(中)

 高等学校3年生の終わり、6月の終業から9月の進級までの長期休暇期間は、帝国貴族の社交期とほぼ重なる。

 ミシリエ家は平民なので関係がない、というわけでもなく、下位貴族の夜会等は富裕平民にも招待状が届くことがある。

 7月半ばのある日、アベルはセルノント州内のとある男爵家の夜会に参列していた。

 無論、リディも同席していたし、ラザールも国立高等学校に通っているが故に普段は会わないという婚約者であるオディルを連れていた。

 主催の男爵が演説を打って、乾杯の後にアベルが最初の一杯を干した頃、会場がにわかに騒めいた。


「マリアンヌ様だ」


 別の招待客と談笑していたラザールが会場の出入り口に目をやり、つぶやく。

 半世紀前に皇位にあった女帝のように堂々と、しかしどこか繊細な足取りで入場してきた、一際華やかな雰囲気の少女。

 整った顔立ちにきらびやかな化粧を乗せ、派手だがのない礼装に身を包むその少女に、流石のアベルも一瞬見惚みとれてしまった。

 初等学校高等科以来、3年ぶりの邂逅かいこうであった。


 アベルはリディを連れ、そっと壁に寄る。

 マリアンヌは美しい容姿とは裏腹に、その性格は実に苛烈で、特に平民には容赦がないというのは有名な話であったし、初等学校高等科時代の経験からそれは事実であると知っていた。彼女の怒りに触れて一生モノの傷を負わされた上で伯爵家から物理的に放り出された女中も居るという話はよく知られている。

 また、気に入らない相手であれば下位貴族の子女でもその標的にはなり得、母親とそろってあることないことうわさして相手の家を傾けてしまうことすらあった。

 そんな横暴で、しかもはるかに格上の人物に無暗に近寄るような度胸は、アベルにもリディにもなかった。


「これはこれは、マリアンヌ様。ご機嫌麗しゅう……」


 マリアンヌは会場を一回りし、その行く先々で挨拶を受ける。

 今日は機嫌が良いのか、顔には微笑を浮かべ、物腰も柔らかだった。

 彼女は社交界での立ち振る舞いとしては高位貴族の令嬢にしてはかなりな方だといわれ、会場内を歩き回ることを好むらしい。そもそも一般的な令嬢が社交界に顔を出すのは13歳が一つの目安だといわれているので、11歳で出始めている彼女は性格としてもせっかちなのではないかと、アベルは思っていた。

 いずれにせよ、その性質はアベル達のような、彼女とあまりになりたくはないという人間にしてみれば厄介なものである。

 彼らが内心抱いていた危惧通り、やがてマリアンヌは彼らの前にもやってきてしまった。


「マリアンヌ様、本日はご機嫌麗しく」

「ええ、ごきげんよう」


 アベルがリディと並んで恭しく頭を下げながら挨拶すると、マリアンヌも楽し気に応じる。

 社交界の慣習というのは面倒なもので、会話は上位の者が口を開くまで待たねばならないのに、挨拶は下位の者が先に口を開かねばならない。そのくせ挨拶自体は上位の者が無言で促してから初めて行うことが出来るというのだ。

 富裕平民同士ならばこうした慣習はなく、下位貴族が平民と接する時もあまり気にしない傾向にあるので、アベルはこの貴族の慣習というものが苦手であった。

 無論そんなことをおくびにも出さず、挨拶は終わったと思って顔を上げたアベルであったが、目の前の上位者が一向に立ち去らないので、内心困ってしまった。


「……あのぅ、私達に、何か……?」


 マリアンヌは何か考え込むような表情で、アベルの顔を見上げている。アベル達の方がマリアンヌより2歳上で、アベルはやや長身でもあった為、直立していれば彼女からは見上げられることになる。それがまた、彼にとっては居心地が悪かった。


「あなた、アベルよね」

「は……ミシリエ製鋼の、アベル・ミシリエです。こちらは婚約者のリディ・ベネトー嬢です。初等学校高等科で、ご一緒させていただきました」

「ベネトー男爵?」

「は、はい」

「ふーん……」


 リディが返事をしても、マリアンヌの碧眼へきがんはアベルの顔を捉えたまま動かない。

 何か機嫌を損ねるようなことをしてしまったか、それとも純粋に気にわないことでもあったか。流石に寄親の一人娘相手では、ラザールに助けを求めることも出来ない。

 そうこう考えている内に、マリアンヌは興味が失せたとでもいうようにアベルの顔から視線を外し、「お幸せにね」とだけ言うとそのまま去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、2人は思わず安堵あんどの息を吐く。

 リディは初等学校高等科で一緒だったので、アベルがその頃マリアンヌに気に入られていたことを知っている。

 そしてマリアンヌがその苛烈な性格を剥き出しにするのは、大抵誰かが彼女のものに手を出した時なのだ。この「彼女のもの」には友人や恋人も含まれ、国立高等学校では彼女のお気に入りの男子生徒に交際を申し込んだ平民の女子生徒は退学に追い込まれたという。

 そんな彼女に気に入られていたアベルと婚約しているというのは見方によってはことになる。

 婚約時に少しばかり頭を過らなかったでもなかったが、気にしないようにしていたことを今更に思い出して、リディは震え上がっていた。

 だがしかし、どうやらマリアンヌは特に気にしていない様子だった。

 それはアベルにもリディにも、両家の面々にとっても幸いなことだった。


 マリアンヌはその年の秋、国立高等学校の3年生に進級して早々に婚約を発表した。相手は、別の地方の子爵令息とのことであった。



        *        *        *



 アベルとリディが婚約した頃から約5年間、セルノント州は好景気に沸いた。

 元々帝国西部の一大鉄鋼生産地であるこの地域は、帝国軍が大型兵器を調達する度に好況となる。西部最大の軍港を母港とする外洋艦隊に大型艦艇が導入される時は猶更だった。


 航空母艦の建造。

 帝国海軍にとってそれは装甲巡洋艦を改装した実験艦以外では初めて手にする艦種であり、そして完成すれば設計段階から空母として設計された世界で2番目の航空母艦となる。

 その空母に随伴する軽巡洋艦と駆逐艦の建造も含め、一連の艦隊整備計画はかつて軍政改革を大幅に進めた女帝の名を採って「アンナリーザ艦隊計画」と通称された。

 その偉大な事業を担うグールンフォール海軍工廠こうしょうが鋼材の発注先の1つとして選んだのが、アベルの実家であるミシリエ製鋼だったのである。


 高等学校を卒業したアベルは、国立セルノント産業大学に進学した。

 そこで製鋼技術と金属加工技術を学びながら、片手間に経営学も研究した。

 その直前、入学前の夏にリディと結婚した。

 リディは高等学校時代からアベルが住んでいたセルノント市内のミシリエ家別邸に移り住み、ミシリエ製鋼に非正規の事務員として雇われたが、この仕事は週に2日程度の出勤で、どちらかといえば貴族の娘としての社交の方に力を入れ始めた。将来、ミシリエ製鋼の社長夫人となる為に人脈を確保したいと意気込んでのことである。

 次期ベネトー男爵である彼女の兄とその妻も、アベルとミシリエ家に対して好意的であり、この2人の人脈もあって、アベルの交友関係は更に広げることが出来た。

 何より大学はセルノント市内で、高等学校時代と同じくミシリエ家の別邸から通うことが出来た為、研究や演習の為に泊りがけで出かける時以外は毎日のようにリディと会うことが出来、夫婦の時間を確保することが出来た。

 また、この年に弟のバジルは陸軍士官学校へと入校した。卒業任官後に6年間の勤務で予備役入りする予備士官課程ではあるが、ミシリエ家から軍人を出したことにより、アベルは大学卒業後も徴兵対象者から外されることとなった。

 アベルの人生は、正に順風満帆といえたであろう。


 しかしその頃、彼の親友たるところの、ラザールは少々問題を抱えていた。


「お帰りなさいませ、アベル様。お帰りになられて早々ですが、その……オディル・フォルタン様がお見えです」

「またか……」


 リディとの結婚生活が始まって1年余り。

 いつも通り帰宅したアベルは、玄関を潜り抜けて早々に初老の女中から聞いた言葉に思わず渋い顔をした。

 ミシリエ家の別邸があるのは、産業大学からはやや遠いが自動車で通う分には全く苦にならない程度には近い住宅街で、寧ろ市街地から少し外れた立地は閑静で住み良い地区といえた。本宅のあるドナトゥーロも自動車で1時間も飛ばせば辿たどり着くので、週末には実家で両親と会うことも出来た。

 この別邸の使用人は僅かに2名。リディがベネトー家から連れてきた初老の女中と、通いの中年の女中だけだが、2人とも優秀な能力の持ち主で、アベルもリディもこうした環境を用意した各々の両親と使用人達に常に感謝していた。

 そんな慎ましやかながらも静かで幸福な空間を度々乱していたのが、ラザールの妻オディルである。


 ラザールとオディルはやはり高等学校卒業直後に結婚した。

 しかし、アベル夫妻とは対照的に、彼らの結婚生活は全く以て上手くいっていなかったのである。

 オディルは同じセルノント州内の子爵家の3女だが、同じ子爵とはいえ家格的にフォルタン家より格上の家であることに加え、当人らの気質的に全く馬が合わないらしく、ほとんど家庭内別居も同然の状態だった。

 食事も別々、寝室も別々、平日だろうが休日だろうが2人の間に殆ど会話はなく、それどころか会うことも少なく、時々顔を合わせれば些細ささいなことから衝突し、口論の挙句にオディルはしてしまう。

 その家出先は、いつもアベル達の家であった。

 ラザールは次期フォルタン子爵なので、当然ながら領地であるドナトゥーロの本宅に居を移している。そこで日々子爵としての教育を受けているのだ。

 先述の通り、ドナトゥーロからセルノント市までは自動車で1時間余りかかる距離であり、決して気紛れに行き来するような距離ではないのだが、オディルは夫婦喧嘩げんかをすると決まってこの1時間の行程を踏んでアベル達の家に転がり込んできていた。

 無論、彼女1人で来るわけではない。彼女は自動車を自分で運転出来ないので、護衛を兼ねた執事と、身の回りの世話をする女中が一緒だ。大抵は同じ2人組だが、女中だけの場合もあれば、執事だけの場合もある。

 いずれにせよ、何の前触れもなく来るので、アベル達にとっては堪ったものではない。

 唐突な来訪といえども客人として扱わねばならず、大抵はアベルかリディとの茶会を希望するのでそれを用意しなければならない。それが度々――1か月に2回から3回はある。

 その対応をしつつ、フォルタン家に電話をかける。初めの内はフォルタン家の使用人がこれまた1時間自動車を飛ばして迎えに来ていたが、その内ラザールもフォルタン子爵も面倒になったのか、徐々に迎えも寄越さなくなり、ある時にはラザールが「オディルの好きな時に帰らせれば良い」と、使用人から受話器を取り上げて言い放った。

 その上、オディルはアベルへの好意を隠そうともしないのだ。

 そもそも彼女が逃走先にアベル達の家を選んでいるのもアベルに好意を抱いている為である。

 こればかりはリディも心穏やかではいられず、オディルが家に来た時には必ず彼女自身が同席するようになり、あまり効果が見受けられないとはいえそれなりの牽制けんせいをし出した。

 ラザールもこのことには薄々気付いているようだが、それを気にしてはおらず、寧ろそれを理由にオディルとの離縁を画策している節すらあった。

 そのくせ彼自身は未だに女中のクララと関係を持っている様子で、流石にアベルもあきれてしまった。


 ――冗談ではない!


 アベルはリディを愛しているし、他の女性と関係を持つ気もないのだ。

 何とかラザールときちんと話し合いをしようと考えていたが、好景気が故にいつも忙し気な彼はまともに取り合ってくれず、オディルの滞在時間は延び続け、遂には1泊か2泊するようになっていた。

 彼女は身勝手なもので、夫婦を応接室に夜遅くまで拘束することも珍しくなく、時には寝室にまで入ってきた。当然、食事や入浴、着替えの用意もしてやらねばならない。

 ラザール夫妻にアベル夫妻は苦しめられ続けているといっても過言ではなかったのだ。


「オディルさんは上か?」

「はい。奥様とお話しておられます」

「……会う前に、フォルタン家に電話だ」

「お越しの際に一度かけておりますが……」

「いや、今日は僕が話す」


 声に怒気が乗っていたのだろう。

 アベルの静かな声に、初老の女中は恭しく頭を下げ、早足に居間の扉を開く。電話機があるのはこの居間だけだ。

 オディルの家出とアベル宅への訪問が頻発するようになってから、双方の対応は段々と簡素化されていき、今やアベルが直接フォルタン家へ電話をかける機会は少ない。

 フォルタン家側も使用人だけでの対応が多く、最早オディルの身柄に関しては双方の使用人のみで行われるやり取りで決められる状態となっていた。

 電話使用料も安くないので、可能な限り簡略化が進められた結果である。


「フォルタン子爵家ですね。少々お待ちください」


 セルノント市から市外へ電話をかける際は交換台を通す必要がある。交換手の声を聴き、その接続の待ち時間が普通に電話をかける時よりも格段に短いことに、アベルはこれまた苛立った。

 電話交換手達にも覚えられてしまっているのだ。彼らにはその内容も傍受出来るのだから、当然このも知られていることになる。


「ラザール様ですか? ラザール様は今……あッ」


 数回の呼び出し音の後、電話に出たのはクララだった。

 普通にしゃべり出したかと思えたが、次の瞬間には湿った吐息と小さな嬌声きょうせいが入り混じる。

 アベルの手元で、日用の手帳がクシャリと潰れた。


「そこに居るんだな。代わってくれないか」

「い、いま、立て込んでいると、ところでして、ッ……!」

「知らない。代わってくれ」


 最早苛立ちを隠さなくなったアベルの声色が伝わったのか、クララの声が遠のいた。

 代わりに、ラザールの陽気な声が飛び込んでくる。


「何だよ、今ところだったのに。アベル? 久し振りだな?」

「ああ、ああ、そうだね。こうして話すのは久し振りだ」


 出来るだけ苛立ちを抑えながら、最近会っていなかった親友への挨拶を済ませ、次には怒れる家主として口を開こうとしたが、それはラザールに遮られた。


「オディルのことだろ? もう聞いてるよ。悪いが、いつも通り、あいつが帰るまで、置いてやってくれよ」


 アベルからの電話――というより、自分の妻を何だと思っているというのか。

 ラザールは飄々ひょうひょうと言い放ち、その間も電話越しに小さくクララの嬌声が聞こえており、心なしか彼の呼吸も若干荒かった。


「ラザール、いい加減にしてくれ」


 怒り、というより最早呆れだった。

 予想はしていたのだが、いざ実際に言い放たれると怒りが音を立てて抜けていくようだった。


「あくまで君の為に言うが、奥さんと一度きちんと話をするべきだ。君がどう思おうが、彼女がどう思っていようが、君達は夫婦だろう。そちらで話し合って折り合いをつけてくれ。頼むから――」


 電話越しに、これまでより高く甘い嬌声が聞こえた。

 思わずアベルも眉をひそめ、言葉を切ってしまう。


「分かった、分かった」


 呼吸を整えるように、しかし面倒臭そうに、ラザールが返事をする。

 アベルは溜息ためいきを吐いた。


「必要なら僕らが仲介しても良い。だけど、いずれにしても君達は君達で折り合いをつけるべきだ。こんなこと続けてたって、いつまで経っても何も解決しないだろう? 悪いけど、次からはオディルさんを家には上げられない。そちらで折り合いをつけるまではね」

「分かったよ……」


 怒気をはらみながらも落ち着いたアベルの声に、本気の怒りを感じたらしいラザールは流石にひるんだ様子で返事をしながら電話を切った。

 また1度溜息を吐き、アベルは受話器を置く。

 その時。


「電話はお終い? アベル?」


 背後から肩をつかむ繊細な手と、甘ったるい声に彼は思わず身体を硬直させた。

 恐る恐る振り向くと、当たってほしくなかった予想が当たる。

 いつの間にか、オディルが背後に立っていたのだ。彼女の後ろで、初老の女中が申し訳なさげに頭を下げている。


「酷いこと言ってたじゃない? もう私を家に上げないとか何とか?」


 アベルの頬に手をやって顔を寄せようとするオディル。その手を取って押し返しながら、居間の扉の方へと一歩移動するアベル。

 彼女は整った容姿の持ち主ではあるが、それだけだ。高等学校での成績は下から数えた方が早かったという噂だし、その立ち振る舞いからセルノント州内ではかく、首都での社交界では評判が良くない。

 何より、既婚者でありながら既婚者に迫ろうという性質が、アベルにしてみれば最悪だった。


「オディルさん。これははっきりと申し上げておきたいのですが、これは我が家の門扉を閉ざすというお話ではありません。私共はあなた方ご夫婦の問題はあなた方ご夫婦で解決していただきたいだけなのです」


 可能な限り真剣な声色で言ったのだが、オディルはどこ吹く風といった様子だった。それどころかアベルの首に腕を回し、また顔を寄せた。


「オディルさん、なんて余所余所しい呼び方はやめて。夫婦の問題? それならすぐに解決したって良いわ。結婚してもう1年、未だに子供が居ないんですもの。来年も再来年も、きっと居ないわ」


 ラザールもオディルも、結婚生活の継続を望んでなどいない。

 実は政略結婚の多い貴族の間ではそう珍しいことでもなく、大抵はどこかで折り合いをつけてそれなりにやっていくものだが、どうしてもそれが出来ないということもある。

 だが、政略結婚である以上、そう簡単に離縁が出来ないのも事実だ。離縁するにはそれなりの理由が必要で、ましてやお互い何かしらの見返りがあってのこととなれば双方が納得出来る、かつ傷付かない理由にしたい。離縁した後も家同士の付き合いは続けたい、というのが人情だ。

 そこで穏便に離縁する理由として、数年間の結婚生活で子供が1人も出来なかった為、というものがある。

 女系でも男系でも相続可能で、何ならば赤の他人を養子として引き取って相続させても良いという、西方国家群や東方大陸の貴族からしてみれば杜撰ずさん極まりない体制の帝国貴族ではあるが、それでも一応財産相続には血縁が優先される。

 なので、何年経っても子供が出来ない、というのは離縁するに足る理由となった。といっても、帝国貴族法にも帝国婚姻法にも定められているわけではないので、具体的に何年と決まっているわけでもなく、ただ慣習として3年、と一般的にいわれているだけではあったが。

 ラザールとオディルが結婚して1年余り。2人の間に子供はない。

 夫婦の営みが殆どないのだから当然だ。こうも気が合わない相手同士での結婚も珍しいだろう。


「それも――確かに一つの解決でしょう。ですが、それならそれで、その手続きが先です」


 自身の口元に近付くオディルの唇を指先で押し止め、首に回された腕もそっと解いて距離を取る。

 丁度、扉からリディが入ってきたので、その肩を優しく抱く。オディルはお手洗いに行くと言って席を立っていたらしく、要するにリディを欺いてここに来ていたのだと、アベルは後から聞いた。


「それまではあなたを我が家に入れることは出来ません。申し訳ないのですが、本日はお引き取り願えますか」


 アベルがはっきりとそう言うと、オディルはばつの悪そうな顔で「はいはい」と返事をし、居間から出て行き、自分が連れてきた女中の名を呼びながら玄関へと歩いて行った。

 応接室の前で待機していたらしい彼女の女中が慌てて後を追い、暫くすると外から自動車の発動機の音が聞こえてくる。

 その間、2人はずっと居間の入り口から玄関を眺めていた。

 自動車の音が遠ざかり、はたとリディが溜息を吐く。


「アベル……彼ら、大丈夫かしら……」

「……分からない」


 本当に、分からなかった。

 てっきり離縁の話が進んでしまうのかと思われたその日以来、オディルがアベル達の家に来ることはなくなったし、フォルタン子爵家の令息が離縁したなどという話を聞くこともなかった。

 社交界で出会う2人はこれまで通り、最低限の付添いはある程度の典型的な仮面夫婦のそれだったし、ラザールを訪ねてフォルタン家邸宅を訪問してもオディルと会うことはなかった。


 ラザールとオディルの婚姻が両家の利益になるので結ばれたものとはいえ、元々はマリアンヌの思い付きに端を発しているということをアベルが知ったのは、また少し後の話である。

 日頃からオディルは「マリアンヌ様に言われたから結婚してやったのに」などという愚痴を零していたことを知ってはいたが、何かしらの言葉のあやであると思っていたのだ。

 オディルはマリアンヌの取り巻きとして国立高等学校に進学した身ではあったが、初等学校高等科の頃からアベルのことが好きだったのだとも度々言っていた。

 後の事件のことを思えば、この時もっとくぎを刺しておくか、完全に関係を断っておくかすべきだったと、アベルとリディは後悔することとなる。

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