2-7

 ポツリ、ポツリと雨が降り始めました。傘をさす程ではありませんが、私たちの足元のタイルにまばらな水玉模様を描こうとしています。


「この場所がなくなるの、嫌だったんだ」


 観覧車に目を向けたままで、その輪郭をなぞるように静かに立ち尽くす中薗さんの声です。雨の中に溶け込みそうな小さな声。彼の姿を目に映すうち、私の胸の中に何かが流れ込んできて、その勢いに身を任せるつもりで私は目を閉じます。

 それはまだ小さな子供の彼が、両親と手を繋いで、タイルの上を跳ねるように歩く姿。ある時は祖父と、ある時は妹と。彼にとってこの遊園地は必ず笑顔になれる場所。気難しい祖父も、仕事に忙しい両親も、その不在を寂しがって泣くことが多かった妹も、ここに来れば必ず笑顔が溢れる救いの場所。初めて恋した時も、初めて失恋した時も、変わらず彼を受け止めてくれた場所。

 この遊園地の創始者一族の者として近隣に構えられた自宅に住まい、雨の夜も晴れた朝も窓の外で穏やかに回り続ける観覧車は、いつしか、彼の心の支えとなっていました。


「閉園になることを受け入れられなかったんですね。たくさんの、あまりにも多過ぎる思い出が詰まった場所だから」


 夢に浮かされるみたいに自然と言葉が溢れました。閉じていた目を開くと、中薗さんが振り返って私を見ています。それで、いよいよ流れ込んでくる感情の奔流は大きくなり、見える景色がパノラマ状に広がり始めます。

 メリーゴーランドに乗る妹は頬を薔薇色に染めて笑っています。回転ブランコから見下ろせば嬉しそうに手を振ってくれる両親。お土産物を選んで振り返ると頭を撫でてくれる祖父。観覧車のゴンドラに隠れて落書きをした初恋の甘い思い出。


「どれも大切で、失くしたくなくて、それで貴方はこの場合をもっと多くの人に訪れて欲しくて」

「……おい、翠子」


 颯くんに名前を呼ばれて気がつくと、頬を冷たいものが伝い落ちていました。慌てて両手で拭いますが後から後から溢れてきます。面倒そうに唸った颯くんがこちらに手を伸ばしました。その手に握られているのはふかふかで温かい、ハンカチタオル。


「拭いとけ。祓うぞ」

「あ……はい。あの、すみません」

「そんで中園顕嗣、アンタの言いたい事はわかったが、やり方が違うんだ。わかるだろ?」


 彼としてはおまじないくらいの軽い気持ちで施した呪だったのです。結果として再開発の計画には遅れが生じ、心霊スポットとしてここを訪れる人は増えましたが、それは中薗さんの望んでいた姿ではないはずでしょう。


「そうだね。今はまだ君は力のない子供かも知れないけれど、いずれ中薗家を継ぐ存在として育てられているのでしょう。そう遠くない未来に、君の夢を叶えることは出来るんじゃないだろうか」


 勧修寺先生が静かに語りかけて、その言葉に中薗さんが、ゆっくりと、噛み締めるように頷きます。


「じゃ、祓うぞ」


 シャラァーー……ーン……

 シャリィィー……ーーン……


 水琴鈴を構えた颯くんが短く宣言して鈴を鳴らし始めます。途端に周囲の空気が清涼になり、雨粒の落ちてくる時の音までが、一粒ずつ耳に届くようです。私はその音ごとを飲み込むつもりで深く息を吸い込みました。


「……けまくもかしこき 伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ

 筑紫つくし日向ひむかたちばなの …………」


 いま、自分の中に読み込まれていた中薗さんの心の気配や、呪の手触り、この場所に浮かぶ様々な想いが、綺麗な螺旋を描きながら自分の身体から浮き出していく……そんなふうに感じます。


 シャラーー……ーン……

 シャララ……シャララン……シャラァン……


 気が付けば、八神さんの持っている土鈴からも、先生が持っている土鈴からも、音の波動に揺さぶられるように結界が解けて、細い糸状の流れがふわり、ふわりと紡がれていきます。淡くやわらかな流れはだんだんと同じ方向に撚り集まり、ひも状に綯われ、ゆるやかに螺旋を形作っています。

 颯くんが左手の手のひらを何かを受けるようにそっと差し出すと、そこへ念のうねりが集まりだし、左手が光を帯びるのが見えました。私はポケットから取り出した小瓶の蓋を開けて構えます。


「……はらたまきよたまへと もうす事をこしせと

 かしこかしこみももうす……」


 一瞬、この場所だけに陽の光が差し込んだ気がしました。明るくて晴れやかな、清浄な場所。それがだんだんと大きく膨れ、広がり、キラキラした光の雫が舞うように展開されていきます。まるで光を湛えた花畑。なんて美しいのでしょうか。

 耳に、かすかな笑い声の残滓が残り、それもまたすぐに泡になって消滅します。手の中の小瓶がコトリとちいさな音を立て、颯くんが息を吹きかけて……気が付けば、辺りは静寂に満ちていました。


 *


「ちょっと、烏丸颯! あなたねぇ、レディを泣かせてるんじゃないわよっ!」


 祓いが済んでから、すぐに目くじらを立てて颯くんに食ってかかったのは御厨さんでした。私は慌てて、まるでレフェリーのように両手を振りながら、二人の間に割って入ります。


「あぁっ! 待ってください、これはそういうのとは違うんです! あの、なんかこう、人の想いを読み込むと勝手に溢れてくるというか」

「本当にぃ? 庇い建てしてるんじゃないでしょうね」

「いえ、本当に……単純にキャパオーバーと言いますか……お恥ずかしい話です」


 ふぅん、と訝しげに眉根を寄せた御厨さんですが、お隣から八神さんに嗜められて、まぁいいわ、と一旦は表情を和らげます。が、荷物を片付ける側を離れる気配がありません。不思議に思っていると、八神さんにポンと背中を押された御厨さんが、つんのめるようにこちらにやって来ました。背後では八神さんがニコニコしながら頷いています。これは、何事でしょうか。


「ねぇ、あなた……翠子さん、私たちの所へ来ない?」

「私たちの、ところ……?」


 ぎこちなく、可愛らしく名前を呼んで下さって嬉しいのですが、私は首を傾げてしまいます。すると、いつかのように両手のひらを空に向けるリアクションのあと、つんと唇を尖らせました。


「あーあ、鈍いのねぇ。TSCはあなたを歓迎するって言ってるのよ。浄化室なんかよりずっと待遇は良いし、メンバーが多いからライフワークバランスも取りやすい。何より蔵書やデータも多いの。きっとあなたの求めている情報に触れられる。ね、そうでしょ、廣太郎」


 指折り数えながら利点を挙げて下さるのですが、えーと。えーと、この場合、私は何と答えたら。

 ますます混乱する私に、八神さんが柔和な微笑みを向けます。そう言えば八神さんの髪、こんな雨がちのお天気でもサラサラのストレートです。


「要するに移籍しないかって話です。今日、翠子ちゃんの能力を拝見していて、僕らのチームに来てくれたら助かりそうだなーって、エリィと話してたんです。どうでしょう?」


 最後の投げかけは私と言うよりも先生と颯くんに向かって、でした。私はきっと動揺した表情を隠せてないだろうとは思いましたが、でも、二人の方を伺わずにはいられません。

 正直なところ、御厨さんのお話にある環境はとても魅力的だとは思います。ですが……ですが。私には勧修寺先生と颯くんに助けられた背景もありますし、まだ何かを修得できたという成果もなく、何よりも、まだ……私は何のお返しも出来ていませんし、何も、伝えられていないのです。

 先生の眼鏡の奥の目が私と、それから颯くんを順繰りに辿りました。颯くんはさっきからじっと下を向いたまま立ち尽くしています。


「まぁまぁ、お二人とも。梅小路さんは確かに将来有望ではあるけれど、まだまだ見習いの域を出ない訳だから。こちらでしばらく預かるって事で、今回はご納得頂けないだろうか。ワークライフバランスとやらも、なるべく善処する方向で考慮致す所存です」

「あはは、お役所的ですね」

「僕もお役所勤めが板についたってことかな」


 先生が取りなすように間に入って下さり、その場はひとまずお話が流れました。

 私たちはそのまま来た時と同じ私鉄を乗り継ぎ、大きめのターミナル駅で別れる頃には「帰り道におでんを食べよう」という話をしていたことなどは忘れてしまっていました。

 事務所に立ち寄ると言う先生と別れ、私と颯くんは言葉少なのまま地下鉄を乗り継ぎします。私が口下手なのはともかく、颯くんが愛想を振りまくタイプでもない事もともかく、今夜はどうにも空気が重く感じます。

 窓に映った車内の様子を見るともなく眺めながら、去り際の先生の言葉を思い出します。


「颯くん、貸しイチだからね」


 いつもなら不穏な唸り声をあげそうな颯くんが黙ったまま先生を見送ったことにも、そのあとに舌打ちではなく溜息を吐いたことにも、違和感を禁じえません。

 最寄り駅が近づき、アナウンスが車内に流れた時、颯くんがふと目線をあげて私を見ました。疲れた顔ですが、どこかぼんやりして見えます。


「悪ぃな、今日」

「いえ。あの、お天気も悪かったですし、少し疲れましたよね」

「……あの二人の相手は疲れる」


 あぁ、それはそうですね。そこはかとないパワーがあると同時に、何かを持っていかれているような心地もします。


「ただ……ちっと、な」

「ちょっと、何ですか?」

「……アンタにとって、ここは本当に良い環境なのかって」


 地下鉄がゆるやかに減速し、最寄り駅のホームに滑り込みます。電子音に背中を押されるように機械的にホームに降り立ちました。


「あのっ、…………お疲れさまでした、また明日」


 振り返って、でも、何から口にして良いかわからなくて。それで、この先へ繋がるための挨拶を唱えてみます。ホームドアと電車のドアが騒々しく閉まる向こう側で、ガラス越しの颯くんの表情は逆光になり、あまりよく捉えられません。ただ、薄い唇が「またあした」と、そう動いたように見えました。確証は持てないまま、けれど、走り去る電車の姿をただ見送るしかないのでした。

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