幽霊の声が聴こえる曲の怪
4-1
その建物は白と黒と灰色で組み上げられた、美しい塔でした。事前に渡されていたバーコード画面での入館手続きを済ませて、やって来たのは東京都庁、地下フロアです。
廊下に面した壁はガラス張りで、それと垂直に部屋を区切る壁はオフホワイト。長方形に切り取られた空間は清潔で、落ち着いたグレーの床をしています。天井に取り付けられたライトは自然光に近い色をしているそうです。ここは陽射しの届かない地下の空間。銀色の作業台の上には液晶モニタが数機。その前に置いてある背もたれのないスツールに腰掛けながら、私はキーボードのタイプ音を耳にしていました。
「なるほど。落下による誤作動がそんな事に」
「……はい」
パタパタと淀みなくテキストを打ち込んでいた八神さんがいったん天井を仰いでから私に視線を向けました。今日は先日の占い屋敷での一件をこちらに報告に来ています。私は部屋の中をぼんやりと見渡して、何度目かのため息を吐きました。
週末を挟んで今日、いつもの事務所に出勤してすぐにTSCへの報告業務を買って出て、ここに来ています。この場所をあまり得意としない勧修寺先生にはたっぷりと感謝されたものの……不機嫌そうに唸っていた颯くんの顔を思い出して、私は首をすくめます。
「どうかした?」
「いえ! 何も!」
先日の帰り道での出来事があって以来、ついつい挙動不審になってしまいます。正直なところ、颯くんのことは、好きというか憧れというか、そんなような所にいる方でしたけれど……。いざ恋愛的なベクトルが自分に向けられるとどうして良いやら何も分かりません。あれはやっぱりそういう種類の感情、なのですよね? それに、颯くんの言っていた言葉の意味もわからないままです。
「昔からって、どういう事なんでしょうか……」
その時、思わず呟いてしまった声を蹴散らすような足音が近づいて来るのが分かりました。カツカツと高らかに踵を鳴らして歩く、この音の主は一人しか思い当たりません。
バターンッ!
「ちょっとぉ! 何なのぉ? この自動ドア反応速度遅すぎでしょうッ!?」
大きな音をさせて自動ドアにぶつかりながら、そして大きな大きな声で愚痴を言いながら、荷物を抱えた御厨さんが部屋に入ってきました。これではさぞかし前が見えにくかったことでしょう。
「おかえり、エリィ」
「んもう! どうして私がこんなの運んで来なくちゃいけないのぉ!」
「あの、お邪魔してます……」
「あらっ、翠子じゃない!」
おずおずと声をかけると、意外にも嬉しそうな反応が返ってきました。御厨さんはいつ見ても表情豊かです。
「やっとこっちに来る気になったの?」
「だったら良かったんだけどね」
「今回は勧修寺先生のおつかいです。結界カプセルの誤作動の報告で」
なぁんだ、と唇を可愛らしく尖らせた御厨さんはやっぱりお人形さんのようで、何となくフランス人形のアリスを彷彿とさせます。
「エリィも来た事だし、お茶にしようか」
「賛成! そしたら私、取って置きのクッキー缶を出しちゃうわ!」
「あ、お構いなく」
「まあまぁ、エリィもあんなに喜んでるし、翠子ちゃんも少し付き合ってあげてよ。ね?」
「……では、少しだけ」
視界の中で御厨さんが軽やかなターンをして部屋を出て行きました。そう言えば今日のお洋服はいつかみたいなゴシックロリータではなくて、ずいぶんスッキリとしています。あれはもしかしたら……。
「あ、気付いた? 高校の制服なんだ」
「高校生!」
あはは、と眉を下げた八神さんは、温めたポットにお茶の葉を入れ、お湯を注ぎながら御厨さんについてお話してくれました。
「エリィは僕や翠子ちゃんみたいに色々と視える上にあの性格なものだから、昔から敵を作りやすい性質でね。行く先々で上手く馴染めずにいた所を胡桃沢さんに保護されたんだよ」
「……胡桃沢さんが?」
「聞いてない? 昔はあの人、警察の少年保護センターにいたんだよ。臨床心理士って、いわゆるカウンセラーだね。それで、今でもたまにそちらの仕事を掛け持ってるんだ」
えーと、初耳です。
御厨さんは素行不良を繰り返しているとされ、その保護センターに送り込まれて胡桃沢さんと出逢ったのだとか。となると、颯くんもその線で胡桃沢さんとご縁があったのかも知れません……そう、颯くん……。と、ついまた先日の記憶が頭を過り、無意識のうちに頬に手を当ててしまいます。今はこんなことを考えている場合ではないはずなのですが、仕事に集中しようにも、少し気が散ると言いますか……だってまさか……いえ、きちんと仕事をしなければ。などと思考が飛んでしまっていると、いつの間にか紅茶が頃合いになったようです。
「翠子ちゃん、少し雰囲気が変わった?」
「……そうでしょうか?」
八神さんがこちらを心配そうに覗き込んでいます。雰囲気が変わる、とは、それはやはりアリスの事が関係しているのでしょうか。
手に持ったままで差し出されたカップに手を伸ばし、受け取るべくソーサーに触れたところで、不思議な感覚が私の中で起こりました。
ちゃぷん。
じわり。
例えて言うなら、足を水に浸した時のような、何か異質なものに触れてしまった感触。端から何かが沁みてきて、浸食されていく感覚。
ハッとして顔を上げると八神さんがこちらをじっと見つめているのと視線が合いました。
「……いま、何かしましたか?」
「バレたか。ごめんね? ちょっとだけ読ませて貰ったよ」
八神さん、穏やかなようでいて意外と油断ならない人です。
「エリィと似てるけど質が違う感覚がする。もしかして、調伏に成功したとか?」
「そのことについては報告書の後半に書いてあります」
「そっか。ごめん。後で拝見するよ」
「そうして頂けると」
驚きを鎮めるために出された紅茶を一口頂きます。良い香りで、フルーツみたいに瑞々しい、美味しい紅茶です。
「あと、烏丸くんと何かあった?」
げほっ。
思わず咽せてしまい、つい怨みがましい視線を浴びせてしまったかも知れません。八神さんは顔の正面でパシリと手を合わせるとこちらを拝んで見せました。
「それも読んだんですか?」
「いや。これはただの勘と言うか、観察結果と言うか」
「……勘?」
「だって翠子ちゃん、今日ずっと溜息ついてるし、さっきから百面相してるでしょう? でも、余計な事聞いちゃったかな」
ごめんごめん、と重ねて謝る八神さんですが、指摘された溜息の多さは確かに颯くんに起因するものです。百面相、もしてたかも知れませんが……私もすこしばかりダダ洩れが過ぎたのでしょう。気を引き締めないとなりません。
機嫌良さそうに鼻歌交じりで御厨さんが戻り、とても洒落た缶から可愛らしいクッキーやビスケットを取り出すと、嬉しそうにお皿の上に並べていきます。フリルみたいな絞り出しクッキーや、ピンクと白のまん丸や、ジャムがたっぷり乗っているもの、様々です。フランス人形のアリスの開いていたお茶会のテーブルにも、こんな素敵なお菓子があったように思います。
「ねぇ、今日は巴様は?」
「胡桃沢さんは確か法務局に用事でした」
「そっかぁ」
私も、御厨さんの「そっかぁ」を心の中でなぞります。御厨さんも、颯くんも、ここに辿り着くまでに色々なものを乗り越えて来たのでしょう。その間に築いてきた信頼関係は大切なものです。
ねぇアリス、やっぱり私は胡桃沢さんが颯くんの特別であっても、それは大事にしたいと思いますよ。胡桃沢さんを特別に思う颯くんごと、たぶん、私にとっては大切なんです。……やっぱり変でしょうか。
「それでぇ? 烏丸颯と何があったのかしら?」
「なっ!? そんなに、ダダ漏れですか……?」
御厨さんと八神さんが音を立てそうなほどニッコリと良い笑顔になり、私は……私は、やっぱりTSCへの移籍の話は完全に無しにして貰おうと心に決めたのでした。
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