伯爵令嬢の転落

十二領 海里

(上)

 所用で訪れた帝国首都の高級娼館しょうかんで、自分を客と勘違いしたのか言い寄ってきた娼婦しょうふを振り払おうとしたアベルは、その娼婦の顔を見て思わず息をんだ。

 その娼婦の顔は元々整った造形を更に化粧で引き立たせていて、とても美しかったし、彼の腕に押し付けられた肢体は豊満で、客として来ている大抵の男ならばこれだけで彼女を今宵の相手に選んでいただろう。

 だが、アベルが息を呑んだのはそのような理由からではない。

 その娼婦の顔に、あまりにも見覚えと、悪しき記憶があった為だ。



        *        *        *



 アベル・ミシリエは、帝国中西部のセルノント州に居を構える中規模製鋼会社、ミシリエ製鋼の創業者一族の長男である。

 鉄鉱業とそれに付随する数々の産業で栄えるセルノント州においても大手の部類に入るミシリエ製鋼創業者一族であるミシリエ家は、爵位こそないが貴族との付き合いが多く、特に工場のある街ドナトゥーロを治める領主にして最大の出資元であるフォルタン子爵家との関係が深かった。

 アベルも当然例外ではなく、殊にフォルタン家の一人息子であるラザールとは年齢が同じで初等学校から高等学校卒業まで一緒だった為、傍目からは幼馴染おさななじみの親友同士に見えていただろう。


 だがしかし、アベルは内心では彼のことが苦手だった。

 それは州領主のパンセロン伯爵を始めとする、この州の貴族達の姿勢に原因がある。

 パンセロン伯爵家は、伝統的に古典派の厳格な貴族なのだが、当代のパンセロン伯爵はそれを悪い意味に履き違えた悪徳貴族であった。

 帝国における各州の統治機構は、行政権の一切を取り仕切る高位貴族である領主と、市民の投票によって選ばれた議員で構成される州議会から成るが、後者の法的な権限は一般的な二元代表制とは比べるのも烏滸おこがましい程に弱く、精々領主に対して意見を行う程度の権限しか持たない。要するに基本的には封建制なのである。

 それでも大抵の州は領主が州議会によく耳を傾け、市民が求める形での統治を目指す努力をしている。それは、地方自治法で州議会の定期的な開催が義務付けられていること、州議会が中央政府内務省に対して監査等を要請することが出来る制度があること等といった制度上の理由もあるが、州議会の意見は概ね市民からの陳情である為、円滑で効率的な統治が容易くなるという実際的な理由が大きい。

 だが、パンセロン伯爵が統治するセルノント州は別だった。

 州議会の議員はパンセロン伯爵の寄子の貴族や子飼いの企業主で埋められ、市民の意見など届こうはずもなかった。

 市民からの不満が少なかったのは、偏にセルノント州が周辺地域の中では経済的に恵まれた州で、平民の生活水準も帝国の平均より上だったからに過ぎない。


 パンセロン家とその寄子の貴族達はその多くが平民に対して横柄で、そして犯罪紛いの行いも多かった。

 一方、平民の中でも裕福な家――特に鉱山や製鋼関係の重役は、どちらかといえば貴族側として扱われていた。

 悪党というのは身内に甘いもので、こうした家は他の平民とは明確に違う扱われ方をしていたのだ。

 ミシリエ家も2代前の主人の妹をフォルタン子爵家に嫁を出しており、アベルとラザールははとこでもあったので、フォルタン家はミシリエ家を身内と見做みなし、ラザールも他の平民に横暴な一方でアベルのことは純粋に友人だと思っていたようだった。

 だが、平民と貴族、という線引きではアベルも平民だ。その自覚があったからこそ、いつしか彼はラザールのことを内心で恐れ始めていた。いつかそこらの平民に向ける横暴さを、ミシリエ家にも向けるのではないかと。

 その懸念が現実のものとなることは遂になかったが、アベルは今でもラザールとの数々のを思い出す。苦い記憶である。


 ラザール・フォルタンは控え目に言っても我儘わがままで粗暴な子供であった。

 特に初等学校はフォルタン家の領地であったこともあり、その令息である彼はそれが許される立場にあった為、常にアベルとその弟バジルを引き連れ、王様のように振舞っていた。

 当然、アベルの4年間の初等学校生活はラザールとの時間が中心で、彼の数々の暴挙を真横で見ている日々であった。バジルは2歳下でラザールと一緒になったのは2年間だった為、まだマシだっただろう。

 そう思える程に、ラザールの振舞いは横暴だった。他の児童に横柄に接し、時には暴力を振るい、そのことについて教員からの叱責もほとんどなかった。

 流石に行き過ぎれば父フォルタン子爵がなだめもするが、彼らがする被害者への補填といえば専ら金銭的なもので、それ以降のちょっとした精神的な補填等は概ねアベルとバジルか、ミシリエ家が担う羽目になった。アベルは担任の教員に何度頭を下げたか分からない程だ。


 さて、帝国の一般的な貴族子女、特に当主となる可能性の高い長男は初等学校を卒業すると初等学校高等科へ進学し、高等学校へ進むことが多い。その先の大学へ進学するかは人によるが、少なくとも高等学校は卒業するのが圧倒的多数である。

 フォルタン家の一人息子であるラザールもその例に漏れず、ドナトゥーロ初等学校を卒業すると州都セルノント市のセルノント初等学校高等科へ進学した。州内で唯一高等科を持つ初等学校だった為だ。

 当然の如く、アベルも同じ初等学校高等科へ進んだ。フォルタン家の要請で連れて行かれた、といっても良かった。

 そして、ここの2年生になった年、ラザールは一時大人しくなる。

 セルノント州領主パンセロン伯爵の娘、マリアンヌ・パンセロンが1学年下に入ってきた為だ。

 1学年下の女子児童といえど、寄親の娘である。

 しかも、マリアンヌはラザールに勝るとも劣らない高慢かつ横暴な気質の持ち主であった。


「あなたがアベル・ミシリエ? ふーん……」


 マリアンヌ・パンセロンとの初遭遇。

 それは2年生になったばかりの秋口にアベルとラザールが教室で談笑している時だった。

 2年生の教室に、突如としてマリアンヌが取り巻きを引き連れて乗り込んできたのだ。

 そして気圧される周囲の児童達を横目にずんずんとアベルの前までやってきて、確かめるようにジロジロと彼の顔を観察し、やがて思い付いたようにパンと手を鳴らした。


「良いわ。今日から、私の傍に居なさい」


 暴挙だった。

 流石にラザールもこれには抗議――というより諫言かんげんした。

 マリアンヌはそれで初めて彼に気が付いたとでも言わんばかりに目をやり、ラザールに名乗らせてから「あなたも一緒で良いわ」と面倒臭そうに言った。

 そんな最悪の邂逅かいこうを果たした彼らであったが、元々フォルタン家はパンセロン家からの扱いが悪い家ではなく、ラザール自身も(一人息子なので可能性は低いとはいえ)将来的にはマリアンヌと結婚する可能性のある令息だ。

 なので幾ら横暴で内心気にわないといってもアベル達は彼女の取り巻きになる以外に道がなかった。

 彼らにとって幸いだったのは、彼女がアベルを特に気に入っていたことだ。

 否、アベル自身にしてみればそれほどうれしいことでもなかったが。


 マリアンヌはかなり整った容姿の持ち主で、時に10歳とは思えぬ程の妖艶さを見せることすらあったが、内面はといえば同世代の子供より堪え性のない幼稚さがあり、一方で感性自体は寧ろ非常に早熟ともいえるといういびつさを抱えていた。

 他者に対する優越感を得るという行為に固執している節もあり、初等学校高等科1年生の段階で、アベルを含む数名の男子児童を侍らせたり、取り巻きの女子児童を着飾らせて他の児童と比較して見せたりと、既に悪辣な高位貴族令嬢の片鱗へんりんを見せていた。

 そうした横暴さを隠そうともしない一方、同時に自分のは徹底して隠している節があった。

 自分に降りかかる悪意や嫌いな人物に対しては怒りやパンセロン家の力を以て真っ向から対抗する一方で、刺繍ししゅうの際に指を針で刺してしまったり体育の授業で転んでしまったりといった痛みに対しては、常に気丈に振舞った。廊下で転倒して医務室へ運び込まれた際には取り巻きを医務室から追い出した程である。

 また、一部上級生の間でささやかれていた(少なくともアベルが認識している範囲では、そうした児童は主に2年生だった)彼女の陰口については、甘んじて受け入れている様子であった。無論、直接的に耳にすれば相応の怒りを以て対応してはいたが、そうでなければ何もせず無視を貫いていた。


 アベルはといえば、マリアンヌの一番のお気に入りの取り巻きとして連れ回された。

 昼食休憩の時間になれば彼女の同級生が2年生の教室まで彼を呼び出しに来て昼食に同席し、授業が終われば特に親密な数人の取り巻きと共に茶会や街歩きに連れ出される。

 休日にも度々呼び出され、パンセロン家の邸宅に足を踏み入れたことは1度や2度ではない。

 お陰でマリアンヌに就けられている護衛侍女や女中、執事らにはすっかり顔を覚えられてしまい、ある休日にパンセロン邸の茶会に呼び出された際には門前で待ち構えていた女中から先に声を掛けられてしまった。

 そうした取り巻き生活はアベルが初等学校高等科を卒業してセルノント州立高等学校に進学してから1年間も続き、彼が解放されたのはマリアンヌとその取り巻きが首都の国立高等学校に進学してからのことである。



        *        *        *



 高等学校に進学してから、ラザールはまたになった。1年生の時にはまだマリアンヌがアベルを度々呼び出していたとはいえ、彼女は高等学校の内部自体には無関心だったので、ラザールは水を得た魚のようだった。

 この世代のセルノント州立高等学校にフォルタン家より格上の出身者は居ないので、彼には上級生ですら意見が出来ず、唯一真っ当に意見が出来るのはアベルのような取り巻きの中でも親密な者か、3学年上に居たパンセロン家の女中頭の息子くらいであったのだ。

 この女中頭の息子はパンセロン伯爵のお手付きがあった為に生まれた子供であり、要するにマリアンヌの異母兄だったのだが、不思議なことにパンセロン一家にはある程度受け入れられており、将来的にはパンセロン家の執事として雇用されて重用される可能性が高いということで、ラザールも流石に彼にはがあった。

 といっても、彼は高等学校でのラザールの振舞いには無関心を貫いている節があり、2年生の時にラザールが気に入らない平民の生徒を学校から追い出した際にも何か動くことはなかった。

 この為、セルノント州立高等学校内でラザールは我が世の春と言わんばかりに高等学校生活を謳歌おうかすることが出来たのであった。


 さて、アベルはといえば、相変わらずラザールの取り巻きとして振舞い続けた一方、被害者に対する補填を行うよう動くことが多かった。

 贖罪しょくざい等の為ではなく、ただそうして密かに補填を行って主家が傾かぬよう工作するのも配下の企業を運営する平民の役目であると、父から教わっていた。アベルの父もそうしてきたのだ。

 例えば先述した2年生の時に学校から追い出された平民の生徒とその家族には、別の州への移転の手続きを補助し、帝国南西部の州にある造船所での仕事も紹介した。

 同じようなことは3年生になっても続き、その間アベルとミシリエ家はラザールに振り回され続けたといっても過言ではないだろう。

 アベルが高等学校へ入った年に中等学校へと進んだが故に自分の勉学に励むことの出来たバジルはまだ幸運だったといっても良いかもしれない。


 一方で、この頃のアベルはラザールに振り回されながらも、同級生の男爵令嬢リディ・ベネトーに恋をしていた。

 彼女の実家であるベネトー家はフォルタン領と隣接した鉄鉱山とその作業員村を所領としており、ミシリエ製鋼とも取引があったので、幼い頃から何度か顔を合わせた間柄ではあった。

 そしてその頃から、アベルは自然と彼女の姿を目で追い、時々見せる奥ゆかしい笑顔に気恥ずかしくなり、悲し気な時にはどうにか慰めたいと考えるようになっていた。

 そんな想いが恋心であると自覚したのが、この頃だったのだ。

 リディはどちらかといえば内気で物静かな少女であった。容姿も悪いわけではないが端麗とも言い難く、初等学校高等科時代にマリアンヌの取り巻きとなっていた他の少女らと比べればあまり華やかでもなかった。

 一応彼女自身もラザールの取り巻きではあったのだが、やや距離を置いており、男爵令嬢であるが故にそれが許されていた。

 寧ろ、彼女はアベルの同類ともいえた。

 ベネトー家としてフォルタン家の令息が犯したの補填をする意味は特にないが、それでも彼女はアベルに協力してくれることが多かった。無論、昔から知っている仲であるというのが大きかっただろうが、彼にしてみれば彼女に気を許すには充分な理由といえた。


 そうして高等学校3年生になった秋口。

 アベルの15歳の誕生日に、彼とリディ・ベネトーの婚約がお互いの家から伝えられた。

 彼ら自身の想いとは全く別に、家同士の談議で決まった婚約であったが、2人はこれを素直に喜んだ。実は相思相愛であったことをお互いが知ったのはこの時でもある。

 ラザールもこれについて大いに喜んだ――というより、実はベネトー家とミシリエ家にこの2人の縁談を提案したのはフォルタン家だった。もっと言えば、ラザールが家に働きかけたことだったのだ。

 それを知った時ばかりは、アベルもラザールに感謝した。

 ――だからこそ、その後のラザールを止められなかった。


「な、アベル。今日うちに来いよ」


 婚約から半年程が過ぎた、3月の半ばのことだった。

 ラザールが急なことを言い出すのはよくあることであった。アベルはこういう時に用事があれば断ることの出来る数少ない人間ではあったが、この日は特に何も用事がなかったので、素直に応じた。

 フォルタン家の乗用車に乗せられ、招き入れられるのはセルノント市内のフォルタン家別邸。ラザールは高等学校在学中はここから学校へ通っていた。


「戻ったぞ。アベルが来てるから、さっさと茶を出せ」


 別邸に入るなり、ラザールは使用人達にそう怒鳴った。使用人達は恭しく返事をしながらそれに従い、アベルは応接室に通される。

 これもいつもの流れであった。急なことで使用人達に申し訳ないと内心で思いつつ、低卓に並べられる茶器と菓子を眺めていると、徐にラザールが口を開いた。


「で、リディ嬢とはもうヤッたのか?」

「えっ……」

「婚約者なんだろう? もうヤッたのか?」


 唐突な質問に、アベルは二の句を継げなかった。

 婚約者といえど、結婚前であるからにはその間の性交渉は婚前交渉に当たる。あくまで慣習であって、不貞でない分には違法性は問われず、また娼館の存在等もあるので厳格な高位貴族でもない限りは然程厳しくは言われないものではある。

 だがしかし、アベルとリディは全く清い関係であった。婚約が決まり、お互いの想いを知った時に口付けを交わしたくらいだ。結婚するまで、肉体関係を持つ気もなかった。

 アベルがやや狼狽ろうばいしながらもその旨を語ると、ラザールは次の瞬間には信じ難いことを口にした。


「じゃあさ、うちのクララとヤッてけよ」


 アベルは思わずほうけた顔をしてしまった。

 彼の記憶が正しければ、この別邸に「クララ」という名前の人物は、先程から茶の用意をしている女中しか居ない。

 当人もそれを自覚しているだろう。思わず視線を向けた先、応接室の扉の横に立って待機する彼女は、表情にこそ出さなかったが一瞬ビクリと震えた。

 それからラザールは暫しクララの身体について語った。女中服の下は意外に豊満で劣情をあおるだとか、なぶると品のない声を上げるだとか、そういった内容だったが、アベルの心中は困惑が占めており、彼は小さく相槌あいづちを打ちながら聞き流すことしか出来なかった。


「クララ。こっちに来い」

「はい……ラザール様」


 やがて、ラザールはクララを呼んだ。彼女は平常を保ちつつ、ラザールの傍に立つ。

 クララは彼らより少し年上だが、2人より小柄な体格の持ち主だ。その細い指先が小さく震えているのが、これまたアベルには痛々しかった。

 何より、彼は彼女と過去に何度か会話をしたこともあるのだ。

 ラザールの友人であるという点を除けば、アベルは平民の子である。ラザールの目のないところでの会話は気安いものであったのを、彼らは覚えていた。

 そんな相手を組み敷いて凌辱りょうじょくするようなことは、一生の忘れ得ぬ後悔になるのではないかと思えた。


「……リディに悪いよ」


 アベルが絞り出すようにそう言うと、ラザールは一瞬怪訝けげんな顔をして、次には破顔した。


「娼館で初めてを済ませとく男は多いんだ、気にすることはない。それに、リディ嬢との初夜で恥ずかしい思いをしたくないだろう?」

「それはそうだけど……リディに顔向け出来ないよ」


 クララの顔が強張るのが分かった。彼女とて、アベルの婚約者について無知ではない。ラザールがアベルとリディをこの別邸に招いたこともあるのだ。そこでリディの素性は承知している。

 中流層の平民出身の女中に過ぎない彼女にとって、男爵家の娘に恨まれるようなことは絶対に避けたい事態であった。


「心配するなよ。クララは従順な女だぞ」


 ラザールが立ち上がり、クララをきつく抱き寄せると、小柄な肩が跳ね上がり、彼女の顔色が悪くなるのが見て取れた。

 アベルは小さく深呼吸する。僅か15年半の人生ながら、一生の中でも重大な岐路に立たされているような気がしていた。


「知られる知られないの問題じゃない。リディには誠実で居たいんだ」


 きっぱりと言い張る親友に、流石のラザールも肩をすくめた。


「そうか。なら仕方ないな。でも、その気になったらいつでも言ってくれよな」


 そう言いつつクララの頬に舌をわせるラザールを、アベルは内心で大いに嫌悪した。本来の友人関係であれば芽生えようのない、心の底からの軽蔑であった。

 だが、翌日以降も彼らは親友を続けなければならない。

 アベルが心の内でどう思っていようが、ラザールの認識では彼は無二の親友だったのだ。

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