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「その理屈なんだけどね?」


 沈黙を破ったのはまたしても勧修寺先生の声でした。まん丸い銀縁眼鏡のブリッジを中指の先で押し上げながら、一歩前へと踏み出します。


「残念ながら、僕はその手の物がまったく感知できない体質でね。どれだけ強靭な呪を纏っていようが、どんなにおどろおどろしい怪異であろうが、残念ながら僕には何もわからない」


 そう言うと先生は顔を顰め、角度を変えながら、あるいは眼鏡を少しずらしながら、一生懸命に私のことを見ようとします。やがて諦めたように首を横に振りました。


「僕が目にできるのは単なる梅小路さんそのものなんだよねぇ。もちろん、あなたのことも。ごく普通の、車いすに乗った壮年男性にしか見えていない」


 それにねぇ、と今度は颯くんに目線を投げます。考え込む素振りをしていた颯くんですが何かを察したようにハッとした顔になり、吊り上がり始めた先生の口を抑えに跳びかかります。


「ッ!! 余計なこと言うんじゃねぇっ!」

「どうしてかな? 幼少期の初恋は本当のことだろう?」

「……うるせぇ」


 颯くんと先生はその場でしばらく小声での鍔迫り合いを繰り広げていましたが、どうにか決着がついたようです。肩で息をする颯くんと、やれやれといった表情の先生が、再びこちらに向き直ります。


「まぁとにかく、僕らに限った話で言えば呪とは関係ないものなんじゃないかなぁと思うんだけど、どうだろうか」


 呪やその類のものがまったく感知できない先生の体質は、時としてリトマス試験紙のように真実を教えてくれます。

 私たちは時々、自分の視えている世界が全てで、それが揺るがないものだと思い込んでしまいがちですが、物事はひとつの側面だけで出来ているのではありません。きちんと見て、確かめて、考えなければならないのです。


「どんだけ立派な教祖様のつもりか知んねぇが、魂もない奴らにかしずかれて暮らして楽しいか? それって逆に詰んでねぇ?」


 辛辣に聞こえますが、それも一理あるかも知れません。水源で作業をしている大勢の人たちは、のっぺりとした表情のまま、淀みなく作業を続けています。助けるようにと命じれば別なのかも知れませんが、縁を繋いだと言う割には関係が希薄すぎる気がします。


「知ったような口をきくな! 僕は教団の三代目を継ぐんだ!」

「だから、それってアンタが利用されてるだけじゃねぇ? 大事だったらアンタの脚、今ごろそんなことになってねぇよな」

「そんな……ことは……」


 力ない呟きが耳に届きます。私は梅小路朝日に向き直ると、その顔を覗き込みました。痩けた頬、細い手脚、落ち窪んだ目の下に大きな隈を作った彼は、先程までとは違ってとてもか弱い存在に思えます。ここからあまり出ることもなく暮らしてきたのでしょう。


「もし仮にあなたが言うように、今現在の私の周りの人間関係がこの呪から生み出された物だとしても、私はまたから築いていける自信があります。だって、私は、私の周りに居てくれるみんなの事が大好きだから。例え千切れても、途切れても、何度でも最初から結び直します」


 誰かと関わることも、誰かを知ろうとすることもなく、ただひたすらこの暗がりの中で教団を支える三代目でいようとした彼は、見ようによっては被害者かも知れません。


「私たちがこれまで築いてきた絆は簡単には途切れませんし、だから……あなたの言いなりにもなりません。……もう、やめませんか?」

「やめ……る? 何をだ?」

「もちろん、この教団をです。すぐには難しいのかも知れませんが、少し考えて見てはいかがでしょう」


 それきり呆然と黙り込む梅小路朝日の前に、今度は颯くんが立ちます。その手には水琴鈴を持ち、黒色の瞳が凛とした灯を帯びています。


「祓うぞ、いいな」


 シャラァーー……ーン……

 シャリィィー……ーーン……


 短く宣言して鈴を鳴らすと周囲の空気が清涼になり、それは目を見張るほどの速度で広がり始めました。小さな旋風にも似た流れは水源を撫で、そこで作業をしている人達を包み込んで動きを止めさせ、更に天井付近までをゆったりと覆います。

 まるで地の底から湧き水があがってくる時の音までが聴こえてくるようです。奔流と呼ぶに相応しい大きなうねりとなったそれは、長年籠ったままだった古い空気を押し出すように吹き荒れます。


 シャラーー……ーン……

 シャララ……シャララン……シャラァン……


「……けまくもかしこき 伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ

 筑紫つくし日向ひむかたちばなの …………」


 いま、自分の中に織り込まれている呪の手触りや、恐れや、悲しみや無力感、この場所に浮かぶ様々な想いが綺麗な螺旋を描きながら自分の身体から浮き出していく……そんなふうに感じます。

 水源から、梅小路朝日の身体から、作業していた人達から、細い糸状の流れがふわり、ふわりと紡がれていきます。淡くやわらかな流れはだんだんと同じ方向に撚り集まり、ひも状に綯われ、ゆるやかに螺旋を形作りました。

 颯くんが左手の手のひらを何かを受けるようにそっと差し出すと、そこへ念のうねりが集まりだし、左手が光を帯びるのが見えました。私はポケットから取り出した小瓶の蓋を開けて構えます。


「……はらたまきよたまへと もうす事をこしせと

 かしこかしこみももうす……」


 強い光が洞窟内を満たします。それは夜明けの最初の光、夕暮れの最後の光、誰かの笑顔、誰かの涙。頭の中にこれまでの様々な場面を映し出しながら光っては消えて行く、それはこの場所に堆積した人々の記憶、人々の想い。

 光は天井や壁のあちこちに乱反射して眩しく目を焼き、光の圧に耐えられるギリギリのところで弾けるように輝くと、一気に消滅しました。


 ——そうか、お嬢ちゃんはお人形が好きか。


 どこかで耳にしたことのある柔らかな声で、名前を呼ばれた気がしました。記憶に蘇るのは人好きのする明るい笑顔。穏やかな立ち居振る舞い。柔らかくて温かい、声。

 手の中の小瓶がコトリとちいさな音を立て、颯くんが息を吹きかけて……気が付けば、辺りは静寂に満ちていました。


 呆然としている梅小路朝日からは、すっかり毒気が抜けています。彼にはここから今までの罪を償って貰わなくてはいけませんが、その前に。まだ、やる事が残っています。

 再び、かがみ込んで目線を合わせます。先ほどの祓いの中で思い当たったことがありました。


「もうひとつ教えて貰いましょうか。梅小路朝義、彼はもうご存命ではないのでは?」

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