3-5
かつて、藤代家がこの家に住っていた頃。お屋敷は薔薇と緑に包まれた美しい空間でした。お父様は帽子とステッキがお似合いの英国紳士風、お母様は舶来物の紅茶やお菓子を嗜むお茶目な貴婦人、そのひとり娘の綾乃お嬢様はお母様によく似たおしゃまな女の子。幾人ものお手伝いさんと厳格な執事、お抱えのアンサンブル奏者を擁したこのお屋敷はいつでも明るく、幸せな笑い声に溢れていました。
お人形さんの名前はアリス。フランス生まれのプペ・アン・ビスキュイ、つまりはフランス人形です。
綾乃お嬢様の七つのお誕生日の朝、両親からプレゼントされたのが二人の出逢い。ビスクドールの肌とロココ風の華奢なドレスに身を包んだアリスはたちまち綾乃お嬢様の大のお気に入りになりました。
それからというもの、二人はいつでも一緒に過ごしていました。綾乃お嬢様が朝いちばんに挨拶をするのはアリス。朝食の時にはお隣にアリスの朝食が用意され、お茶の時間はアリスにも紅茶とお菓子を。絵本を読むのも一緒、お出かけするのも一緒。夜、眠る時には傍にアリスを置いて、眠りに落ちる寸前までお喋りを。もちろん綾乃お嬢様が一日の最後におやすみの挨拶をするのはアリス。時には夢の中までも一緒にいて、二人は仲良く遊びながら過ごすのでした。
そんな生活に変化が訪れたきっかけ、それは綾乃お嬢様の恋でした。
来る日も来る日も綾乃お嬢様はアリスに恋の相談をしました。大好きな彼の話を語って聞かせました。素敵なあの方の瞳に映して欲しい。特別になりたい。ずっとずっと一緒にいたい。永遠に愛し合う存在になりたい。そう語って聞かせました。
アリスは、綾乃お嬢様の声を聞き、潤んだ瞳を目にし、時には擦り切れそうな嫉妬を孕んだ吐息に触れ、恋が何かを知りました。そして気付きます。それは正しく、変わりゆく綾乃お嬢様に対して自分が抱いている感情と、とても良く似ていることに。
ねぇ綾乃、私と一緒に居ましょうよ。ずっとずっと一緒に居ましょうよ。私となら、そんなくだらない恋なんかより、もっと素敵な夢を見せてあげられるわ。
「アリス、どうしましょう。やっぱりあの方のことが好きなの」
でも恋なんて終わりが来るものなんでしょう?
「ねぇアリス、あの方の瞳に私をずっと映して欲しい」
あなたには私がいるわ、綾乃。あなたを悲しませたりしない。あなただけを見て、あなただけに微笑んで、あなたとだけ一緒に夢をみる。
それからしばらくして、綾乃お嬢様の結婚が決まります。お屋敷の中は俄かに祝福ムードに包まれて、もちろんアリスも綾乃お嬢様の幸福そうな歌声を耳にして幸せな気持ちになりました。ただ、実はその結婚のお相手は、例の恋したお方とは違っていたのです。
お屋敷で迎える最後の朝、綾乃お嬢様はアリスを抱きしめました。
「今までありがとう、アリス。あなたと過ごした日々は間違いなく私の宝物よ。あなたには恋の相談をしたわね。憧れのあの方への想いを、たくさんたくさん聞いてもらった。だからね、アリス。叶わない恋の思い出を、あなたと一緒に置いていくことにしたの」
ありがとう、さようなら。そう言ってもう一度アリスを抱きしめてから、綾乃お嬢様は屋敷を去りました。
ひとり取り残されたアリスは、綾乃お嬢様の声を、手を、瞳を、ずっとずっと待ち侘びました。
*
ふぅ、と溜息をついてから頬を拭います。ずいぶんと長い間、寂しい時間を過ごしてしまったお人形のアリスさんの話を聞くうち、私はすっかり悲しい気持ちに同調してしまい、先程から涙が止まらなくなっていたのです。
永く愛された物には魂が宿ります。恋する相手に置いていかれてしまったアリスさんの気持ちは、さぞかし辛く、悲しいものだったことでしょう。
だからと言って自分と同じような恋する気持ちを抱く女の子たちを、怪異に引っ張り込んでしまうのは褒められたことではありません。
「アリスさんのそれは、とても素敵な心だと思います。けれど……それは、本当に恋でしたか?」
「そうよ、恋よ。恋だったの。だから、どこかの見知らぬ男なんかではなくて、綾乃は私を永遠に見ていてくれなければイヤなの」
「……それは、恋、なのかも知れませんが」
「いいえ、恋に決まっているわ」
恋した相手に執着してしまう心。それが生じる過程は、確かに恋なのかも知れません。ですが、その気持ちが相手にとって歓迎できない、共感できないものに変質してしまった時、それはまた別のカテゴリに変わってしまうのではないでしょうか。
「例えば、先程アリスさんは私が颯くんに恋をしていると断言して下さいました」
「あなたは恋をしているわ」
「ええ、たぶん……そうです。ですが、もし……もしも、颯くんが私ではなくて他の方に恋をしていたとしたら……私はそれを受け入れたいと思います」
「……受け入れる……?」
例えば颯くんが胡桃沢さんに恋をしていたら、そして胡桃沢さんも颯くんに恋をしていたら。それは、私にしてみたら自分の想いが叶えられない、悲しい事態なのでしょう。けれど、颯くんの想いが叶っているという事実は変えられませんし、それによって颯くんが幸福であるならば、私は彼の恋の成就を喜びたい。諸説あるとは聞きますが、私は、そう思うのです。
「やっぱり、好きな人には笑っていて欲しいんですよ。……これって、変でしょうか?」
「恋を……好きな人の恋を……幸福を願う、ってこと?」
「はい。恋の行き先はたぶん、ひとつでは無いんだと思います」
好きな人には幸せでいて欲しい。例えそれが自分の望んだ結末ではなくても、それ以上に、そう願ってしまうのです。恋って、きっとそんなパワーすら湧いてしまう気持ち、なのでは無いでしょうか。
それから、私はアリスさんと私のためにひとつ提案をする事にします。
「ねぇ、アリスさん。もし良ければ窓を開けて貰えませんか? ここは少し埃っぽいです。きっと空気を入れ替えた方が気持ちも明るくなります」
アリスさんはしばらくキョトンとしていましたが、不意にふっと、噴き出すように笑みをこぼしました。
「あなたって」
「……私が何か?」
「変な人!」
あはは、という弾けるような笑い声と共に締め切られていた窓が開き、陽の光と、それから爽やかな初夏の風が室内に流れ込んできます。部屋の中の埃が光を反射しながらキラキラと舞い、流れ、小さな旋風となって屋敷の外へと放出されていきました。部屋の空気が入れ替わると、やはり気持ちが良いものです。
「あなた、名前はなんて言うの?」
「翠子。梅小路翠子です、アリスさん」
「アリスでいいわ!」
「……アリス」
「私、決めたわ。しばらくあなたといる事にする」
しばらく私と、ですか?
そう尋ねる前にアリスがふわりと浮き上がり、身体が光を帯びていきます。ビスクドールの肌も、ロココ風の華奢なドレスも、まるで新品のようにキラキラと輝いています。
「もう少しお話していたかったけど……来たわよ、あなたの彼が」
「私の彼?」
「乱暴で猫背で舌打ちする、とびっきり強くて優しい彼が、ね」
ドン!
扉が音を立てました。
ドン! ドンッ!
立て続けに衝撃があって、私とアリスは顔を見合わせます。これはもしかすると、アリスの言う、つまりは、颯くんなのでしょうか。
「翠子、いつでも私を呼びなさい。あなたの力になってあげるわ」
「えっ。あのっ、アリス!?」
光を纏ったアリスが小さな結晶に変化して私の手のひらに収まるのと同時に、部屋の扉が勢い良く開け放たれました。転がり出るように颯くんと先生の姿が現れて、私は何だかポカンとしてしまいます。
「翠子ッ!」
「無事かい、梅小路さん!」
「……はい、あの……」
くるくるの髪を振り乱した颯くんの必死な顔を見たら、私は何と声をかけたら良いのか、言葉に詰まります。が、温かな気持ちがたっぷりと胸を満たしているようです。
「その……お二人とも、ありがとうございます」
「無事、か…………それは?」
えーと。あのー。
不思議と「恋」という単語が頭の中をチラつく中、私は苦笑いというか、半笑いというか、そんな微妙な表情を浮かべるしかありませんでした。
「何だか、その、……調伏、してしまったみたいです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます