1-3
とある美しい森の奥に、天涯孤独のドラゴンが、穏やかに暮らしていました。
そのドラゴンは小柄で大人しい性格をしておりました。小川のせせらぎを聴き、小鳥の囀りと共に歌い、木の実や柔らかな新芽を食べる。地味でのんびりやの、物静かなドラゴンでした。
ある朝、小川のほとりに大きな大きな鳥が現れました。ドラゴンは木陰からそっと覗いていましたが、その大きな鳥の手の中に、幼い女の子が捕まっていることに気が付きました。
助けなければ、きっと食べられてしまう。
そう思ったドラゴンは勇気を奮い立たせます。
*
どことなく拙い絵柄で描かれた物語を見るに、どうやらプレイヤーはドラゴンとなってこの大きな鳥から女の子を助けて、元いた場所へと返すのが目的のようです。
私は新しく淹れ直したコーヒーを三人分のマグカップに注ぐと、それぞれに配りました。これはお茶汲み担当という話ではなくて、単に私が飲みたかったから、それと、ゲームに午前いっぱいかかりそうな気がしたためです。
「彼女はつまり、このお話の中の女の子ってことで良さそうだね」
手の中でダイスを弄びながら先生が言って、さっそく一投目を転がしました。確かに、半透明の女の子はゲームブックの挿絵の女の子に似ています。
偶数、奇数で選択肢が決まり、出た目の数に従って頁をめくり、そこにあるストーリーを進めて行く。至ってシンプルなルールですが、進めていくうちに不思議なことが起こりました。
「その時、女の子が歌い始めました。美しい歌声にドラゴンはポカポカした気持ちになり、眠くなってしまいました。そうして洞穴に戻り、明日のことも考えずに、静かに眠りました……振り出しにもどる」
「なんだよ、これ」
ストーリーとはまったく関係ない場面で女の子が歌いはじめ、ゲームの途中でドラゴンが眠ってしまうのです。そうなると自動的に振り出しに戻ることになり、これではゲームがクリアできそうにありません。
「えー、呪いのゲームってこういう事かよ」
「これでは囚われているのはプレイヤーということになりそうだねぇ」
どこか嬉しそうな先生はともかく。これを何とかしなければ、仕事になりません。ちょうどお昼になったことですし、昼食休憩を挟んで、一気にクリアしてしまいましょう。今日は確か、食堂の日替わりランチがカレーライスだったはずです。
「とりあえず、お二人ともお昼ご飯に行きませんか」
「だな。飯だ、飯」
颯くんと私はそれぞれ腰を伸ばすなどしつつテーブルから離れたのですが、先生だけは何やらその場に座ったままです。
「おいこら、先生。ガキじゃねぇんだ。飯に行くぞ」
「うーん、その」
「……どうしたんですか?」
首を傾げる勧修寺先生に何となく違和感を覚えます。そう言えば、先生はこのゲームを開始してから、水分を摂っていたでしょうか。まったく減っていないマグカップの中身に目をやれば、ほんのりと湯気が立ったままの水面は減っていません……ん? 湯気?
「空いてないんだよ、お腹」
「だーから」
「そうじゃないんだ、颯くん」
「……失礼しますね」
嫌な予感がして、私は先生の手首を掴みました。それから首筋を触り、それから更にはかがみ込んで先生の瞳をじっと見つめます。
「お、おいっ翠子、何を……」
動揺した颯くんの声が聴こえましたが、今はそれどころではありません。
「先生。もしかして、すごく眩しくないですか?」
「……眩しい……気がするね……」
「……なるほど。つーか、さっきから瞬きしてねぇな」
ええと。つまりは。
「先生は瞳孔が開いたまま固定されているようですが、これは恐らく、強く興味を惹くものに出逢った際に起きる生理的な反応です。それがそのままキープされてしまっているのと、あと」
「……あと?」
「脈が、異様に遅いです。私と、たぶん颯くんも普通程度ですが……試していませんが恐らくは心拍もゆっくりになっていませんか?」
どうしてこうなっているのかは分かりませんが、明らかにこのゲームブックの影響であるとは思います。先生のマグカップだけまだ湯気が立ったままなのも加味すると、先生の生理反応関係をコントロールされているか、もしくは、先生に関わる時間の流れをコントロールされているか。
「だとしたら。このゲームをクリアするか、大元を叩くしかねぇな」
「大元、ですか」
「おい先生、こいつをどこから持って来たか教えてくれ」
かくして、私達はこのゲームブックを保有していた蒐集家の方の家へと向かうことになりました。……が。
「すまないが、僕はどうやら部屋から出られないみたいだね」
「えぇ……!?」
まるで見えない壁に阻まれるかのように、出入り口の敷居を跨げないまま立ち尽くすのは勧修寺先生。さすがにこの状態の先生を一人で残して出掛けるわけには行きませんし。……さて、どうしましょう。
ふと横を見れば颯くんと目が合いました。この場合は、お互い、言いたいことがわかります。
「少し、出てきますね」
私は事務室を出ると急いで階段を駆け上がりました。
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