1-7
遅い時間帯にもかかわらず、お店の中は活気にあふれ、たくさんの人がいます。誰もが串を頬張り、ジョッキを傾けて笑顔になる。そう、ここは地下街の焼き鳥屋さん。私は初めて居酒屋という場所に来ております。
「とりあえず生……双樹は飲まないし、梅小路は飲めるんだっけ?」
「は……いえ、あの、あまりお酒を飲んだことが無くて」
「そっか。じゃ、生二つ。こっちは烏龍茶あげて。あと適当に頼んでいいか?」
「お願いします!」
カウンターの端に腰掛けた胡桃沢さんは、メニューをひと睨みしてから、すらすらとオーダーを済ませてしまいます。よく来るお店なのだそうで、店員さんともニコニコと会話を交わしています。
私は少し所在ない気持ちになって、反対側でカウンターに頬杖をついている勧修寺先生に目を向けました。祓いが完了してから先生はずっとぼんやりしています。
「……体調はどうですか?」
躊躇いがちに声をかけてみると、目線だけこちらに向けた先生がわずかに笑顔を作りました。丸い銀縁眼鏡の奥の目が緩やかに弧を描きます。
「心配ないよ。颯くんも言ってた通りだからね。明日の出勤も問題ないくらいだ」
「はい。でも、あまりご無理はなさらないで下さい」
颯くんの見立てによれば、ゲームブックの呪が発動した瞬間から、先生を守護している存在によるバリア的なものが発生して、先生を包み込んでいたそうです。
勧修寺先生が普段、霊的な類のものを一切感知出来ないでいるのは、ご兄弟にあたる存在が目や耳を丹念に塞いでは阻止しているからなのです。それは先日、私たちが祓いを行なったさるお屋敷の中で、磁場か何かの関係で目にしやすい状態に変化していた為、分かった事でした。
先生には、胎児の頃に消えてしまった双子のご兄弟、いわゆるバニシングツインがいたそうです。高い霊力をもったその方が、二本の木を意味する双樹というお名前の由来の通りに、今でも、勧修寺先生に寄り添い、守り続けているのです。
「それにしても、颯くんが来ないとはね」
「ええ、お腹空いてたでしょうに」
帰り道、遅くなってしまったのでご飯を食べて帰ろうという胡桃沢さんのお誘いに、颯くんは首を横に振りました。
「俺、パス」
「珍しいな」
「寄るとこあっから」
それだけ言い残すと、地下鉄に続く階段を降りて行った颯くんの背中を思い出します。こんな時間から用事とは、一体どこへ向かうのでしょう。それに、最近特に、自転車通勤の頻度が減ったように思えます。
「しかし、素晴らしい体験だったなぁ」
隣で恍惚とした表情を浮かべる先生が、お皿から焼いたプチトマトの刺さった串を取り、じっくりと眺めてから頬張りました。
「……そんなに良いものでもないです」
思わず呟いてしまってから、誤魔化すように、ささみの刺さった串を口に運びます。塩加減がちょうど良く、少し乗せてある柚子胡椒もとても爽やかです。
このお仕事に就いてから、たくさんの人の「心の闇」とでも言うべき物を目の当たりにして来ました。愛するあまり育ってしまう執着や、大切に想いつつも相手を妬んでしまう心。
紐解いてみれば、どれも本当に誰でもが持ち得るもので、誰だって怪異とは隣り合わせで生きているように思えます。
「僕はね、ずっとずっと、この目で怪異を見てみたいと思ってやって来てね。なんて言うのかな……環境が環境だったのもあって、周りの皆が見ている世界を僕だけが知らずに来ていることは、やっぱり悔しくて」
勧修寺先生のご実家は、その筋ではとても有名な陰陽師の家系なのだそうです。
その家系で、数百年に一度の力を持つ存在として胎児の頃から期待を集めてきたところ、双子のご兄弟が消えてしまった途端、その恐ろしいまでの力も消滅してしまった、という背景がありました。
私は少し、無神経な発言をしてしまったかも知れません。
「あの、」
謝ろうとして先生の方を向けば、いつものアルカイックスマイルを湛えた顔が、こちらを覗き込んでいるところでした。
「なーんてね。単純に、目に見えない世界にロマンを感じるところが大きいんだ。だから、梅小路さんはじゃんじゃん、技術を身につけたら良いと思う」
「じゃんじゃん、とは行かないかも知れませんが……そのつもりでは、あります」
「僕で良ければ、何でも、力になるよ」
無精髭を生やしたお顔の勧修寺先生は、カウンターの
そう言えば。先生には誰か特定のお相手はいないのでしょうか。あまりこうして終業後にご一緒することもなく、そうなるとこういったお話をする機会もないものです。
……と、反対側で歓声が上がりました。振り返ると胡桃沢さんが何やら賞賛を浴びています。どうやらまたしても何かの賭けに勝利したみたいです。
「ま、私にかかればザッとこんなもんだ」
芝居がかった高笑いをしながらカウンターの内側から差し出されたお皿を受け取ると、備え付けの七味を無造作に振りかけています。
「ぼんじりはタレ派なんだがなぁ」
どうやら本日の戦利品のようです。
ジョッキの中身を飲み干した胡桃沢さんは、私の前に置かれたビールを見て、ちょっとだけ唇を突き出して見せました。チビチビと舐める程にしか飲んでいなかったのです。
「得意じゃなかったか」
「えーと、あまり飲み慣れないもので」
顰めた眉根もお綺麗で、ほんのり霞がかった頭で、女優さんみたいだなぁと思ってしまいます。
勧められたつくねを食べていると勧修寺先生が追加オーダーをする声が聞こえました。椎茸を塩とタレで一本ずつと、ししとう。
「あの、先生……さっきから野菜しか召し上がってないですよね」
「そうだったか。そしたら……厚揚げおろしポン酢下さい」
「えーと、だから」
こんな時、颯くんがいたら自由自在にツッコミを披露してくれるのですが、私にはなかなか難しくて、つい振り回されてしまいます。
同じように颯くんのことを思い出したのか、胡桃沢さんが、ふふ、と区切るように笑います。
「知ってるか梅小路。颯少年は最近、都内某所で修行をしているそうだ」
「……修行、ですか?」
「後輩が出来たから強くなりたいのだと。ちと目を離した隙に、少年は青年になるものなんだな」
あぁ、それで最近は自転車じゃないんですね、と納得したのと同時に、あんなに強くて何でも出来るように見える颯くんでもまだ、強くなりたいと思うものなのかと驚いてしまいました。凄いなぁ、果てしない。
強くなりたい、自分の手足で生きていきたいと、そう思ってこの世界に飛び込んできたはずなのに、最近の私はちょっとの事でみっともなく揺れてしまったりして、なんだか情けない日々が続いているように思います。梅雨空のせいにしている暇があったら、颯くんのように、何か次の一歩を踏み出した方が良いのかも知れません。それがどこから始まって何処にたどり着けるのかはわかりませんが。でも、それでも。
私は木のカウンターに乗ったまま汗をかいているビールジョッキを持ち上げて、ひと口、ゴクリと飲みました。強い炭酸が喉を通り抜けて行きます。私だって、強く、なりたいです。
「勧修寺先生、相談があります」
パチクリと、ひとつ大きく瞬きをした先生は、すぐにいつもの表情に戻ると「もちろん。乗るよ」と答えて、手にしていた
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