(下)

 パンセロン家が没落したのは、アベルが大学を卒業してミシリエ製鋼に入社してから、4か月程経った頃のことだった。

 この頃のセルノント州は、航空母艦「アンナリーザ」就役に伴う「アンナリーザ艦隊計画」完了によって好況が下火となり、それどころかその後の帝国財政健全化策による軍縮でグールンフォール海軍工廠こうしょうが艦艇建造や兵器製造を縮小したことで好況前の水準を下回るようになっていた。

 この為、各貴族家は収入の維持に躍起になってしまい、またこれまで巧妙に隠すことが出来ていた不正が漏れ出るようになっていたのである。


 元々、パンセロン伯爵家は身内に甘いといっても寄子の下位貴族や富裕平民に対しても高慢な面があり、扱いの悪い家と良い家がはっきりしていた。フォルタン家は扱いの良い家であり、ミシリエ家もそのおまけであまり悪い待遇ではなかった。

 一方、その間に立ってしまっている家というのも存在する。

 クレマン子爵家はその典型例で、特別扱いが悪いわけではないが、良いともいえず、何よりパンセロン伯爵主導の不正蓄財の片棒を担わされている家であった。

 だからこそであったのだろう。

 クレマン子爵は正義感が強かった節があり、不正について度々伯爵に意見していた。その為、いい加減彼をしたいと考えたパンセロン伯爵は、全ての罪をクレマン子爵に押し付けて、子爵を幼い令息に交代させようとした。

 それを察知したクレマン子爵は、伯爵がそれを実行に移すより前に内務省と司法省に内部告発。

 商務省や産業省、挙句に財務省内国税務局の官僚までもが絡む一大不正事件が発覚してしまい、更に不正蓄財以外の違法取引や贈収賄、共謀等が続々と出てきた結果、その主導的立場であったパンセロン伯爵は逮捕――失脚した。

 パンセロン家は取り潰しとなり、当主であるパンセロン伯爵は身分剥奪の上で懲役刑。セルノント州は皇室直轄領となり、内務省の代官が代わりに統治者となった。

 伯爵の妻子も貴族の身分を剥奪され、妻の兄の援助で首都商業区に移住した。

 マリアンヌの夫、エリジオは離縁状をたたき付けて失踪した。故郷に帰って本来の想い人と一緒になったのではないか、というのが専らのうわさである。

 余談ではあるが、このエリジオはマリアンヌにとっては3人目の婚約者であった。高等学校の5年間で、2度に渡って婚約解消していたのだ。最初に婚約したミローネ子爵令息とは5年生の直前に、次に婚約したコンデ男爵令息とは卒業の間際に。最終的に結婚に至ったのが、コンデ男爵令息の次に婚約したバンキエリ子爵令息エリジオだったということだ。

 それも、彼は別地方の子爵家の長男という立場で、平民の少女との婚約があったが、顔がマリアンヌの好みであったということで婚約を申し込まれ、泣く泣く婚約を解消、家督も弟に譲り、マリアンヌと結婚したという経緯である。

 アベルも何度か会ったことがあったが、元々の寡黙な性格に加えて無理矢理結婚した妻と居る時はやや表情が硬いという印象を受けた。

 この為、マリアンヌがエリジオを拘束する家の力を失った瞬間、彼は見事に逃げ出した、というわけだ。


 さて、告発したクレマン子爵もでは済まず、というより自ら「帝国の為とはいえ寄親に対する忠義に反した」として爵位と領地を返上し、平民の身となった。

 その他、不正に関わった多くの貴族家に懲役刑や罰金刑が科され、当主の交代も相次いだ。

 フォルタン家も罰金刑を受けてラザールの父が隠居に入り、ラザールが新たなフォルタン子爵となった。それに加えて保有していた鉄鉱山で労働者の待遇について労働争議を起こされ、賃金の引き上げに合意せざるを得なくなり、罰金と利益損失によって家自体が傾きかけている。

 ミシリエ製鋼にとって幸いだったのは、フォルタン子爵は確かに出資元だが、「アンナリーザ艦隊計画」の好況の際に売り出したミシリエ製鋼の株式をほとんど獲得していなかったことによって株式割合的に彼らはそんなに重要でもなくなっており、原料の調達先もフォルタン家が保有するドナトゥーロの鉱山だけでなく、ベネトー男爵家の保有する鉱山もあった為、フォルタン家が傾いても大した損害を受けなかったことである。

 リディの実家であり、原料調達の取引先でもあるベネトー家は、一応捜査は受けたが、パンセロン家からあまり優遇された家でもなかった為、不正に関与していたわけでもなく、刑罰は受けなかったし、リディの兄が迎え入れた妻は他の地方の令嬢だったので文字通り関係がなかった。

 高位貴族の取り潰しはアルジェンタン蜂起を起こしたペイネット侯爵以来、実に75年ぶりで、帝国を揺るがす大事件となったのだが、ミシリエ製鋼とアベルの生活は別に変らない。

 というより、この年はアベルの大学卒業直後に彼とリディとの間に長男のシリルが産まれており、彼らは頭の上で起きた騒動に気を払う余裕があまりなかった。


 アベルの身近で、最も大きく環境が変わったのはラザールの妻オディルだ。

 オディルの実家はかなりの額の罰金刑が科せられ、当主も交代した。その新当主が、彼女の一番上の姉だったのだ。

 彼女らの姉妹仲は最悪の一言に尽き、特に折り合いの悪かった長姉はオディルに対して事実上の絶縁を宣言。

 元々険悪な関係にあった夫ラザールがフォルタン家当主になったことに加え、実家とのつながりをも否定されたことで、彼女は本当に立場を失ってしまった。

 そうして当主交代から半年程でラザールとオディルの離縁の話はまとまってしまい、オディルはフォルタン家から追い出された。後妻には当時既にラザールとの子を1人産んでしまっていた女中のクララが迎え入れられた。

 その後の彼女の行方はよく分からない。

 否、よく分からなかった。

 離縁の件をラザールから聞かされてから約1か月後、セルノント市内の酒場でそれらしい人物を見かけた、と会社の同僚に聞いてから数日後に起きたその事件の時までは。


「……警察を呼んでくれ。刃物を持った女が、家の前に居る」

「は、はい、旦那様」


 雨の降る夕方、仕事から帰宅したアベルが息子のシリルを抱くリディと談笑しながら夕食を待っていた時。

 呼び鈴が鳴ったので対応に出た玄関先に立っていたのは、薄汚い婦人服姿で雨衣も身に着けず、びしょれの女だった。手にはゴミ捨て場から拾ってきたのではないかという程にび付いた肉切包丁を握り締め、肌に張り付いた髪の隙間からのぞく暗い碧眼へきがんが不気味に光っているような気がした。

 さながら幽霊のような姿の女に驚愕きょうがくする間もなく、アベルは扉を閉じた。直後、扉を叩く音と共に聞き覚えのある声が彼を呼ぶ。


「アベル……! ここを開けて……!」


 オディルだった。かつてのような張りはなく、酒焼けしたようなしわがれた声であったが、間違いなくオディルであった。

 丁度食堂に夕食を運ぼうと廊下に出てきていた初老の女中に警察への通報を指示し、玄関に鍵をかける。

 シリルを抱き上げたリディが不安げな表情でその様子をうかがっていた。


「リディ、シリルを連れて2階へ」


 シリルを抱いて階段を上っていく彼女の後姿を横目に、アベルは玄関へと向き直る。


「オディルさん、何のご用ですか」

「夫婦の問題を解決したわ……! ラザールとは別れたの! ねぇ、アベル! もう私は独り身なのよ!」


 話が見えない。

 確かに数年前に「ラザールと夫婦の問題を解決するまで家には上げない」と言い渡してはいたが、離縁したからといって受け入れるかはまた別の話だ。

 ましてや、ボロボロの姿で刃物を持っているというのは、来訪を拒否する充分な理由といえるだろう。

 その旨をどう説明したものか、アベルが悩んでいる間にもオディルは外で怒鳴り続ける。


「私と一緒になりましょうよ、アベル! 私と結婚しましょう!」


 ――彼女は一体何を言っているんだ?


 オディルの言葉に理解が追い付かず、思考が止まって黙り込んでしまったアベルに代わって、怒鳴り返したのは彼の妻だった。


「ふざけないで! 帰って頂戴! 彼は私の夫なのよ!」

「リディ! あんたこそあたしが首都に行ってる間にアベルを横から盗ったくせに!」


 リディがそれ程に声を荒げたのを、アベルは初めて聞いた。

 それから数分間、玄関の外と階段の上とで金切声の応酬が続いたが、やがて玄関の外の声は消えた。

 どうやらオディルは諦めて帰ったようだ、と胸をで下ろしたのも束の間。

 居間の方から、硝子の割れる大きな音が響いた。


 ――やられたっ!


 来訪を拒否されたにも関わらず、どうしても他人の家に入り込みたい人間が馬鹿正直に玄関から入ろうとするとは限らない。しかも、居間には電話機があって、そこでは初老の女中が警察に電話をかけている最中だ。

 それを思い出して声を掛けようとした矢先、初老の女中が慌てて居間から飛び出してきて、居間の扉を閉めようとした。

 しかし、一歩遅かった。中途半端に開いた扉は勢いをつけた体当たりで全開にされ、悲鳴と共に女中が弾き飛ばされる。

 その横で、どこにそんな元気があるのか、妙に溌溂はつらつとした様子で、びしょ濡れの女は立ち上がった。手には相変わらず錆びた肉切包丁が握られている。


「見つけたぁ……アベル……!」


 最早狂気すら感じるその姿に、アベルは思わず戦慄し、しかしひるんだ様子を見せまいと堪え、馬を落ち着かせる時のように手を前にかざす。


「落ち着いてくれ……きっと今あなたは冷静じゃないんだ。一旦落ち着いて、冷静に考えてみてくれ。こんなことしたって、何にもならない」


 諭すように、なだめるように、可能な限り刺激しないように、声を掛けるが、オディルはゆらりと一歩踏み出した。

 アベルは一歩後退る。オディルはまた一歩踏み出す。


「オディル!」


 それが2度続いた辺りで、階段の上からリディの声が響いた。

 アベルは思わずそちらを見上げる。オディルも同じように声の主を見上げた。

 2階の廊下から、リディの険しい視線と、回転式拳銃の銃口がオディルを捉えていた。護身用にと、寝室の戸棚に入れていたものだ。実用する機会が訪れてしまったことが、アベルは内心残念でならなかった。


「帰って! もう警察を呼んだわ! 捕まりたくないなら帰って頂戴!」


 リディの声に、オディルが動じる様子はない。拳銃の撃鉄を起こす音にも、動じない。リディの人差指はもう拳銃の引き金にかかっているし、銃口は小刻みに震えながらも完全にオディルを捉えている。

 それでも、彼女はリディをにらんだまま、動かなかった。


「ッ――!」


 その睨み合いがどのくらい続いたのか、アベルは正確に測れなかった。

 オディルがリディから目を逸らし、アベルにまた一歩踏み出そうとした直後、乾いた炸裂さくれつ音と共に、オディルが悲鳴を上げてもんどりうった。

 2発目、3発目と発砲は続くが、いずれも床に跳弾する音が響き、その間にのたうち回りながらも立ち上がったオディルは左足を引きりながら居間へと転がり込んで行く。

 と、アベルの目の前でリディが転げ落ちるように階段を降りてきて、拳銃を薄暗い居間へと向けると、また発砲した。

 続けて2発、3発。

 そこで弾が切れ、がちん、がちんと撃鉄が撃針を叩く音だけが響く。半狂乱のリディが繰り返し引き金を引き続けている音だった。


「リディ、リディ、もういい、もういいんだ。彼女は逃げてった」


 アベルが横からリディを抱き寄せると、歯を食い縛っていた彼女の表情が弛緩しかんした。激しく息をする肩を摩り、涙が胸元を濡らすのも構わず抱き締める。

 女中がそっと居間の扉を締め、取っ手にほうきを挟んで封鎖した。

 リディの嗚咽おえつと外から微かに聞こえる雨音、硝煙のにおい、そして廊下に放置された台車から漂う夕食の汁物の場違いな香りが辺りを支配していた。

 それから地方警察が到着するまで15分程。アベルはその時間を、リディの指を解してその手から拳銃を引き離させることに費やした。2階の寝室で泣き出したシリルは女中があやしてくれた。


 オディルは翌朝見つかった。

 一晩中振り続けた雨で消えかけていたが、アベル達の家の庭には彼女のものと見られる血痕が道標のように残されており、それを辿たどった先、家の前の側溝の中で死亡しているのを警察官が発見したのだ。

 死因は失血死で、左ももに受けた拳銃弾が動脈を傷付け、庭先までは何とか逃げたが、そこで側溝に落ち、失血と低体温で動けなくなったのだろうということだった。

 撃ったのはリディではあったが、正当防衛であるとされ、罪には問われなかった。

 だが、それでも人を――それも顔見知りを殺害したという事実は温厚な彼女にとって相当な衝撃であり、当分の間塞ぎ込んでいた。

 オディルの遺体は実家が引き取りを拒否し、ラザールも勿論もちろん拒否した為、彼女は犯罪人としてセルノント市内の教会でひっそりと葬られた。

 手続きしたのはアベルだったので、念の為に火葬と納骨には立ち会うことにしていたが、意外なことにリディもこれに同席すると言い出した。

 散々困らされたとはいえ、一応友人ではあったし、直接引導を渡したのは自分であるという責任感によるものらしかった。


 結局、何がオディルをあのような行動に走らせたのか。

 神官の手によって集団墓地へと納められていく納骨箱をしかと見届けていても、その答えは分からなかった。



        *        *        *



 オディルの事件があってから2年程。

 アベルが25歳の誕生日を迎えたこの年の10月、帝国と北方の連邦との間にある帝国の衛星国、アーテリア大公国で紛争が勃発した。

 士官学校卒業後、セルノント州に駐屯する歩兵部隊に勤務していた弟のバジルは、週末に自宅に帰ることが出来なくなったと電話を寄越してきており、家族全員が彼の身を案じていた。

 一方でアベルの仕事もやや性質が変わってきており、ミシリエ製鋼が新たに開設した首都の事務所の副所長の役職に就いた為、妻子を連れて首都へと移り住んでいた。

 リディはオディルの事件からは立ち直っていたが、次男のダミアンを出産してから体調を崩しており、アベルとしては出来れば無理をさせたくなかったが、当人が強く希望したので結局首都の借家に家族で移り住んだ。元のミシリエ家別邸は手放しておらず、相変わらず初老の女中が管理している。


 そんなある日のことであった。

 首都の事務所の社員が社用の乗用車で交通事故を起こし、病院送りとなった。

 それだけでなく、その社員は病院に運び込まれるまでの間、近くの高級娼館しょうかんで手当てを受けたという。

 この為、アベルは事務所の所長と共に、その高級娼館へ謝意を伝えに向かうこととなった。

 その高級娼館は、アベルも何度か入ったことのある店だった。娼館といっても、性的な接待だけを提供しているわけではなく、高級酒場として取引先への接待や内密の相談を行うことも出来る店であり、社交場としてここに入り浸る株主も少なくないからだ。

 かといって、彼はこの店に所属している娼婦しょうふの顔触れを把握しているわけではない。

 寧ろ、取引先への接待や株主との打ち合わせ以外で利用したことがなかったので、よく株主が侍らせている娼婦の人物像など気にも留めていなかった。


「こんにちは、お兄さん」


 自分を客と勘違いしたのか言い寄ってきた娼婦を振り払おうとしたアベルは、その娼婦の顔を見て思わず息をんだ。

 その娼婦の顔は元々整った造形を更に化粧で引き立たせていて、とても美しかったし、彼の腕に押し付けられた肢体は豊満で、客として来ている大抵の男ならばこれだけで彼女を今宵の相手に選んでいただろう。

 だが、アベルが息を呑んだのはそのような理由からではない。


 ――マリアンヌ・パンセロン……!


 それはかつての領主の娘であった。

 あの美しさ、妖艶さに加えて、どこか凄味のようなものすら感じ取れる程に成長してはいたが、初等学校高等科で毎日のように、そして数年前まで何度か社交界で見ていたあの姿。

 あのマリアンヌが、高級娼婦として立っていた。

 相手が自分であると気付いていないのか、とアベルは少しばかりの安堵あんどを覚えながら身を翻して振り払う。

 いずれにせよ、今日は客として来ているわけではないし、妻子が居るので娼婦を買う気もない。

 その旨を伝えようとした時、彼の前に回り込んだマリアンヌがその手をつかみ、覗き込んでくる。彼女の表情は、先程の高級娼婦の蠱惑こわく的な笑顔ではなく、伯爵令嬢マリアンヌ・パンセロンの獰猛どうもうな笑顔に変わっていた。


「やっぱり――アベルね。アベル・ミシリエ」


 マリアンヌは、覚えていた。

 驚愕と震撼しんかん。アベルの身体が思わず硬直する。


「私のことを忘れたなんて言わせないわよ。あれだけ良くしてやったんですもの」


 初等学校高等科の時の話か、それとも――


「会社は順調なようね。私のお陰で」


 実は「アンナリーザ艦隊計画」の時、グールンフォール海軍工廠の鋼材調達先にミシリエ製鋼が入ったのは、パンセロン家がした為だった。

 ミシリエ製鋼はセルノント州内では大手だが、パンセロン家が抱えていた製鋼会社には劣っていたし、州内には他に貴族が直接経営する製鋼会社もあったので、平民のミシリエ家が経営するミシリエ製鋼は本来グールンフォール海軍工廠には選ばれないはずであった。

 しかし、アベルのことが気に入っていたマリアンヌが思い付きでミシリエ製鋼を推し、娘の我儘わがままかなえてしまうパンセロン伯爵は「その程度なら」とグールンフォール海軍工廠にミシリエ製鋼を紹介したのだ。

 その後本当に契約を勝ち取り、好況中から好況後も安定して経営しているのはミシリエ製鋼経営陣の努力の賜物であるが、切欠を作ったのはマリアンヌであることに違いはない。

 アベル達はその自覚があったからこそ、没落後放置していたマリアンヌに後ろめたいところがあった。


「奥さんは元気? あのオディルとかいう女は?」


 リディについてはかく、オディルの名前が出た時、アベルは再び緊張に固まった。


「リディは、元気ですよ、お陰様で。オディルさんは……亡くなりました、2年前に」


 オディルの事件はパンセロン家が没落し、マリアンヌが母の実家を頼って首都に移ってから半年程の時期であった為、セルノント市の片隅で起きた些末さまつな事件のことなど把握する余裕もなかったのであろう。

 彼女は「へぇ」と一言発した後、クスリと笑った。


「良かったじゃない。鬱陶しかったでしょ? 私も嫌いだったのよ。だから、フォルタンのとこに押し付けたの」

「は、何を――」

「あなたをベネトーの女に盗られたのはちょっと不本意だったけど、まぁもういいわ。あなたのこと好きだったけど、最初から叶わぬ恋だったのよ、きっと」


 マリアンヌが楽し気に話す内容を、アベルは半ば理解出来ずにいた。

 聞けば、彼女は初等学校高等科でアベルのことを気に入り、一時は彼を寄子の貴族家に養子に取らせて貴族にし、結婚することまで考えていたという。

 しかし自分が我儘を通す為には結局のところ家の力が必要であることを理解していた彼女は、それよりは高等学校で家柄の良い夫を探し、アベルは愛人にでも、と考えた。

 そして取り巻きの中でも地位が高く、明らかにアベルに気がある、つまり恋敵となりそうだったオディルを、ラザールの結婚相手に押し込んだ。因みにマリアンヌ自身はラザールのことは内心嫌いだったが、アベルの親友らしいので優しくしてやっただけだという。

 しかし、それが彼女の最初の誤算だった。

 マリアンヌが首都の国立高等学校で夫を選んでいた間に、アベルはリディと婚約してしまった。リディのことはそのような度胸はないと踏んで、全く警戒していなかったのだ。

 なので高等学校3年生の終わり、アベルがリディと婚約したことを知ると、大いに驚愕した。その足で地元に飛んで帰り、彼らが出席する夜会を掴むとそこに飛び入り参加し、その目で確かめたのである。それが、例の夜会での遭遇であった。


「なんかね、に落ちちゃったのよ。お似合いだなって」


 自嘲的な、どこか寂し気な笑顔。

 彼女にとって人生初の失恋であり、敗北であり、しかし屈辱ではなかった。得るべき敗北、という帝国の文学作品に登場した言葉を思い浮かべ、正にそれだと思った。それ程までに、並び立つアベルとリディの姿に納得してしまったのだという。

 だから、彼女は忘れようとした。

 初恋のことを忘れ、良い男を夫に迎え入れようとした。

 だが、それもまた彼女の誤算であった。


「自分で言うのもなんだけど、私は恋の多い女よ。セルジオにも、ラミロにも、エリジオにも、恋をしたのは本当。顔が良かったし、家柄も手頃だったし、結婚相手には丁度良かったの。でもね」


 み締めるように、しかし淡々と、自信ありげに語る彼女に、アベルは返す言葉を見つけられないでいた。


「あなたのことを、忘れられなかった。私にとって、あなたはだったのよ。あなたが欲しいんじゃない。あなたに幸せでいて欲しい。そう思ってしまった」


 他の者にはいくらでも横暴に振舞い、欲しいものは例え自由を奪ってでも自分の手中に収めたかったが、アベルだけは、そうすることが出来なかった。

 彼が幸せであれば、その隣に居るのが自分でなくても良い。

 そう思えてしまう、唯一の存在だったというのだ。


「あれはきっと、恋じゃなくて、愛だったのよ。私はあなたを心から愛してしまっていたの」


 自嘲的な笑みは鳴りを潜め、再び彼女の顔にはあの高慢な表情が戻っていた。

 マリアンヌと接した数多くの人間の間で、彼女は紛れもない悪女であると評されている。アベルもそう思っていた。実際、彼以外の人間に対する彼女はそうであったのだろう。

 今も過去の自分の行いに対する反省や後悔等は一切見せず、同時に同情や憐憫れんびんを誘うような弱さも見せてはいなかった。彼女は常にそう振舞って生きてきたのだ。

 だが、話を聞いているアベルにとっては、それがまた痛々しかった。

 傍若無人であることに違いはないが、彼女は自分の得られるものを気の向くままに得ていたに過ぎない。

 それが出来ない存在――彼女自身が線引きし、彼女自身にとっても犯し難い聖域こそが、彼であった。

 他者を常に道具か玩具か何かとしか見ていなかった彼女の中で、彼だけがであり続けていたのだ。


「ね、私を買わない? あなた相手ならお酒だけじゃなくて、寝台を一緒にしても良い――寧ろ、お願いしたいくらい」


 虚無的な笑みを浮かべながらアベルの手を取る彼女は、かつての悪辣な伯爵令嬢ではなく、実ることのない恋を愛と呼んですがる女の顔をしていた。それを指摘されるまでもなく自覚しているという顔でもあった。

 今日は仕事で来ているから。リディが居るから。あなたを愛することは出来ないから。

 幾らでも浮かぶ断る理由を胸に、アベルはただ無言で目を伏せた。


「……そうよね」


 マリアンヌは、静かに笑った。

 穏やかな笑みだった。



        *        *        *



 マリアンヌ・パンセロンが職場である高級娼館の階段で足を踏み外し、転落死したという記事が新聞に載ったのは、アベルが高級娼館で彼女と邂逅かいこうしたあの日から4日後のことであった。

 元伯爵令嬢が高級娼館で働いており、事故死したというのは平時であればそれなりに大きな記事になったのかもしれないが、新聞も世間も同日に起きたアーテリア大公国での紛争への連邦の介入、それに伴う帝国軍の部分動員開始の話題で持ち切りとなっており、彼女の死亡記事は誰も注目しないような、小さな記事であった。

 元セルノント州領主の娘の死亡なのでミシリエ製鋼の社内では話題になるかと思いきや、寧ろバジルの部隊が出征するのか否かという話の方が大きな話題となっていた。

 アベルも無論紛争の話題の方が気になってはいたが、それはそれとして、その記事で彼女の死を知り、首都商業区の教会にてひっそりと行われた葬儀に会社として弔電を送った。


 マリアンヌの死を知った日の晩、マリアンヌのいうところの「勝者」であるリディは、寝室でアベルの胸に顔を埋めながら、震えた声で言った。


「私を悪女と呼んで頂戴。私はオディルも、マリアンヌも、心の奥底で呪っていたの。一昨年オディルが死んだ時も、今日マリアンヌの死を聞いた時も、私の中に彼女らの死を喜ぶ私が居たの。結婚は出来たけど、私は全然安心出来なかったの。あなたを信用し切れていなかったのよ。それが今、彼女らの死で、本当に、心底安心してしまった。ごめんなさい、こんな妻で、こんな母親でごめんなさい」


 それをと呼んで良いものか、アベルには分からなかった。

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伯爵令嬢の転落 十二領 海里 @12ley

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