5-7
コテージの周りで虫たちの声が、りーりー、りーりー、と勢いよく響いています。ベランダに置かれた蚊取り線香の煙が網戸を通り抜けて漂って来て、なんだかノスタルジックな気持ちです。ベランダに出ようか少しだけ迷いましたが、やぶ蚊に刺されてしまうのを恐れて、網戸の前にぺたりと座るだけにします。林を通ってきた涼やかな風がお風呂上がりの首筋を撫でていき、大きく深呼吸をしました。
カラン、と背後で音がして、振り仰ぐとお盆を持った颯くんがこちらへやって来るところです。裸足の足で畳を踏む様子がなんだか新鮮でくすぐったいような心地になります。
「水分摂れよ」
「わぁ、ありがとうございます」
グラスの中身は麦茶です。かすかに水滴のついた冷たいグラスを受け取ったのを確認してから、颯くんはお盆を置いて隣に座り込みました。足を投げ出してリラックスした姿勢です。
結局、諸々が夜までかかってしまったので、私たちは先生の確保して下さった保養所に宿泊することになりました。夕飯のテーブルに御厨さんの姿はありませんでしたが、お盆に取り置いた夕ご飯を八神さんが運んで行くのをお見かけしました。
*
あの直後、バタバタと大勢の足音がして、私と颯くんが登ってきた石段から複数の人影が上がってくるのが見えました。
これは何が起きているのでしょう、と辺りを見回していると、カッと強い光源がこちらに向けて光りました。明るくて目が眩み、その光を遮った手の指の隙間に、よく見知ったものが覗きました。黒足袋にメタリックな草履。思わず「あっ」と声が出ます。
「動くな! 両手を挙げて頭の後ろに回せ。警察庁刑事局、組織犯罪対策部だ」
物々しい雰囲気の集団を率いているのは、なんと胡桃沢さんです。私は自分の口がぽかりと開くのを感じました。
「梅小路實朝だな、逮捕状が出ている。任意同行願えるだろうか」
力なく項垂れる梅小路實朝は、何名かの警官に付き添われながら連行されて行きます。周りにいた術者らしき信者たちも、水源近くで立ち働いていた人達も、逮捕と言うよりはどうやら保護されたようで、付き添いの警官に促されて、ゆっくりと歩いて行く姿が目に入りました。
一連の流れを見送りながら、胡桃沢さんがこちらに足を運びます。
「騒がせたな」
「……っ!」
何ひとつ言葉になりません。胡桃沢さんっ、警察の人だったんですか? 胡桃沢さんっ、カウンセラーさんではなくて? 胡桃沢さんの両脇にいらした物凄く屈強な方達は、もしかして部下だったりしますっ?
よっぽど顔に出ていたらしく、胡桃沢さんは二度三度と瞬きをしてから、可笑しくてたまらないと言うふうに笑い出しました。
「なんっ、何だその顔っ! 鳩が豆鉄砲を食ったようってこの事かっ!」
「酷いですよ!」
「うんうん、後で説明する。颯少年、悪いが片付けを頼む」
慌ただしく羽織を翻して胡桃沢さんが丘を降りて、それから、颯くんは御厨さんのフェアリーも含め、あの辺り一帯に祓いを施しました。
札を複数枚行使しての大掛かりな祓いはとても荘厳で、大きな明るい光の柱が何本も網目のように張り巡らされ、角度や色を変えていく様は美しくすらありました。ここに集っていた人々の想い、救いを求める心、たくさんの魂たちが、一斉に光を放ちます。
これまでの堆積が多すぎて一度には祓い切れないという話でしたが、恐らくフェアリーはもう、戻って来ません。
暮れていく空の下で、丘を覆う空気がどんどん清浄になっていくのをいつまでも見ていたいような気分になりながら、私はそっと涙を拭いました。
*
「結局、山神は現れなかったな」
それです。私は自分の両手を前に突き出して、じっくりと眺めます。何となく軽くなった気がしないでもありません。今のところほどけそうな形跡もないのですが、これは一時的なものなのか、それとも呪が解けたのか、いまひとつ分からないままなのです。
「変わってないようにも見えますが……呪は解けたんでしょうか。どっちだと思いますか?」
颯くんはこちらに向き直ると、ほどけた指を編み直す時と同じように私の手を取りました。そのまま数秒じっと眺めたあと、私の手をそっと自分の方に引き寄せて、まるでとても大切なものを扱うように、本当にそっと、私の手の甲に口づけをしました。
「わっ…………」
「好きだ。……って言ってなかった、ちゃんと」
上目遣いでこちらに目をやった颯くんが、小さく舌を出します。
「ヤべ。待つって話だった」
それはそうですけど。それは、そうなんですけれど。
何だか少しムッとしてしまったのは、どうしてなんでしょうか。私は自分でもそれと分かるくらいに頬を膨らまして、でもこれって甘えているのでは? という考えが頭を掠めて一旦引っ込め、しかしそれを打ち消すように颯くんの黒い瞳を正面から見据えると、思い切って両腕を伸ばし、その身体をそうっと抱き締めました。ややあって颯くんの両腕が私の背中を包み込むように柔らかくて回されて、私たちはしばらくそのままの姿勢でお互いの心臓の音を聴きながら、夜風を浴びて過ごしました。
*
その晩、私は夢を見ました。
夢の中の私はいつか父と訪れたお屋敷の敷地に立っていて、屋敷の中では白いお爺さんが私を待っていることを知っていました。玄関を上がり、見知った廊下を通り、角を折れ、いつかと同じお座敷まで辿り着くとその中に入ります。
座敷に配された座布団の上に座ると、正面にはやっぱり白いお爺さんがいて、嬉しそうにこちらを伺っていました。
「ありがとうな、お嬢さん」
「いいえ、礼には及びません」
「そうか、頼もしいな」
お爺さんはふわふわと笑って、その拍子に白い口髭がしゅるしゅると少しほどけました。まぁ、大変。目を丸くしていると、お爺さんはたいして慌てた様子もなく糸を捕まえ、そのまま頬をポンポンと軽く叩きます。……元に戻りました。
「そうそう、これをな。お嬢さんには少しばかり不便だろうから、もうおしまいにしてやろう。ほれ」
お爺さんが手を振ると、私の手の指先が白く眩い光に包まれ始めました。熱かったり痛かったりはしません、ただひたすら眩しくて、目が眩みます。
「少しばかり余計なものも見えてるなぁ。それも持って行ってやろうか?」
私は慌てて首を横に振ります。
「これは大丈夫です。だって私、呪には驚きましたけど、恨んだり、辛かったりはしてないんです」
「そうかい」
「はい。だから、願うとしたら……」
「願うとしたら?」
いつも颯くんが祓いをする時に感じる祈り。それを私は口にします。
「在るべきものを、在るべき場所へ。それだけです」
お爺さんは嬉しそうに何度も何度も頷くと、ニコニコと頬を緩ませます。なんだか私まで嬉しくなって一緒に笑いました。穏やかな時間。穏やかな夢。……あ、夢です。そう気がつくと同時に目が覚めて、それから、私には自分の指先がもう二度とほどけない事がわかったのでした。
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