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 目の前に湯気の立つマグカップが置かれました。ハッとして顔をあげると、颯くんが自分のマグカップを持ったままちょうど斜向かいにある椅子にどっかりと座る所でした。椅子の背の方を前にして肘をつく怠そうなポーズ。何も言わずにカップの中身を飲み、目だけを動かしてこちらを伺います。

 誘われるように手を伸ばすと、カップにはホットココアが入っていました。口に含めば甘く温かく、カカオとミルクの風味が心をくすぐります。窓の外は濃い緑色の葉が揺れていますが、そう言えば冬に、こうして颯くんと差し向かいでココアを飲んだことがありました。

 その時の颯くんの横顔を思い出しながら、私は口を開きます。


「たぶん私、子供の頃に梅小路朝義と面会しているんです」


 その名前を目にしてから、記憶の隅に追いやっていた幼いころの出来事が蘇ったのです。

 初めて対面した彼は、柔和な笑みを浮かべた総白髪のお爺さんでした。絵本に出てくるような白いおじいさんだ、と思ったのを覚えています。

 和服の袂から透き通った小瓶を取り出して、私の目の前でそれを傾けます。ご覧。視えるかい?


「きっと、一族の中で力がある者がいるかどうか、探していたんだと思います」


 あれは七歳の頃。父に連れられて、親戚の家だというその屋敷を訪れました。

 いつも難しい顔をして大人たちの中心にいる父が、私だけを連れて出掛けると言い出したことが単純に嬉しくて、繋がれた手をしっかりと握り返したのでした。

 車で長いこと走り、着いた先で通されたのは大仰な屋敷の一室で、棚に飾られたガラスケース入りのお人形さんの着ている着物や、床の間に掛かった二振の刀、庭に咲いた大ぶりの菊の花なんかを断片的に記憶しています。


「小瓶を見せられました。中にふさふさした毛を持つ透明の塊がいて、『何が見えるか』と聞かれました」


 目の高さに持ち上げられた小瓶。中に居る透き通ってふさふさした生き物。気になりますが、それらは気にしてはいけないものです。

 普段から家の裏庭で、薄青く透き通った蝶が陽の光に照らされて砂のように消えてしまうところや、庭の中を跳ね回る同じく透き通った兎の影などを視ることがありました。指差し教えるたびに両親は首を傾げ、祖母は頷いた上であまり口にしないようにと静かに諭しました。

 気にしてはいけない、口にしてはならない。けれど今、それらについて尋ねられている。小瓶越しのお爺さんの肩が上下するのに合わせて、心臓の鳴る音が聴こえるようでした。

 視界の中の父の手が膝の上で強く握られているのを目にして、やはり「視える」と答えてはいけない気がしました。


「その時私は父と出かけられることが嬉しくて。この問いに正しく答えたらきっと父とのお出かけが終わってしまう、そう思って『何もない』と答えたんです」


 透き通ったふさふさの生き物から目を逸らしました。棚のお人形の友禅模様に殊更気を取られたふりをして、そちらを指さします。お人形さん、すてきね、見ておとうさま。


「今から思えば、あの頃すでに祖母には私が何かを視ている事は分かっていましたから、小瓶の中にいるものが私に視えていたことは、当然、父も知っていたはずです」


 そうか、お嬢ちゃんはお人形が好きか。

 可笑しそうに笑ったお爺さんと、どこかほっとした表情の父を残して、私はしばらく屋敷の前の公園で待つことになります。遠くへ行くんじゃないよ。木枯らしの吹く中、そう声を掛けられながら白いおじいさんと並んで立つ父に手を振り、公園の入口からほど近いベンチに座って待つことにしました。


「私を『祈里の扉』に、つまりは彼らの所へはやりたくないと、そう思ってくれたんだと思います」


 家を継ぐ兄にしか興味がないのだろう、有力な家に嫁がせる為の道具くらいにしか考えていないのだと、そんな風に思っていましたが、どうやら私の勘違いだったみたいです。父は父なりに彼のやり方で、私のことを大事に思ってくれていたのかも知れません。

 家を出て浄化室に勤めることを認めてくれたのも、もしかしたら自分の身を自分で守れるようにと考えてのことだったかも知れません。出発の日に無言で送り出してくれた父の気持ちも、今なら少しは分かる気がします。


「いずれ梅小路を出るとしても、これを看過することは出来ません」


 方を、付けに行かなくては。怒りのような感情がふつふつと沸き上がってきます。


「翠子、背負い込み過ぎ」


 湯気の消えたマグカップの向こうで颯くんが目を細めました。


「黙って聞いてりゃ勝手に背負いやがって……」

「でも。これは私の」

「違う」


 言葉を遮って断言した颯くんの、黒い瞳がこちらをじっと見据えています。さっきまで心を占めていた爆発的な感情の塊を吸い取られる気がしました。

 この案件について調べれば調べるほどに、自分の身内の恥と言っても差し支えないと思う気持ちが強くなってきていました。だから私の手で事態を収拾しなくてはいけない。そう感じていたのですか。

 冷静になって考えてみると、私一人の力ではきっと何も思うようには出来ないでしょう。気持ちだけ先走って浄化室のメンバーに迷惑をかけてしまったのは一度や二度ではありません。私はまた、同じことをしてしまう所だったかも知れません。落ち着かなくては。

 それ以上何も言えなくなって口を閉じました。私の葛藤を見透かすような、颯くんの落ち着いた口調が耳に届きます。


「確かにアンタは強くなった。へなちょことは言え結界も安定してきてるし、調伏も成功した。前よりは周りも見えてる。だからこそ、いま分かった事で悩むのもわかる」


 コトン、とテーブルにマグカップを置いて、私の目を覗き込みました。黒く凪いだ瞳から強い意志が流れ込んできます。


「……すみません、また独りよがりになるところでした」

「気付いたんだからいいだろ、それは」


 就職すると決めた時も、配属が決まる前の研修期間中も、颯くんは何度も「わざわざ汚れ仕事の部署に来ることない」と止めてくれていました。配属されてからも心配ばかりかけているような気がします。


「なぁ、アンタはよくやってるし、俺も、先生だって胡桃沢さんだっている。いざとなったらきっちり守る。焦るな」

「ご迷惑おかけします……」

「いやいや、迷惑なもんか。梅小路さんが来てからの颯くんてば、成長しまくっちゃって目を見張るよ」


 唐突に声が混ざったかと思えば、いつの間にか戸口に立っていたらしい勧修寺先生が笑みを浮かべながらやって来ました。途端、颯くんの表情が険しいものに変わります。


「立ち聞きすんなよ、趣味悪ぃ」

「生憎と、僕はこの部屋の室長なもんでね」


 先生は、どっさりと抱えた資料をおろしながら銀縁眼鏡を光らせました。見えているだけでも「祈里の扉」のパンフレットや教義について説いてある本、宗教ライターの方のご本や、浄化室の古い記録までと様々です。


「まずは敵を良く知ろうか」


 ぺたりぺたりと廊下を歩く音が近付いて、開いた戸から胡桃沢さんが顔を出します。


「お、やっとるか。役に立つかは分からんが入信者のリスト貰ってきたぞ」


 私はひとりじゃない、そう強く実感します。


「アンタだけじゃない。これは俺たち浄化室の案件だ」


 肩からすっと力が抜けていきます。およそ一年前にこの浄化室に来てから、様々な知識や技術を手に入れてきました。祓いや浄化を目の当たりにし、人の心の脆さを知り、それを乗り越えていく姿を見てきました。日々、得難い経験をさせて貰っています。でもこの場所へ来て私がいちばん嬉しかったのは、仲間を得たこと、なんです。きっと。

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