、そうかそうか。布団なんぞに縋らずとも、今なら本物が居るんだ。なぁに、メェヌの為ならもうしばらくここで布団になってやるのも悪くないな」

「だから顔!」


 そう男子の顔を指差すものではない。


「しかしまあ、真実を告げられずお嬢様に私の使用していた布団を使わせたことについては、反省すべきことだろうな」

「それは、その…………すみませんでした」


 言うと、メェヌが目に見えて萎んだ。

 そう。およそ半年前、自分を頼ってくれた主より、自分の羞恥を誤魔化す事を優先したのだ。


 まあその罪状についてもお嬢様が愉しそうに笑っているので咎めは無いも同然。

 そもそも六年近くメェヌが使っていたなら、それはもうメェヌの布団だろう。干したり洗ったりを繰り返せば、私の残滓など残っているものではない。


「どうなさいますか、お嬢様」

「え? あ、私が決めるの?」


 話を向けると首を傾げられてしまった。

 一応、被害者ということにもなりますので、立場的にも貴女が決めるべきかと思います。


「そうねぇ」


 そんな訳で、新生ファトゥム家第一回家臣団裁判の判決が言い渡された。


「……それじゃあ、一人だけ仲間外れで悲しかったから、今日は三人で並んで寝ましょうね」


 ……………………うん?


    ※   ※   ※


 ゆっくりと陽が落ちていって、その時間の中で私達は語らい、時に触れ合って、時に反発を受けながらも、最後の一日を過ごした。


 明日には総督位の移譲が正式に執り行われる。


 感慨深いようで、何でもないような。

 かつて私があれほど必死に突き崩そうとした家が、まるで別方向からの打撃を受けて勝手に滅びたのだ。


 それが正しかったかどうかを語る口は持たない。

 けれどもエラお嬢様が、あんなにも愉しそうに笑ってくれている。

 過程はどうあれ、今この一時にある幸福は間違っていないのだと、そう思う。


 そうして虫の音も遠のいた夜深く。

 メェヌの小さな手が私とエラお嬢様の間から伸びて、蝋燭の火を摘まんで消す。後に残ったのは、すっかり短くなった蝋燭と、小さな寝息一つだけ。

 枕を抱いて、うつ伏せの状態で先ほどまで愉しげに話をしていた、寝間着姿のエラお嬢様が、いつの間にか目を閉じている。

 心地良さそうに、何の不安も孤独も知らない、赤子のようにも思える寝顔だった。


「少し、話しませんか」


 しばらく無言のままでいたら、メェヌが小声で言ってきた。


「分かった」


 共に起き上がり、乱れた布団をしっかりお嬢様へ掛け直すのを見守ってから、

「休憩室でいいですか」

「あぁ。出来るだけ、手短にな」

 お嬢様が寂しがる。

「分かってます。当然です」


 そうして月明かりだけを頼りに地階へと降りていき、向かい合わせに腰掛ける。

 少しだけ視点をズラし、斜めにすれ違いながら、残っていた差し水を口に含む。

 先ほどまでの熱が一緒に胃の腑へ落ちていって、後には夜の静けさと、冷たさだけが残った。


「どうして、エラ様を置いて行ったんですか」


 やはり、それを聞かれるか。

 あまり口にはしたくない話だ。

 どこまでならば、なんて考えこんでいたのが知られたのだろう、あからさまなため息が向かい側から落ちて、椅子の上のメェヌが膝を抱き込む。


「裏切り者」


 呟きは雫が湖面を鳴らすのに似ていて。


「一緒に居てくれるって言ったのに。お嬢様を一人にして。自分だけ外の世界へ飛び出して。私はなんにも出来なかったのに。たった数日でなにもかもを変えていって。エラ様があんなにも愉しそうにしてます。ズルいです……」


「すまなかった」


「そんな言葉だけじゃ許しません。許さないんですから」


 抱えた膝と、回した腕に顔を埋めて呟くメェヌは、まるで泣いているようにも見えた。

 けれど六年をエラお嬢様と共に過ごし、更にはこの半年を一人でお支えしてきた女の子は、見違えるように強くなっていて。


「別にいいです。その内にまたふらっと居なくなったって、私はエラ様の側に居ますから。朴念仁は好き勝手やってればいいです」


……」


 そんなことはしない、とは言い切れなかった。

 既に一度、お嬢様を置いていった。

 また何か彼女を脅かすものがあって、自分が離れることで助けられるのであれば、同じような選択をするのかもしれない。


「はーいはい。しょーがないですね。しょーがない人ですね。馬鹿な人達です。もっと簡単で、もっと馬鹿な、分かり易い方法だってあるのに」


 メェヌは顔を挙げて、すっと遠くを見つめた。


 何を考えているのかは分からない。

 何を見て、何を諦め、何を望んでいるのか。


 すっかり成長した妹分の横顔は、何故かさっぱりとした表情で口端を広げている。


「一つだけ聞かせて下さい」


「あぁ。なんだ」


「エラ様のこと、好きでしょう?」


「あぁ、好きだ。あの人のことを一人の女として見ている。懸想している。使用人としては失格だ。だが線引きは」


「いいですよ、それ以上は余計です。即答してくれただけで十分ですから。あーあ」


 弾んだ吐息があったと思えば、椅子の上で身を揺らしたメェヌが笑っている。

 膝を抱いたまま前後に揺れるから、今にも崩れそうなのに、猫みたいな器用さで遊び続ける彼女が居る。


「貴方がどこかに行ったって、私はエラ様と一緒に居ます。頼まれたからじゃないです。私にとっても、とても大切な、もう居なくなった家族みたいな気持ちで接してます。あの人が大切です。今みたいに笑っていて欲しいです。だから、朴念仁がどこかに行っちゃっても平気です」


 だから、思う存分やれと、そう言ってくれているのがようやく分かった。


 この先どんな困難があるのかは分からない。

 道づくり自体が王の勅書によって指示されている。

 現地貴族との連携だって必要だろう。

 貴族。

 生まれと血を誇示し、一撫でに何十人何百人を切り捨てる者達。

 時に自分の娘すら家の隅へと追いやり、平然と飼殺す。

 そうではない、それだけではない者達のことも知っている。

 けれど後ろ盾の無い身でその懐へ飛び込んでいく以上、理不尽は幾らでも降りかかってくるだろう。

 手段は選ばない。

 となればやはり、時として傍を離れることだってあるのだろう。


「俺からの言葉は余計だろうが、頼む。お前を頼りにしている。叶うのならば、二人でエラお嬢様をお支えしていきたい」


「そこは……俺のエラを頼む、くらい言ったらどうなんです?」


「そんなっ、こと、は……言えるわけないだろうっ」


「ははっ、詰まり過ぎです。ばーかばぁーか」


 何が楽しいのか、俺を馬鹿にしてはと笑いだす。

 兄貴分としては情けない限りだが、頼りにすると言ったばかりだ、これも強くなった証と認める他ない。


「ん、しょっと!」


 散々笑いものにした挙句、椅子の上からくるりと後方へ跳び上がったメェヌが休憩室の戸口に着地する。

 相変わらず凄い身のこなしだ。

 精霊の加護を受けている、なんて昔は眉唾だったが、今ではすんなり呑み込める。


「あ…………………………」


 一人呆れたり納得したりしていると、メェヌが戸口の脇へ視線をやって固まった。

 ともあれもう遅い。

 話し込んでしまった。

 彼女が席を立ったこともあり、私も立ち上がる。


「そろそろ戻るか。明日は早くに出るんだ、しっかり寝ておくべきだろう」

「あーっ、えーとーっ、もうちょっと! もうちょっとだけ話したいことがあってですねーっ!」

「言っただろう。明日は早い。二人には馬車を用意しているが、アレも中々疲れるものだ。体力は十分に」

「うるっさいですねえ! 妹分がもうちょっと話したいって言ってるんですから素直に聞いて下さいよ!」

「いやお前がうるさいよ。どうしたいきなり、お嬢様が起きてしまうだろう。騒ぐんじゃない」

「それについては問題無いというか、大丈夫というか、あー……ええとー、もう大丈夫? だいじょーぶ? 大丈夫そうですねぇ、それじゃあ今から戻りますか。戻りますよー」


 なんなのだ。


 急に道化じみた振舞いまでして。

 もしかすると本当にもっと話していたかった?

 それとも私を励まそうとしている?


 年頃の娘の考える事は分からないと、あちらでも散々相談されたものだしな。私にも相談する相手が必要になるのかもしれない。


「む…………なにやら上階で人の動く気配が」

「なんなんですかその無駄に鬱陶しい感覚。異国で勉強すると身に付くんですか」

「そんなことはいい。物取りかもしれんし、急ぎ調べよう。まずはお嬢様の無事を確認すべきだ」

「まあ……無事じゃない気もしますね。明日が楽しみですね」


 何を言っているか分からないが、まずは警戒を。

 寝室で戸口に背を向けて眠るお嬢様を確認した後、各部屋を回り、戸締りをして回った。ガラスの割れている場所に仕掛けておいた罠は作動も解除もされておらず、問題は無い。


「どうでしたか」


 戻った時、既に布団の中にあったメェヌは何故かお嬢様の頭を抱く様にして寝に入っていた。せめて起きて警戒していて欲しかったのだが。


「うむ。特には何も無かった。気のせいか……最初にお前が騒いでいた時も、微かに気配を感じたんだが」

「そうですか、もういいですから早く寝ましょう」

「いや、もう一度改めて確認をだな」

「はいはい。ほら、添い寝してあげますから、いい加減落ち着いて寝ましょうね。あまり騒がせないで下さい。エラ様が起きてしまいます」


 そう言われては動き難い。

 幸いにも私が戸口から最も近いし、警戒しつつ眠ればなんとかなるか?

 まあ元よりその手の感覚は彼らほど鋭くはないし、よく獣なんかを誤認していたからな。


「本当に、世話の掛かる人達です」


    ※   ※   ※


 翌朝から、妙に強い視線を受けることが増えた。


「じぃぃぃぃぃ…………」


 気付けばどこからかお嬢様に見られていて、


「あの、なにか……?」

「えっ!? あっ、なんでもないの!」


 応じれば逃げられる。


「さあ。変な顔をしているから気になるんじゃないですか。ふふ、良い薬です」


 メェヌに相談しても辛辣な言葉を向けられるだけで解答は得られず。


「――――それが終わりましたら次は、その……お嬢様?」

「……………………」

「お嬢様?」


 今後の打ち合わせや報告をしていると、気付けばじっとこちらを見詰めたまま上の空になっているお嬢様が居て、どうにも落ち着かず。


「お嬢様、こちらをどうぞ」

「ありがと、きゃっ!?」


 僅かに指が触れ合った途端に大慌てで逃げられてしまったりもした。

 昨日までもっと近かったり、肩が触れ合う場面だってあっただろう。それはまあ、私も緊張していたのだが、むしろお嬢様は全く平気そうにしていたというのに。


 そんなこんなで。


 いろいろあって、いろいろを終えて。


 私達は故郷を出た。

 向かう先は、世界の最果て。

 約束の地へと続く道を成す。


 途方も無い事業の始まりだ。





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