5-2

 庭園の中は門からずっと敷石が続いています。丸く刈り込まれた低木の影にも、建物の手前にも掃き清められたような跡があり、ずいぶんと丹念に手入れをしているのだとわかります。


「誰もいないねぇ」


 幸か不幸か人影は見当たりません。が、先ほどから不自然な気配が身体に纏わりつくような具合の悪さがあります。どこかで水の流れる音がしていて、これは先程の小川から聴こえてくるには少し近いように思えます。


「……何か、あるな」

「はい。見られているというのとは違いそうですが、アリスのいた藤代邸での感覚と似ています」

「或いは見張られているという事かもね」


 私達を侵入者と捉えているのは当然として、いきなり敵視とは。疾しい所があると公言しているようなものです。


「おや、お客かい?」


 ふと、声がかかりました。視線を向けるといつの間にか年配の男性の姿があります。短く刈られた頭髪、着慣れた感じのするポロシャツに、緩めのパンツ、足元はサンダルを履いています。男性が手を伸ばして蛇口を捻ると、きゅ、という音がして先ほどから聴こえていた水音が止みました。ジョウロに水を貯めていたようです。


「すみません、観光がてらブラブラしていたのですが、こちらは何かの施設でしょうか」

「施設と言うか……まぁ、家かなぁ。ここで皆んなで暮らしてますもので」

「あぁ、それは気付きませんで失礼しました!」

「いえいえ、構いませんよ。どうぞ、ゆっくりなさっていってください。この辺りは何もないでしょう。それが良いんだなんて都会の方は仰いますがね」


 穏やかな会話が交わされています。柔和な表情を浮かべた男性と、颯くん曰く「いつもの外ヅラ」を浮かべた先生なのですが、一方で私の背中を冷や汗が伝う感覚がしました。頭の中にだだっ広い日本家屋の映像がフラッシュバックのように差し込まれます。使い込まれた畳の目。床の間の刀。棚に置かれたガラスケースと日本人形の友禅模様。濃紺の和服。袂から取り出された小瓶。視えるかい。何が視える。さぁ、答えてご覧。さぁ。


「おや、大丈夫かい?」

「……顔色悪ぃな」


 思わず下を向いてしまうと横から颯くんが顔を覗き込みました。私は小さく首を振りましたが、何かを言うより早く男性が口を開きます。


「暑さに当てられましたかな。少し休んで行かれたら良いでしょう。どうぞ、お上がりになって」

「すみません、ご厄介になります」


 ふわふわと目眩がして、颯くんに掴まりました。あぶら汗が額を流れるのを感じます。心配そうに様子を伺うその耳元へ唇をよせました。声にならない声で、精一杯の言葉を紡ぎます。


「知ってます、私。この人に、会ったこと、あります……」


 *


 次に目が覚めた時、見慣れない天井が目の前に広がっていました。半分開け放たれた襖の向こうから、誰かの話し声と先生の笑い声が聞こえます。ぼんやりと霞がかった頭でその声を受け止めていると、近くで誰かが息を顰めて会話をしているのが聞こえました。全体的に高い声です。子供、でしょうか。


「目が覚めたみたいだよ?」

「シッ、静かに」

「どうせ聞こえやしないよ」

「聞こえるかも知れないだろう?」

「聞こえないって」

「聞こえないよ」

「そう、聞こえっこない」

「もし聞こえたら」


 ……聞こえたら?


「それは、の人だ」


 こちら、というのが自棄に鮮明に耳を揺さぶってハッとして飛び起きるのと、廊下に面した襖が開くのはほとんど同じタイミングでした。反射的に目を向ければ颯くんが部屋に入ってくる所で、視線が合うと驚いたように目を瞬かせます。


「具合、どうだ?」


 キョロキョロと辺りを見回してしまいましたが、先ほどの声の元になるような何かは見つけられません。それは「何もない」と言うよりも。


「大丈夫です。ご心配おかけしてすみません……ここ、かなり居ますね」

「だな。うじゃうじゃ居る。先生の幽霊アパート並みに」


 そ、そんなにですか。出処がありすぎて特定が難しいのなんて、あまりあるケースではないはずですが。

 今こうしている間にも、欄間の影から、押入れの隙間から、飾られた時計の裏から、天井の隅から、襖の間から、自分が寝かされていた布団のすぐ下から、視線や話し声や息遣いが漏れ聴こえてきます。こちらに敵意は無いようですが少々居心地に難を感じます。何より、この状態では内緒話も出来ません。ここはさながら監視部屋ですから。


「下手に祓うと勘付かれるな」

「しばらくそっとして置きましょうか」


 次の間の様子を伺えば再び大きめの笑い声がした後、そろそろと襖が開いて、笑顔の先生が顔を覗かせました。続いて、あの男性も先生の後ろからこちらに声をかけてくれます。


「おや、気が付いたかい?」

「まだゆっくりしておいでなさい。もう少し外が涼しくなるまで」


 襖が再び閉じられるほんの少し前、先生が目配せをしたのが見えました。何やら探りを入れているのでしょう。ついでにあの男性を抑えておいて下さるという事なら、こちらもこちらで行動を起こしたい所ですよね。


「試しにアリスに出てきて貰いましょうか」

「大丈夫なのかよ」


 ゆっくりと頷いて、目を瞑り、深く呼吸をします。水琴鈴が入っているのとは反対側のポケットから、飴色に透き通った硝子にも琥珀にも見える結晶を取り出して手のひらに転がしました。


「アリス、お願いです。少し力を貸して頂けますか?」


 じわり。どくん。


 琥珀色が一瞬滲むように明滅したかと思えば、結晶がぴょこりと跳ねて、ほどけるように光の粒になり、金色に輝く流れはそのままくるくる渦を描いて黄金の巻き毛が現れ、ビスクドールの白い肌が垣間見え、次いでレースたっぷりのロココ調のドレスがふんわりと広がり、最後に、薔薇色の頬をしたフランス人形が姿を現しました。


「ハイ、翠子。今日はまた変なところに来てるのねぇ」

「アリス。また会えて嬉しいです」

「いつでもって言ったじゃない。水臭いわ」


 部屋の中を見回していたアリスは颯くんのところで視線を止めると、ははぁん、とでも言いたげな表情を浮かべました。し、しぃー。アリス、どうかここは余計なことを考え付かず、穏便に。お願いです。

 そんな私の願いを汲み取ってか、二三回頷いてから、でもやっぱり颯くんを指し示しました。うわぁ、と首をすくめたものの、アリスの口から出たのは私の想像とは異なる語句です。


「あなた、護符が書けるわね」

「……お、おう」

「身代わりの護符を書きなさいな。そうしたら、しばらくこの子達とお茶しててあげる」


 身代わりの護符。なるほど、三枚のお札の作戦と同じですね。子供の頃に祖母から聞いた昔話を思い浮かべました。


「ありがとうございます、アリス!」

「いいのよ、何しろ子守りは得意なの。嫌いじゃないわ」


 片目をパチンと瞑って見せるアリスは可愛らしいお人形さんのようにも、頼もしいお姉さんのようにも見えました。実年齢(?)を考えたら私よりも遥かに色々な物事を見てきているはずです。だって何しろ付喪神なのですから。


「とっとと始めるか」


 颯くんはボディバッグの中から短冊状に綴られた和紙を取り出すと左手に構え、右手に筆を持ち、動きを止めました。じっと短冊を見据えたまま、喉仏が軽く上下します。次の瞬間、大きな奔流とでも呼ぶべきエネルギーの塊が颯くんを取り巻きます。凄い。まるで部屋の中につむじ風が起きたようです。

 更に、そのエネルギーをそっくりそのまま筆に集中させると、さらさらと短冊に走らせました。札の中に全てのエネルギーが吸い込まれたところで短冊から筆を離し、どうやらそれで護符が完成したようです。


「凄いです、颯くん!」

「こんなのはまだ完成度が……とか言ってる場合じゃねぇか。もう一枚書いたらここを出る」


 照れて頭を掻く颯くんの姿がこれまで以上に頼もしく輝いて見えます。こんな技術を短期間に習得していたなんて。かっこ良……と、横から妙な笑顔で私を見ているアリスの視線に気が付きました。んん、と咳払いをひとつして、場を仕切り直しましょう。私も、少し準備をしておかないとなりません。


「気を付けてね、翠子。ここ、おかしな物がいるわ」

「はい、アリス。心得ました」


 そうして無事に部屋を抜け出すと、それまでの監視の圧が格段に下がるのを感じました。ひとつひとつの力は微弱でも、視線、念、意識の類が複雑に絡まり合ってまるで網目のようになっていましたから。


「やっとお伝えできますね。あの方は、そっくりでしたが梅小路朝義ではないと思います」

「だろうな。年齢がもう少し若い」

「はい。なので、あれは二代目の光芒、梅小路實朝でしょう。私、思い出したことがあるんです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る