恋が始まらない

草村 悠真

恋が始まらない

 誰々が私のことを好きだったらしい。

 という噂がよく流れてきた。

 明確にそう伝えられるわけではないけれど、空気というのか、雰囲気でそうだったらしいというのが理解できる状態になる。中学生の頃なんかは「好きだった」て何だ、好きな時に流れて来なさいよ、どうして私が振られたみたいになってるのよ、なんて思ったりもした。

 しかし今なら少しは理解できる。好きという気持ちは直接伝えるものであって、噂話なんかで本人に伝わるようなことはあってはならない、という暗黙の了解のようなものがあって、だから渦中に私に伝わってくることはないというわけだ。恋心を諦めた途端に緘口令が解除されて噂となって伝わってくるということ。

 高校生の頃には、直接伝える勇気もないような奴はこっちからお断り、と考えるようになった。だから誰かが私を好きだったらしいと聞いても、モヤモヤするようなこともなかった。いずれちゃんと、終わる前に直接好きと伝えてくれる人が現れるだろう、という期待もあった。若かったのだ。今も若いけれど。

 その今。大学生となった私である。

 大学生ともなると、そんな話は流れてこなくなった。学生の数は多いし、行動範囲も増えるので色恋沙汰が学内という狭い範囲に縛られるようなこともなくなったからだろう。中学生の頃なんかは他校の生徒と付き合っているというだけで物珍しかったものだが、大学生ともなれば当たり前だし、何ならもっとずっと大人の人と付き合っている人もいて、またそれが珍しくも何ともない。

 こういう状態になると、少し物惜しさを感じる。「好きだった」でもいいからそういう話が欲しくなる。知らないうちに終わっていたとしても、恋の気配くらい感じたいものだ。

 今だって、彼氏がいない女友達と三人で駄弁っているだけなのだから。

「私、秋原君のこと、好きだったんだよね」

 これは私の口から発せられた言葉である。秋原君というのは同じ学科の男子である。好きではないし、好きだったこともない。つまり嘘の発言だ。ほとんど無意識に言ってしまった。

 少し間があって「なになに」「どゆこと」と友達から質問攻めにされる。どういうことだろう、私が聞きたい。いや、さっきまで私が考えていたことを思えばすぐにわかる。

 試してみたくなったのだ。

 変化は数日で現れた。

 秋原君とよく目が合うようになったのである。

 大学で講義を受けている最中、あんな発言をしたものだから、ふと秋原君の方へ目をやるのだけれど、そうすると結構な確率で彼も私の方を見ていたりするのだ。そして目が合うとすぐに逸らされる。

 伝わったのだ。

 私が秋原君のことを好きだったらしい、という噂が。

 まあ気になるだろう。私もそうだった。しかし何もできないのだ。なにせ「好き」ではなく「好きだった」である。何らかの理由で諦められているのだからどうしようもない。このまま数週間もすれば元通りになるだろう。

 逆の立場になってみれば何か新しい発見があるかと思ったが、予想通りだった。しかし、初めて噂した側になってみると、もう少し色々と試したくもなってみる。

 例えば、この状態から私が秋原君に接触したらどうなるだろうか。私は、私のことを好きだったらしい人からその後に話しかけられたりしたことはない。こちらも話しかけたりしないのだからそれっきりとなる。そりゃあ、相手からしたら「好きだった」と言われている、つまり「今は好きじゃない」と言われているのだから、声なんてかけにくいだろう。

 ちょうどこの後はお昼休みである。

「秋原君」講義が終わると、私はさっさと片付けて、まだ席にいる彼に声をかけた。「お昼、一緒に食べない?」

 秋原君が一人でいることが多いことは知っている。というか、そういう人だから選んだ。あんまり派手な人を噂の相手に選ぶと面倒なことになりそうだと、無意識ながらも計算していたからだ。

 戸惑った様子だったけれど了承してくれたので、二人で校内の食堂へ。外に食べに行く方が変な後ろめたさのようなものが演出されそうだったので、あえての学食だ。

 気まずい雰囲気になる可能性は低くないと見積もっていたが大丈夫だった。と言うよりも、秋原君がかなり気を遣ってくれていた。彼からすれば私は「今は自分のことを好きじゃない人」になるのだから、気を遣いもするだろう。

 しかし初めて秋原君と話してみたけれど、意外と気がきくし話しやすい印象を受けた。初めてだったのでぎこちないけれど、慣れれば楽しく話せそうな予感がある。なのでタイミングが合えばお昼に誘った。私が誘って秋原君が断ることはなかった。

「秋原君は、いつ誘っても断らないね」

 そのまま口に出して言ってみた。

「それは、他に食べる相手もいないし、一人より楽しいし」という秋原君の返答。

「例えば、お昼以外に誘っても、断らない?」

「お昼以外?」

「映画、見に行こうか」

 特に見たい映画があるわけではなかったけれど、大学の近くの映画館の上映スケジュールを見ながら、見る映画と時間を決めて、お昼休みは終わった。

 午後の講義は全く頭に入らなかった。いや、普段からそんなに頭に入ってはいないけれど、今日に限っては別のことで頭がいっぱいだからだ。この後のことばかり考えていた。客観的に見て、私はワクワクしている。もちろん映画の内容に対してではなく、秋原君と映画を見に行くことに対してである。

 これは一体どういった感情だろう。すぐに一つの解答案が出るけれど、即座に「それはない」と自分で否定する。そうすると、今度はその根拠を考えてしまうのだけれど、そちらには何の解答も浮かばない。

 そんなことを延々と考えているうちに時間になって、二人で隣り合った席に座って映画を見ていた。平日だし、封切り直後の作品でもないし、客は少なかった。だからといって上映中に私と秋原君に何かがあったわけでもない。ただただ映画に集中していた。そうしている方が気が落ち着いた。大学の講義には集中できなかったのに。ここまで来たら今更何を考えても仕方がない、という一種の諦めかもしれない。

「何か食べて帰る?」という私の誘いも、彼は断らなかった。「何に誘っても断らないね」と言ってみると、秋原君は「まあね」と口元を斜めにする。「誰が誘っても断らない?」少し意地悪なことを自覚しつつも尋ねると、彼は「断りたい相手は断るよ」と回答。「そうだね。私も断りたい相手に誘われたら断るよ」と前置きしてから「秋原君が、私を誘うことはないね」と言ってみる。

「何か食べて帰ろうか」

「それ、さっき私が誘ったじゃん」

 二人で顔を見合わせてから、同時に笑う。

 こういう会話が楽しいと感じている私がいる。

 食事中、次の日曜日に水族館に行こうと誘われて、私は了承した。

 私が秋原君のことを好きだったらしい、という噂は今の彼の中で、どの程度生きているのだろうか。まだ、私が彼に恋をして、それがすでに終わっている、と思っているのだろうか。

 私の恋は終わっていないし、始まってもいなかった。

 それどころか、どうやらこれから始まるらしい。

 いや、始まっていた。だとしたら、いつ、どのタイミングで始まったのだろう。

 それでも、現在進行形で始まっていることには違いなかった。

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